第七話 敵



 ナマエは風息の発した鋭い警告音を聞いて跳び起きた。
「逃げろ、ナマエ!」
「風息!」
 走る風息の横を、金属片が風を切って追い抜いていった。風息は俊敏に方向を変えて、その追跡を振り切ろうとしている。一体何が起きているのかと目を凝らすナマエの前に、追手が姿を現した。
「……無限様!?」
 一つに縛った黒髪を後ろに流し、まっすぐに風息を捉えているのは、いつか山奥の湖で邂逅した館の執行人だ。ナマエはすぐに二人を追いかけ、氷で無限の足を止めようと試みる。しかし氷は無限を捕らえる前に地面ごと円くくり抜かれてしまった。
「己界……!?」
 生物以外のものをなんでも霊域に飲み込んでしまう空間系の術だ。それに、金属性。手ごわい相手だと瞬時に見抜き、ナマエは足を止める。無限はナマエには目もくれず、風息を追い続ける。
 気が付けば虚淮、洛竹、天虎も目覚めて戦いに加わっていた。
 木と火と氷を使い、四人は次々と無限に技を繰り出す。無限はそのひとつひとつを的確に処理し、火と氷は己界で削り己に少しも触れさせず、己界で削れない木は金属で砕き無力化させた。
「虚淮!」
 その激しい攻撃で、虚淮の左腕が砕かれる。
「無限様、お願いです、おやめください!」
 すさまじい攻撃の応酬に、ナマエの必死の叫びはかき消されてしまう。洛竹が小黒を抱き上げ、ナマエを先導して霊道に向かった。風息が一番後ろを走り、無限の足止めをするため木の壁を生み出した。その隙にナマエたちが走る間も木々が伐採され、倒れる地響きが追いかけてくる。
 なんとか逃げ道を確保して、霊道へ飛び込もうとしたが、小黒が風息を助けに洛竹の腕から飛び出してしまった。ナマエは即座に踵を返し飛んでそのあとを追いかける。
「小黒! ナマエ!」
 洛竹が二人を呼び戻そうとするが、もう間に合わない。
 小黒は巨大な熊のような姿に変化して、無限の前に立ちはだかる。無限はものともせずに一撃でこれを沈め、小黒の身体は一瞬で縮んでぽとんと地面に転がった。
 洛竹と風息が霊道に着いたとき、風息は霊道を壊す選択をした。
「でも、二人が!」
「行け!」
 迫る無限の向こうに倒れた小黒と、駆け寄るナマエの姿を目に焼き付けるようにして、風息は霊道に吸い込まれていった。
 巨大な木が霊道を押し潰して生え、無限はただの壁に戻ってしまった霊道に足止めされた。風息たちが無事に逃げおおせたのを確認して、ナマエは小黒に手を翳す。丸められた背中が大きく上下していた。呼吸していることに深く安堵する。ほどなく掌から白い光が溢れ、小黒を包んだ。治癒術で小黒を癒しているナマエの傍に、無限が現れた。ナマエは顔を背けたまま、静かに溜息を吐く。
「……どうして、このようなことをするのです。私たちは、ただ静かに暮らしていたいだけですわ」
「あなたはそうだろう。だが、彼らはそれではすむまい」
 ナマエには否定できなかった。この島を拠点にして、彼らは人間から故郷を奪い返すことばかり考えている。しかし、どうして無限がこの島に現れたのか。霊道を通る誰かの姿を見られたとしか考えられなかった。法を犯したといっても、ここまでして捕縛しようとするとは思わず、ナマエは改めて風息たちの身を案じた。
「その子は?」
「私たちと同じです」
「……そうか」
 無限は小黒から目を反らし、森を見渡す。
「他に霊道は?」
「お答えできません」
 ナマエは口を閉ざした。風息たちには無事に逃げおおせてほしい。
 無限は空へ飛びあがり、周辺が海であることを確認すると、筏を作り始めた。ナマエの膝元で丸くなっていた小黒が、ぱっと起き上がった。
「風息!」
「小黒、痛いところはない?」
「あっ、ナマエ! 風息たちは?」
 ナマエは首を振った。
「霊道を通り、大陸へ行ったわ。けれど、もう霊道は壊れてしまったの」
「そんな……! 風息!」
 小黒はしょげて耳を垂らしたが、ぱっと駆け出すと霊道があった場所へ向かってしまった。
 ナマエは気の済むようにさせることにして、無限の元へ向かった。無限は砂浜に出て、金属を操り木を数本切り倒しているところだった。
「まだ風息を追うのですか?」
「あなたたちを館に連れて行く。特にナマエ、あなたはまだ体調が万全ではないだろう」
 あの山奥の湖で出会ったことを、彼も覚えているのだとナマエは気付いた。この島で療養してすっかりよくなったことを伝えると、無限は見開いた目を細め、「よかった」と呟いた。
 そこには、冷静に四人の攻撃を捌いていた執行人の顔は影を潜め、ただ無限としての個人的な感情が見て取れた。
「……わかりました」
 島に風息たちが戻ってくる方法はもうなくなった。彼らを探すためにも、島を出なければならないだろう。小黒にはかわいそうなことをした。ナマエは島を振り返る。
 小黒も砂浜に来ていた。初めて見る海に驚いて、手を濡らす海水がしょっぱいことに面食らっていた。無限は彼にも館に来るよう伝え、丸太を組み始める。
 ナマエも移動手段として、氷の術で舟を造った。海面が凍って盛り上がり、小舟の形をとるのをしげしげと眺めていた無限はぽつりと感想を零した。
「良い舟だ」
「けれど、あなた方には冷たすぎるでしょう」
 小黒を乗せてあげることができればよかったが、体温を持つ生き物にとって氷の上にずっといるのは辛いことだろう。
 その小黒は、無限を倒そうと身体を大きくして後ろから飛びつこうと大口を開けたところで、振り返りもせず金属を操った無限にぐるぐる巻きにされてしまった。
「離せよ! ナマエー! 風息たちを探そうよ!」
「もちろんよ。そのためには、まず島を出なければ」
 ナマエは縛めから抜け出そうと身体をくねらす小黒に言い聞かせるようにする。
「どうしてこいつと一緒なの! いやだよ!」
「あなたをこの舟には乗せられないわ」
「ぼく大丈夫だよ!」
 小黒は無限を当然ながら信用していない。
 ナマエもまだ情報が少なく測りかねてはいるが、少なくともナマエをすぐに捕まえようとはしてこない。小黒にしても、暴れるのを抑えるだけで、力づくで言うことを聞かせようというところまではいかないようだ。
 敵意をむき出しにして暴れまわるのを見かねて、無限は小黒を氷の舟に下ろしてやった。小黒は我慢して乗っていたが、肉球が凍り付きそうになって慌てて無限の筏に飛び移った。
「ごめんなさいね」
「ナマエは悪くないよ!」
 申し訳なさそうに謝るナマエに、小黒は慌てて首を振って、無限を睨んだ。
「暖めてあげられたらいいのだけれど。私の身体は氷だから……」
 ナマエは自分の白い手のひらを見下ろした。

