第十六話 氷



 小黒たちが館を訪れたのはそれから一週間ほど経ったころだった。
「ナマエ! 久しぶり!」
「まあ小黒。元気そうね」
「うん! ナマエも怪我は治った?」
「もうすっかり」
 小黒の後ろには無限もいた。少し居心地悪そうにしている。
「お久しぶりです、無限様」
「ああ」
 無限は軽く頭を下げた。

 ――もう一度会いたいと思っていた。
 その台詞が、また思い起こされる。
 無限とは、山奥の湖で出会ったのが初対面だったと記憶しているが、無限の口ぶりからするともっと以前に出会っていたらしい。ナマエほどではないが、無限も人間にしては長寿の部類に入る。ずっと昔、まだ子供だったころの無限。どんな子供だったのだろうか、きっと小さなころから霊質に恵まれていたのだろう、とナマエは思いを馳せた。

「それからね、こんなことがあって……」
 無限が館長の元へ行っている間、小黒はナマエと洛竹と一緒に過ごしていた。洛竹は空になった小黒の茶杯へお茶を注いでやる。小黒は喋る合間にお菓子を頬張っては、お茶で流していった。
 小黒はナマエが思っていたとおり、洛竹に怒ってはいなかった。牢屋から出られたことを喜び、前と同じように懐いた。洛竹は小黒に謝り、少しだけ風息の話をした。小黒は浮いた足をばたつかせながら、手元に目線を落とした。
「風息、どうしてるかな。会いたいな」
「俺たちもまだ面会できてないんだ」
「早く会いたいね」
 小黒は眉を下げてナマエを見る。ナマエはそうねと頷いて牢のある方角へ顔を向けた。
 それから、小黒は館を離れている間のことを詳しく話してくれた。
「へえ、すごいなあ。大冒険だ」
 小黒の話を聞いて、洛竹は驚いてみせた。半分は任務の話だったが、半分は海に行っただとか、スイカを食べただとか、行楽の話だった。それだけ充実した日々を送れたのだろう、語る小黒の饒舌は止まることを知らないようだった。ナマエは、無限が師匠というよりは父親のように小黒に接していることを知り、微笑ましくなった。
 代わりに、洛竹もナマエと一緒に都市でどのように暮らしているかを語った。寝床は館にあるが、洛竹は仕事を斡旋してもらい、毎日街に出ていた。ナマエは治癒の力を館の妖精たちのために役立て、人間界で大きな事故などあった場合には出張もしていた。
 話が落ち着いてきたころに、無限が戻ってきた。
「そうだ、小黒、館を案内してやろうか。前はすぐに旅立っちゃったんだろ?」
 洛竹が立ち上がると、小黒も飛び跳ねるように椅子から降りた。
「うん! じゃあ師匠、行ってくるね」
「あれ、無限はいいのか?」
「いいの! ね、ナマエ」
 小黒はととととナマエの傍に来ると、その耳元に囁いた。
「師匠はね、ナマエに会いたかったんだよ」
 ナマエが答える前に小黒は部屋の外へ走っていき、洛竹を呼んだ。洛竹は無限とナマエの顔を見てから、小黒を追いかけた。
「小黒、どういうことだよー!」
 無限が所在なさげに立っているので、ナマエはとりあえず椅子をすすめた。
「今、お茶を用意しますわ」
「いえ、それなら私が……」
「大丈夫、ちょっとの火なら問題ありません」
 気を使う無限に笑って見せて、ナマエは台所に行く。無限にはああ言ったが、電気ポットという便利な道具があるので、火を扱うことなくお湯が沸かせるようになっただけだ。
「人間の技術というものはすごいですね。私のような身体でも、不自由がほとんどありません」
「それなら、よかった」
 無限は暖かいお茶を一口すする。
「ここでの生活はどうだ」
「とてもよくしていただいていますわ。みなさん親切で……。館には以前住んでいたことがあるのですが、すっかり変わっておりまして、知らないことばかりですわ。毎日が驚きに満ちています」
「洛竹も一緒に?」
「ええ。他の子たちはまだ牢に……。でも、いつかきっと、みんなでここに住むことができると願っています」
「私も、館長に口添えをしておいたよ」
「まあ、ありがたいことですわ」
「どれほど意味があるかはわからないが」
「そんな、気にかけていただけるだけで充分です」
 直に彼らと敵対した無限自身にそう言ってもらえることは大きいだろう。ナマエは心から感謝を示した。しかしそこで会話が途切れた。ナマエは何か話題を探そうとしたが、無限は落ち着いた様子でお茶を飲むばかりだ。声を掛けて邪魔をするのもはばかられる。だが何も浮かばず、ナマエは青い空をひたすら見上げていた。

