第十話 離



「……着いた」
 水平線から顔を出した陸地に最初に気付いたのは無限だった。
 筏が着いたのは福蘭省の小香磯だった。ナマエは地理に疎いが、かなり長い時間を航海していたので、島から真西へ向かう航路よりも南下しているはずだ。洛竹の用意した緊急用の出口が通じていた場所からずいぶん離れてしまっただろう。今、彼らはどこにいるだろうか。思えば、こんなに長い時間を離れ離れになるのは初めてだ。ナマエは不安に思いながら岩場に足を下ろした。
 波の打ち寄せる岩場を上がっていくと、海を臨む飯屋があった。無限の提案で、そこで腹ごしらえをすることになった。
 店の中には数人しか客はおらず、ナマエたちは海を見渡せる外側の机に着いた。渡されたメニューを眺めながら、小黒は喜びに足をばたつかせた。海の上ではずっと生魚しか食べられなかったから、ひたすら肉中心の料理を注文していく。ナマエはメニューの見方がわからないので無限に訊ねた。
「これはどんな食べ物ですの?」
「野菜を辛い調味料で炒めたものだ」
「では、これにしますわ」
 いざ運ばれてきたものを口に含んでみると、舌にぴりっとした痛みが走った。果物ばかり食べてきたので、香辛料はほとんど口にしたことがない。
 顔を歪めたナマエに、小黒が水を差しだしてくれた。
「辛い? お水いっぱい飲むといいよ」
「ありがとう、小黒」
 小黒はすぐに目の前の叉焼を頬張りに戻った。ひとつ口に入れては飲み込まないうちから次を突っ込むので、小黒の丸いほっぺはますます大きく膨らんでいた。
 三人とも満腹になるまで平らげて、支払いの段になったが、事件はそこで起こった。無限が懐に手を入れると、出て来たのはすっかり濡れて千切れた紙幣の残骸だった。
「スマホでも払えますよ」
 店員がそう言うので、無限はスマートフォンを取り出したが、海水にやられて電源が入らなかった。
「あ、そういえば」
 それを見て、ナマエは袖から巾着を取り出した。
「風息が、何かあった時にと」
 中には硬貨が入っていた。
「これで足りるでしょうか」
 無限に渡すと、必要な分を数え出し、店員に無事支払いをすることができた。
「ごちそうするって言ったよね」
 どうにか店から出ることができたが、小黒は無限にじとっとした目を向ける。無限は目を反らした。
「……アクシデントだ」
「ナマエ! 早く行こう!」
 ぼそっと呟かれた弁解の言葉をかき消すように小黒はそう言って猫の姿に戻った。ナマエは無限と顔を見合わせる。
「小黒、どこへ行く」
 無限は静かに問うた。小黒は足を止め、振り返る。
「風息を探す」
 ナマエは小黒に目線を合わせるように腰をかがめた。
「小黒、あなたは無限様と先に館へいきなさい。風息たちは、私が探すわ」
「え、でも」
「館で待っていてちょうだい」
 ね、とナマエは言い含めるように微笑んで見せるが、小黒は耳と尻尾を垂らしてしょんぼりとした顔をした。
「やだ。ナマエと一緒に行く」
 そしてキッと無限を睨む。
「こいつとはやだ!」
「まあ、こいつだなんて」
 ナマエは咎めるように首を振り、ふわりと浮かんだ。
「無限様。小黒をお願いいたします」
 無限は頷いて見せた。そのまま行ってしまいそうなナマエに、小黒は慌てて叫ぶ。
「やだよ、ナマエ! もうぼくをひとりにしないで!」
 小さな子猫の悲痛な叫びほど心を抉るものはない。引き裂かれそうな思いにかられながら、それでもナマエは自分を律して、振り切るように飛び上がった。
「これは別れではありません。館でまた会いましょう」
「ナマエー!」
 後ろ髪を引かれながらも、ナマエは飛んだ。すぐに小黒の声は聞こえなくなった。
「きっと、虚淮の霊魚が飛んでいるはず」
 小黒の身体には、洛竹がつけた目印があることを、ナマエは気付いていた。霊道から離れる一瞬の隙につけたのだろう。それを探すためには虚淮の霊魚が必要だ。霊魚を見付ければ、ナマエの霊鳥で虚淮の元へ帰る霊魚の後を追い、居場所を見つけられる。ひとまずは北へ向かうことに決めた。

