第十四話 館



「ナマエ! 足に穴が開いてるよ!?」
 立ち上がろうとしてふらついたナマエの破れた裾がめくれ、そこから見える脛に光が当たり、穴から覗く氷の断面が光を反射した。
 ナマエは裾を手で引いて直したがもう遅かった。無限もそれを知って何か言いたげにナマエを見る。
「大丈夫よ。痛くはないから」
 風息の怪我を癒すのに力は使ってしまった。自分の分は、霊質が戻ってくれば自然と塞がると思い放置していた。一週間もすれば傷は目立たなくなるはずだ。しかし、いくら言い聞かせても小黒はたちまち目に涙を溜め、ナマエの服の裾をぎゅっと掴む。
「痛いよ、こんなの、痛いに決まってるよ。無理しちゃだめだよ!」
「小黒」
 本当に痛くないのよ、と言う前に、無限が動いた。ナマエは気付けば無限の腕に持ち上げられ、すっぽりとそこに収まった。横抱きにされた、と気付いたときにはがっちりと固定され、身動きもうまくとれなかった。
「無限様!?」
「館まで送ろう」
「いえ、あの、歩けますので」
 ナマエは真っ赤になって下ろしてもらうよう懇願したが、無限は飄々と歩き出してしまう。
「無限、急いで! ナマエ、すぐに手当してもらおうね」
 小黒にそう言われては、平気だと突っぱねることも難しくなった。ナマエは袖で顔を隠し、早く館について下ろしてもらうことだけしか考えられなかった。
 無限は小黒が着いて来れる程度の速度で軽やかに駆け、館長の元へ到着した。
「無限様」
「ナマエが怪我をしている。逸風は?」
「ここに」
 逸風はすと進み出て、ナマエの怪我の具合を口頭で確認した。ここで裾を広げるのは憚られた。まずは館へ、と言いたいところだったが、館と龍遊を結ぶ霊道が先の戦いで破壊されてしまったため、飛行する大型妖精に乗って向かうことになった。
「私は痛みはありません。小黒たちを先に見てあげてくださいまし」
 ナマエは逸風にそう頼んだ。逸風も頷き、二人の手当を優先した。
 その間に、ナマエは気を整え、破けた服を造物の力で直す。よく見れば足を貫通されたときの穴以外にも、細かく破れていた。こんな姿で無限の前にいたのかと思うと、はしたないことをしたように思えてきた。身形を気にするような場面ではないが。
 虚淮たちは皆執行人に捉えられ、すでに館の牢に収監されているということだった。彼らのことが気がかりで、ナマエは自分の怪我のことをすぐに忘れた。処罰が下されるなら、少しでも軽くしてもらえるよう、訴えなければ。ナマエはそう心に決めた。
 飛行妖精は湖を越え、さざ波を立てながら桟橋の先端に着水した。妖精の背から降りるとき、先に降りていた無限がナマエに手を差し出す。ナマエはここで断るのも申し訳ないと思って、その手に捕まり、そろそろと桟橋に足を付けた。
 小黒は若水に手を引かれて、館を見上げていた。これから彼もナマエも、ここに住むことになる。欄干には無限と館長たちの到着に気付いた妖精たちが顔を並べて手を振っていた。
 無限様、と女性たちの声が聞こえて、ナマエは彼の人望の厚さを知った。長年執行人を務めていることが何よりの証拠だ。彼の強さを目の当たりにした今、彼が人間であるということがどれほどの障害になろうかという気もする。
「では」
 一番後ろを歩いていた無限が、ふいに立ち止まった。ナマエも、小黒も何かと思い振り返る。
「ここでお別れだ」
 それは意外な言葉だった。小黒は驚き、無限の元に走り寄る。
「一緒に住まないの?」
「よく思われてないからな」
 館長の隣にいた鳩爺が、「強すぎる。無限に負けた妖精も多い」と口添えした。ナマエは島を襲撃されたときのことを思い出した。確かに、あのように一方的にねじ伏せられれば、恨みを抱く妖精も出てくるだろう。
「きっと、ここを気に入る」
 無限は小黒に微笑みかけ、踵を返す。
「ときどき様子を見に来る」
 そして歩き出してしまう。館とは反対の方向へと。
 ナマエはその後ろ姿を見送り、静かに頭を下げた。無限がいなけば、風息は思いを遂げていたかもしれない。そうならないでよかったと、今は思う。彼を止めてくれた無限と小黒には、感謝してもし足りなかった。
 無限が遠ざかるにつれ、小黒の頭が下がり、肩が丸まり、震えた。駆け寄ったものかとナマエが案じていると、
「師匠ー!」
 小黒が涙に震える声で叫んだ。
 無限は驚いて足を止める。
「ぼく、師匠と一緒にいても、いいですかぁ!」
 涙を手で拭い、鼻をすすりながら、小黒は一生懸命訴えた。ナマエは、無限が振り返る前に、呼吸を整えるように肩を上下させたのを見逃さなかった。
「……もちろん」
 そして振り返った無限の表情には、優しい笑みが浮かんでいた。
 小黒は喜んで猫の姿のときのように四つ足で無限に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。そんな二人の姿を見て、ナマエの目も潤んでくる。あの子は居場所を見つけられたのだ。
 ナマエの脳裏に、島から大陸への道中の二人の姿が蘇る。初めは敵対していたが、同じ属性であることをきっかけに、少しずつ歩み寄っていったことで、ナマエも人間と妖精の関係について希望を見出すことができた。無限の傍にいるなら、小黒はきっと幸せになれるだろう。
 無限の胸で涙を拭っていた小黒は、ふと腕から降りると、ナマエの元に駆け寄ってきたので、ナマエはしゃがんで小黒と視線を合わせた。
「あのね、ナマエ」
 小黒の目元も丸い頬も小さな鼻の頭も真っ赤になっている。
「ぼく、師匠と一緒に行くよ」
「ええ、それがいいわ」
 小黒の成長を傍で見られないことは残念だが、彼のところにいるのが一番いいだろう。ナマエは小黒の頬を袖で拭ってやる。小黒の体温は熱いくらいだった。
「また来るね!」
 眩しい笑顔と共にそう言い残して、小黒は無限と一緒に飛行妖精に向かう。
 離れていく無限の後ろ姿に、ふと「もう一度会いたいと思っていた」という言葉が思い起こされた。同時に、どくん、とナマエの胸に甘い痺れが走った。あれはどういう意味だったのだろう。それを訊ねてどうしたいのか、自分でもよくわからない。
 離れている間に、じっくり考えよう。彼らはきっと、またここへ戻ってきてくれる。ナマエはその姿が見えなくなるまで二人を見送った。

