第十二話 界



 無限が小黒を抱えて戻ってきた。
 彼の腕からはみ出た、ぐったりした手足を見てナマエは最悪の予想に息を飲む。
 無限はナマエに小黒を預けた。
 その小さな身体を手の内に収めると、暖かく、微かに呼吸をしていてナマエはほっと息を吐いた。よかった、まだ息がある。
 だが、猶予もならないほど弱っているのも事実だ。
 風息は禁忌を犯した。
 妖精から術と霊質を奪うという、禁忌を。
「老君のところに」
 無限に潘靖が答える。
「ですが、これは老君でも無理でしょう」
 老君が使えるのは治癒術とは異なる。とはいえ、ナマエのもちいる治癒術でも、今の小黒にしてやれることはなかった。
「どうすればいい」
「領界を取り戻す他ないでしょう」
 空間系の術は霊域と深く関わっている。霊域が欠ければ、本来すぐに命を落としてもおかしくはない。
「小黒を頼む」
 そう言い残して、無限はまた風息を探しに飛んで行ってしまった。ナマエは建物の上で、宵闇に包まれた龍遊の街を見下ろした。このどこかに、奪った領界を持った風息がいる。腕の中を見下ろすと、小黒の短い眉は苦し気に顰められ、小さな呼吸を早い速度で繰り返している。顔色は真っ青だ。
「小黒……」
 命の糸はか細く、かろうじて繋がっているという状況だ。早く風息を見つけなければならない。
 小黒の領界を奪う風息を、洛竹たちはどんな気持ちで見つめていたのだろう、とナマエは張り裂けそうな胸を抑える。このまま手をこまねいているわけにはいかない。ナマエは意を決した。
「私も風息を探しに行きます。逸風、お願いできますか」
「お気をつけて」
 逸風に小黒を預けると、無限が飛んでいった方向とは別の方角へ向けて飛び上がった。
 高いビルの並ぶ街は見晴らしがいいとは言えず、この建物ひとつひとつを探すのは不可能に近い。だが、今風息は領界を展開しようとしているはずだ。そのためにはたくさんの霊質を使う。その霊質の気配さえつかめれば、事はそう難しくない。
 執行人たちは霊力を感じる場所を探し、飛び回る。その先には風息と別れ攪乱するためにばらけた虚淮たちが待ち受けていた。
 執行人たちに風息が見つかるのを一刻でも遅らせ、領界の展開を終わらせるために、四方八方に散らばっていた。ナマエは彼らの霊質をよく知っている。見間違えたりはしない。洛竹の横を過ぎ、天虎の上を通り抜け、遠くに虚淮を感じながら、ようやく異質な霊質に辿り着いた。
 ひときわ大きなその建物に、迷いなく入っていく。
「風息!」
 屋内駐車場に飛び込むと、まっすぐに風息の元へ飛ぶ。
 ようやく見付けた風息の前には、大きな丸い球体が浮かんでいた。嵐の海で見たあの球体そのものだ。ナマエは思わず足を止め、それに見入った。
「それが……領界」
「ナマエ、もうすぐ展開が終わる」
「いけません、それは小黒に戻さねば」
 ナマエが手を伸ばすと同時に付近の天井が崩れ、瓦礫と共に人が降って来た。土埃の中、無限は風息を睨むと手近にあった車を持ち上げぶつけた。風息は間一髪で避けようとしたが衝撃で壁に激突する。
「領界を小黒に返せ」
「……もう安定している。返すのは無理だ。一歩遅かったな!」
 風息は起き上がりながら無限を睨み返した。
「小黒を傷つけておいて、何が妖精のためだ」
「俺は……言い訳はしない」
 それ以上二人は言葉を必要としなかった。互いに金属の剣と木の剣を握り締め、撃ち合う。
 その激しさに、ナマエは目で追うだけで精いっぱいだ。無限に追われ、風息が遠ざかっていった後、残された領界に手を伸ばす。これをどうすれば小黒の元へ戻せるか皆目見当がつかなかった。
 小黒をここに連れてくるしかない、と思った矢先、領界が一気に膨らんだかと思うと、真っ白な光に飲み込まれてしまった。
「……っ」
 眩しさに目を瞑り、少しずつ衝撃が薄れて行って、ようやく目を開ける。
「……ここは……」
 そこは駐車場には違いなかったが、白い壁と天井で覆われていた。
「領界の……」
 それと知らず中へ入ってしまったようだった。白い壁に向かって飛ぶが、目には見えない果てがあり、それ以上先に進むことを阻まれてしまった。
「……出られない」