 ――もう一度会いたいと思っていた。
 ――師匠はね、ナマエに会いたかったんだよ。

 ふと、その二つの言葉が思い起こされてきた。それと同時に、ナマエの胸にじわりと暖かいものが湧き上がってくる。
「……子供のころ、一度お会いしたとおっしゃっていましたわね」
 そこで、ナマエは訊ねてみることにした。無限は茶杯を置き、ふと笑む。
「ほんの一言二言交わしただけだ。記憶にないのも当然だろう」
「そうでしたの? いつごろかしら。ずっと気になっていて、考えてみたのですけれど」
「……ずっと考えてくれていたのか」
 無限はわずかに目を見開いた。
「妙なことを言った」
「いえ、私の方こそ、思い出せずごめんなさい。でも、まさかあんな山奥までいらしたことが?」
 ナマエはほとんど雪深い森の奥で過ごすことが多かった。小さな子供が迷い込むようなところではない。
「……妖精たちを追いかけていたんだ」
 つと、無限は口を開いた。
「七歳のころ。私は自分に能力があることを知った。人に見えないものを見、人にできないことができた。人間やけものとは違う、妖精という存在に、魅入られていた」
 村のはずれで蝶のような妖精を見付け、追いかけているうちに山奥へ分け入ってしまったと無限は言った。
「あなたは氷の玉座にいらっしゃった」
 物憂げに座り、無限を見て、「迷子のぼうや」と呼びかけた。
「暗くなる前におかえり」
 そして、氷の橇を造った。それに乗ると、一飛びで村に帰り着くことができた。
「……美しい、と思った」
 訥々と語り終えて、無限はぬるくなったお茶を啜った。
 聞いているうちに、ナマエにも過去の情景が蘇っていた。
「あのときの子でしたの……」
 今から振り返ると400年は前のことになる。虚淮にも出会っていないころだ。まだ館で暮らしていたころ。治療のため立ち寄ったとある街にある館の近くの森が故郷を思わせて懐かしく、しばらく滞在していたのだ。
「そのあと、何度かあなたを探して森に入ったが、もう二度と見付けることはできなかった。だから、夢だったのかもしれないと思った。諦めかけていたとき、もう一度あなたに会えた。あなたは毒に侵されやつれていたが、変わらず美しかった」
 無限は茶杯を机に置き、ゆっくりと立ち上がった。
「では、そろそろ」
「師匠ー!」
 無限が言うのと同時に、部屋の外からぱたぱたと走る音が聞こえて、小黒が飛び込んできた。
「行くぞ」
「え、うん! ナマエ、また明日ね!」
「ええ、また……」
 ナマエはどきどきしている胸を押さえながら、小黒に手を振った。二人は一晩だけ館に泊まるのだという。
「ナマエ、また体調悪いのか?」
 そんなナマエの顔を洛竹は覗き込もうとしたが、ナマエは思わず顔を背けてしまった。
「だ、大丈夫よ。なんでもないの」
 そして、それ以上追及される前にそそくさと茶器を片付ける。蛇口をひねり、スポンジで皿を洗う間も、身体の奥で吹雪が吹き荒れるようだった。
「あっ」
 ぱきっと氷の割れる音がして、ナマエは流しを凍らせてしまったことに気が付いた。
「いけない……」
 慌てて氷を解き、食器に傷がついていないことを確かめる。
「だって、あんな話をされたら……」
 頬に手を当てると、ほんのり暖かいような気がした。体温があるはずがないのだが。
「どうすればいいの……?」
 変な顔をしていないかどうか、心を落ち着けるのに苦労して、しばらく洛竹の元へ戻ることができなかった。

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