 四方へ飛ばしていた霊鳥のうち一羽がナマエの元に戻ってきた。霊魚を見付けたようだ。ナマエは霊鳥について飛んでいく。夜間で人の姿もほとんどない田舎だが、気を付けて人目につかないよう高度を上げた。
 見ているのは人だけでなく、妖精……執行人もいる。どこに紛れているかわからないため、用心するに越したことはない。虚淮たちと再会する前に問題を起こすわけにはいかなかった。
 何日かかけて飛び、ナマエはようやく虚淮たちと出会うことができた。そこは人里から少し離れた森の中だった。
「姉様!」
 ナマエの姿を見つけると、虚淮は待たずに飛び上がってきて空中でナマエを出迎えた。
「よかった。ご無事で」
「あなたも。洛竹も天虎も元気そうね」
 下を見下ろすと、洛竹が大きく手を振った。隣には天虎もいる。ナマエは虚淮に手を引かれながらそのそばに着地する。
 そして一人姿が見当たらないことに気付いた。
「風息は?」
「準備をしている」
 虚淮は口元を引き締めて答えた。
「何の……」
 ナマエはいやな予感を覚えつつ訊ねる。虚淮の代わりに洛竹が答えた。
「小黒を取り戻すためだよ! 無限とかいうやつ、すごく強かった。このままぶつかったってどうしようもないよ。ただ、どんな準備してるかは知らないけど……」
 洛竹は首を傾げる。ナマエは虚淮に視線を戻した。虚淮は微かに頷いた。
「無限は小黒を館に連れて行くつもりでしょう」
 虚淮は確認するというよりは、確信を込めてナマエに訊ねた。ナマエは頷いた。
「ええ。だから私は無限様に小黒を預けてきました」
「え! ナマエ姉、どうして」
 洛竹と天虎は狼狽えたが、虚淮は表情を変えなかった。そんな虚淮の顔を、ナマエはまっすぐに見つめる。
「虚淮、洛竹、天虎。あなたたちも、館へ行くのです」
「なんで、急にそんなこと言うんだよ。館なんて行ったら捕まっちゃうじゃないか」
「償うべきは償わなければ。もちろん館長に申し開きをして、事情を汲んでもらった上でだけれど」
「そんな……でも」
 洛竹は困って虚淮を見る。虚淮は眉も動かさずナマエの言葉を聞いている。
「私もかつて、館でお世話になっていたことがあるわ。彼らが人間側についたのは彼らの理由があるからです。いつまでも逃げてはいられません。向き合うときが来たのです。――人間たちと」
「ナマエ姉……」
 洛竹は二の句が継げず黙り込んだ。ナマエは僅かに目を伏せる。
「……島を失ったことは悲しいことです。けれど、私達は新しい場所に行かなければなりません。龍遊以外の……」
 虚淮は眉も動かさず、その顔を見ただけでは、なんの感情も浮かんでいないように見える。よく気を付ければ、わずかに拳に力が込められたのがわかるだろう。
「それはできません、姉様」
 その氷のように冷たい声音に、硬い決意が鋭い響きを持たせていた。
「私たちは、龍遊を取り戻す」

「そうだ」

 ナマエの後ろから、力強い声が掛けられた。
 驚いて振り返ると、風息がまっすぐにナマエを見つめていた。
「だから、教えてくれ、ナマエ。小黒の居場所を」
 ナマエはその瞳を見て、もう遅かったことを感じ取った。風息の表情は硬くなで、悲痛だった。
「……風息」
 思わず涙が目に浮かぶ。こんな顔をさせないために、行動することを決めたのに。
「だめよ、あの子だけは、巻き込まないで」
「あの子がいるからこそ、俺たちに勝算がある」
「風息……」
 その声音にはわずかの綻びもなかった。ナマエが泣いて縋ろうとも、彼は振り切って進んでいくだろう。
 口元を震わせるしかできないナマエに、風息はやや目を伏せ、小さく息を吐く。
「……ずっと考えていたことだ。これ以外に道はないんだ、姉さん」
「そんなこと……」
 何も言えないまま、ナマエは風息から目を背けた。風息もナマエに背を向けた。
「行くぞ」
 その言葉はナマエ以外に掛けられた。軽やかな足音が、あっという間に遠ざかる。ナマエはその場に崩れ落ちた。
「風息……っ」
 もっと強く止めていれば。泣くしかできない自分が情けない。
 本当にもう間に合わないのだろうか。彼は一線を越えてしまった。それでも……それでも、最後まで全うさせるわけには、いかない。
 ナマエは気力を振り絞って立ち上がり、彼らを追いかけた。

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