 ナマエは見えない壁に手をついて、駐車場を振り返った。
 よく見れば、白い壁の中にある車の数が増えていく。領界が広がっているのだ。
 ふいに、足元ががくんと揺れた。揺れは次第に激しくなり、重いものが潰れるような音がする。少しずつ立っている床が沈んでいることに気付いて、ナマエは急いでその場を離れた。
 駐車場から外に出ると、建物自体がすでに領界に飲み込まれていることがわかった。ナマエの見ている前で、建物が少しずつ地面に沈んでいく。基礎が破壊されたかのようだ。建物が沈むのに反して、領界はますます広がっていった。
 ナマエはさらに建物から距離を取り、周囲を確認する。飲み込まれた建物は沈黙しており、車も走っていない。奇妙なことに、人間の姿はまるで見つからなかった。
 人影を探して飛び回っていると、崩れた建物の傍に男性の姿を見つけた。
「風息!」
 ナマエはすぐにその傍に降り立つ。さすがに風息も驚いた顔をした。
「ナマエ。どうしてここに」
「領界に飲まれてしまったの。風息、いますぐ領界を解きなさい」
 風息は視線を鋭くして、首を振った。
「それはできない」
 風息は一歩名前に近づき、手を差し出す。その口元には笑みが浮かんだ。願いがもう少しで叶うことに高揚している。初めて見る風息の表情だった。
「ナマエ。ここはもう俺の領界だ。やっと届くんだ。俺たちの故郷をもう一度森で満たしてやろう」
「風息、それは無理だわ」
 ナマエは一歩あとずさり、否定する。
「できるさ。もうここには誰も入ってこれない」
 ナマエの腕を掴もうとしていた風息は頭上に気配を感じて、ナマエを突き飛ばし、自分も後ろへ跳び下がった。風息がいた場所に、無限が飛び降りてきた。
「無限! 入ってきたな……!」
 ナマエが止める暇もなく、無限は風息に斬りかかる。
「わかってるよな、他人の霊域に入ったらどうなるか!」
「風息、もう諦めろ!」
 無限は金属を操るが、風息はそれを眼前で止めた。金属は空中で空しく回転し、力を失ったようにからんと地面に落ちた。
「ここは俺の霊域だ、お前に勝ち目はない」
 前へ進もうと無限は自分の靴の裏に金属を当て、それを押して推進力とする。風息は木の剣を捨て、領界の力を使って突進してくる無限を押さえつけ、右へと放り投げる。
 今度は無限は風息から距離を取り、ビルの死角から己界でビルを削り、トラックをぶつける。風息は霊爆でこれを爆破させ辛くも避けた。それを見るや、今度はさらに風息から離れ、ナマエでは目でも負えないほどの速さで街を飛び回り、金属を片っ端から剥ぎ取り始めた。
「小黒を傷つけ、仲間も捕まった今、ここを死守して何になる!」
「すべての人間を避難させるのは無理だ! 残ったものを使って交渉すれば、館も応じるしかない!」
「風息、もうやめて。小黒を助けてあげて……!」
 ナマエは声を涸らして訴える。
 無限はかき集めた金属のがらくたを、ビルの上から風息目掛けて投げつけた。物量で圧倒され、風息は身動きが取れなくなる。
 風息は無限の猛攻を逸らすので手一杯だ。まだ完全に領界を掌握できていない。そこに活路を見出して、無限は様々な手を使い風息を追い込もうとした。常人であれば無謀な戦いであったろう。しかし、無限は風息に食らいついた。それが風息から余裕をなくし、領界の拡大が抑えられた。
 だが、風息も押されるばかりではない。少しずつ領界をわがものとしていく。
 そしてついには無限を押さえつけた。
「無限……。お前さえ現れなければ」
 無限の動きを完全に封じ、金属を操ることも禁じて、木の尖った先端を無限に向ける。助けようとナマエも藻掻いたが、指の先すら動かせない。何もできないまま、木の杭が無限に近づいていく。
「小黒は俺のために領界を広げ、妖精の楽園を作っていた。いまごろ、喜んでいただろうさ。だが……叶わなかった!」
「誰が喜ぶって!?」
 その切っ先が無限の胸を貫こうとした瞬間、無限の足元に転がっていた黒い玉、ヘイシュウが突然膨らみ、巨大なクマのような腕が出現し、無限を風息の攻撃から守った。
「何!?」
 腕はすぐに小さくなり、そこには小黒の姿があった。
「小黒!」