 館の中に、ナマエは一室を用意してもらった。そこで少しだけ休んでから、館長に会えないか冠萱に訊ねた。冠萱はすぐに館長である潘靖を呼びに行ってくれた。
「館長」
「ナマエさん、ご無沙汰しておりました」
「潘靖さんも、ご健勝でなによりですわ」
 丁寧に挨拶を交わしたあと、ナマエは表情を引き締める。
「お呼び立ていたしましたのは、お願いがあるからです」
「……風息たちの処分についてですね」
「はい」
 ナマエは膝をつき、額が床につくほど頭を下げた。
「どうか寛大な処置をお願いいたします。あの子たちはたくさんの妖精、人間を傷つけ、街を壊し、法を犯しました。しかし、それも故郷である龍遊を取り戻し、妖精たちのための森を改めて育てるためでございました。あの子たちの心情をどうか思いやってくださいまし」
 潘靖はじっとナマエの訴えを聞いた後、頭を上げてくださいとナマエに言い、椅子に座るよう勧めた。ナマエはその勧めを断って立ったまま潘靖の言葉を待った。
 潘靖は難しい表情のまま口を開いた。
「彼らが起こした事件は人間と妖精の関係を揺るがす大きな問題になります。これほど大規模に破壊されたとなれば、妖精の存在を隠すのは難しい。あなたのおっしゃることは理解しますが、彼ら自身がどう考えているのかが、今後の処分を左右するでしょう」
「判断をお下しになるときには、どうか私の言葉をご一考くださいますよう、なにとぞお願い申し上げます」
 ナマエは深く頭を下げて、部屋を辞した。
 処分が決まるまでは、風息たちと会うことはできないと言われてしまった。ナマエには処罰が少しでも軽くなるよう祈るしかできない。
 館での日々は穏やかに過ぎていった。顔見知りもでき、また古い知り合いと再会することもあった。
 まず解放されたのは、洛竹だった。
 洛竹は反抗的な態度もなく、事件当日も戦いに消極的で、逃げに徹していたため、危険性なしと判断されたためだ。
 洛竹にはナマエの近くに部屋が用意された。
「ナマエ姉!」
「洛竹。まあ……元気そうでよかった……」
 ナマエは洛竹の頬を撫でて、目を潤ませる。洛竹も眉を八の字にしてナマエを見つめた。
「ごめん。ナマエ姉。俺たち……」
「もういいのよ。もう、いいの」
 すべては過ぎたことだ。今は洛竹との再会をただ喜びたい。ナマエは首を振って洛竹の言葉を遮り、首に腕を回して抱き寄せた。洛竹も涙を堪えながらナマエをしっかりと抱きしめた。
「俺、みんなと会わせてもらえてないんだ。ナマエ姉は?」
「私もよ。心配ね……。改めて館長にお願いしましょう」
「うん」
 ナマエは洛竹の手を引いて椅子に座らせると、お茶を淹れに席を外した。洛竹は欄干から館の外を見下ろす。周囲を凪いだ水面に囲まれ、空には真っ白な雲が霞のようにかかっている。みんなで過ごしたあの島を思い出して、溜息が零れた。もし、小黒が……領界を持つ妖精が見つからなければ、あのままみんなで暮らしていただろうに。
 みんなで穏やかに暮らすうちに、風息の心が変化することもあったかもしれない、と考えかけたが、洛竹は自分で首を振って打ち消した。風息の意志は固かった。虚淮もそれを支持していた。遅かれ早かれ、こうなったんだろう。だが、そうなる中で、自分にもっとできることはなかっただろうか、とナマエと二人きりになってしまった今後悔ばかりが浮かんできた。
「どうぞ」
 ナマエが盆に茶器と菓子を乗せて戻ってきた。いままでの生活ではあまり食べたことがないものだ。昔、人間たちの祭りに混じったとき、このような点心があったかもしれない。
「ん、うまい」
「よかった。ここで作り方を習ったの」
「え、ナマエ姉の手作り? すごいな」
 ナマエははにかんでお茶を啜った。
「他にもいろいろ教えてもらっているの。あなたも知るべきことがきっとたくさんあるわね」
「うん……これからここで暮らすんだもんな」
 不安がないと言えば嘘になるが、だからといって前途多難とは思わない。ここには兄弟がいるし、何よりナマエと一緒だ。
「きっとあなたも、ここを気に入るわ」
「そうなるといいな」
 二人はゆっくりお茶を飲みながら、風にたなびく白い雲を眺めていた。


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