 無限の操る金属に押されて、筏は見た目よりも軽快に波の上を疾走した。ナマエは小黒の様子を見られるようにその後ろからついていくが、速度を出すのは思ったよりも難しかった。しばらくは操作に四苦八苦していた。その間に小黒は脱走を図って海に落ちてしまったが、すぐに無限に引き戻されていた。手荒ではあるが、危害を加えることはなさそうだと、ナマエは少し安堵しながら判断する。

「ナマエ、ナマエ!」
 その夜。小黒が冷たさを我慢してナマエの舟に乗り移ってきた。無限は座ったまま休息している。今は筏も止まって波に任せるばかりだった。
「ぼく、ヤシの実に捕まって泳ぐから、島に戻ろう!」
 脱出しようとして海で溺れかけたので諦めたかと思っていたが、どうやらずっと方法を考えていたらしい。今、無限は筏に揺られながら目を閉じている。
「小黒……島に風息たちはいないわ」
「じゃあ、大陸に向かおう!」
「そんな小さなヤシの実では無理よ。また溺れてしまうわ」
「そんなに縛られたいか」
 小声で話していたのだが、無限にはしっかりと聞こえていたらしい。小黒はヤシの実を海に浮かべて浮力を確かめていたが、むすっとしてヤシの実を長い尻尾で放り投げた。

 舟は荒れた空の下に差し掛かった。海が大きくうねり、巨大な波が舟体を激しく揺さぶる。今だけでも冷たいのを我慢してこちらに小黒を移してやろうかとナマエは不安になるが、あっという間に舟は嵐に飲まれ、そう悠長にもしていられなくなってしまった。
 必死に筏にしがみつく小黒の小さな爪が、波に突き上げられてあっさりと外れてしまう。
 あっとナマエが思ったときには、時間が止まったような感覚がした。驚くことに、そのとき小黒を中心にして、黒い球体が広がった。波に落ちることなく宙に浮いている小黒の身体を、無限が金属で引き寄せ腕に抱く。ナマエはそれを視界の端で捉えながら、目の前の現象にほとんど気を取られていた。筏と舟を飲み込んだその球体は、荒波を完全に追い出ていた。
「領界……?」
 無限も驚きを隠せない様子だった。ナマエも風息の言葉を思い出し息を飲む。
「これが……」
 しかし球体はすぐに消えた。
「ナマエ!」
 その空間がすぐに閉じてしまうことを察した無限は、即座に金属片でナマエの背中を押し、筏に乗せた。そのまま筏を金属で押し上げると、波の届かないところまで飛び上がった。ナマエはバランスを崩しそうになった身体を氷で筏に縛り付け、なんとか踏みとどまる。
 小黒は身じろぎしたと思うと、無限の腕の中にいることに気が付き、ぱっと飛び上がってナマエのそばに来て唸り声を上げた。

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