 彼の元気な姿に無限もナマエも歓声を上げる。小黒は周囲の瓦礫ごと、風息を吹き飛ばそうとした。力加減を誤ったのか、領界内の重力がぐるりと90度回転する。地面から滑り落ちそうになってナマエは宙へ浮かんで避難した。そのまま小黒のそばへ移動し、赤みの戻った頬にそっと手を添えた。
「小黒、よかった」
「ナマエ!」
 笑顔を向けてくれる小黒に、ナマエは思わず溢れてくる涙を指で拭う。「無事か」と無限と小黒が言葉を交わすうちに、重力の向きがまたぐるりと動いてもとに戻った。
「小黒、風息を倒して、ここから出るぞ」
「でも、さっきのはまぐれで……」
 力の制御を不安に思う小黒に、無限が手を添える。
「ここはお前の霊域だ。何もかもが思い通りになる。それに、私がいる」
 うん、と頷く小黒に、ナマエもそっと寄り添った。
 そして風息に悲し気な目を向ける。
「ありえない……!」
 もうナマエたちの動きを封じることはできなかった。瓦礫を操作し、ぶつけるが、小黒と無限はそれを避けて風息に近づいていく。ナマエは後ろからその戦いを見守った。
 風息は無限に領界の果てに叩きつけられ、血を吐く。ナマエは思わず口元を覆った。それは見るのもつらい戦いだったが、ナマエは見届けなければならなかった。
「お前たち許さん!」
 今できる最大限の力を絞り出し、風息は小黒を吹き飛ばした。まだ力が安定していない小黒は、落下する己の身体をうまくコントロールできない。無限がその小さな身体を腕に抱き、衝撃を和らげようとクレーンを動かす。
 もうだめか、と思わずナマエが目を背けたあと、身体に不思議な感覚があった。
 ナマエの足が、ふわりと地面から浮き上がる。顔を上げれば、瓦礫や車がすべてナマエと同じように浮かんでいた。
「これは……」
 地面には大きな穴が開いていた。無限が己界で削った穴だ。その中心に、小黒を抱えた無限が、同様にふわふわと浮いている。
 無事だ、とナマエはほっと息を吐いた。
「ありえない……っ」
 領界の主導権争いは小黒に軍配が上がった。その事実を見て、風息は呆然と呟く。小黒たちを吹き飛ばそうとするも、それは簡単に小黒に防がれてしまう。終わったか、とナマエは身を乗り出そうとした。
 しかし風息はなおも藻掻き、本来の姿である黒豹となって小黒を殺そうとした。無限が鉄骨を操作してその進路を塞ぐ。
「ぶっ殺……ッ」
 してやる、という言葉は無限が金属で口を塞いだことで音にはならなかった。
 さらに両腕を金属で鉄骨に磔にされ、身動きが取れなくなる。無限は小黒に指示を出した。
「小黒、領界を解くんだ」
「やめろ、小黒!」
 風息は口輪を噛み砕き、悲痛な声をあげる。
「ここではお前が神だ! 一度解除したらもう二度と取り戻せないぞ!」
「いらない」
 風息の訴えを、小黒はにべもなく振り切る。
「小黒、やめてくれ」
 ほとんど懇願になっているその声に小黒は構わない。
「頼む、小黒……」
 その力を失うことを、小黒は迷わなかった。
 白い天井が破れ、夜明けの空が頭上に広がった。
 長い長い夜の終わりに、ナマエは細く長く息を吐く。
「風息……」
 小黒が彼に声を掛けようとして、口ごもる。無限は押し黙っている風息を見下ろした。
「人間を滅ぼすなど無理だ。妖精は、人間と共存していくしかない」
「……共存? こそこそ生きろって?」
 風息は俯き、口元を歪ませる。皮肉げに笑みを浮かべる風息に、無限は言い聞かせるように続ける。
「館でじっくり考えるんだな」
「考えたさ」
 ナマエはその表情に、ふと何かを感じた。そして風息に手を伸ばす。
「……もう、ここを離れたくない」
 木がアスファルトを突き破って生えてくる。
 無限は巻き込まれないよう、小黒を抱き寄せ、後ろへ下がる。
 だがそれは、攻撃のためのものではなかった。
 風息は木々に覆い隠されていく視界の向こうで呆然としている小黒を見て、呟いた。
「小黒、ごめん」
 ナマエは身を投じて、木に包まれていく風息に飛びついた。
「ナマエ!」
 無限の呼ぶ声は伸びた木にかき消された。

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