第六話 猫



 風息が頻繁に島を出て都会を渡り歩いている様子は、ナマエもすぐに気が付いた。人の中で暮らす妖精たちと知り合い、情報交換をしているようだった。
 島に落ち着く様子がない風息に、ナマエの心は不安で満たされる。
「いつもどこに行っているの?」
「いろいろさ」
「都会は危ないわ。心配よ」
「大丈夫だよ。ナマエも知ってるだろ。都会にだって住んでる妖精はいる」
「そうだけれど……」
 不安ではあるが、何がどう不安なのか、うまく言葉にできず、ナマエは言葉を切る。都会のことを思うとき、脳裏にあの焼けた家並みが蘇ってしまう。浅ましい人間たちが万が一風息を傷つけることがないかと思うと都会に行くのはやめてほしいと言いたくなる。
 だが、風息は龍遊に戻ることを心に決めている。恐らくこの行動もそのためのものなのだろう。森も残されていない龍遊に今戻っても、人と土地を争うことになりはしないか。ナマエが龍遊に戻ることに気乗りしない一番の理由はそこだった。
 風息も、ナマエや洛竹が人と争うのを好まないことは知っている。
 ナマエだって故郷に帰りたい気持ちはやまやまだが、争いを起こしてまでその意志を貫けるかといえばそうではない。
 できることならこの島で、静かに暮らしていきたい。
 今のナマエの願いはそのひとつだった。


 風息が黒猫の子供を連れてきたのは、そんなときだった。
「まあ、かわいい子」
 小さな子猫の姿を見て、ナマエは頬を蕩けさせた。初めて会った時の風息よりも小さい。人型になっても残っている耳と尻尾を見て、ナマエは懐かしさに小さく微笑んだ。
「私はナマエよ。あなたは?」
「ぼくは小黒だよ」
 小黒は少しはにかんで答えた。はじめは風息の後ろに隠れていたが、気は強いようで、洛竹たちには立ち向かうように向かい合っていた。
 同じく行き場を失った小さな妖精の子供を、ナマエたちは歓待した。緊張した様子だったが、洛竹が持ち前の明るさで彼の強張った頬をほぐし、天虎の焼いた肉の美味しさが小黒の腹を満たした。
 そのおかげで人心地がつき、次第に好奇心の方が勝ってきたようで、小黒は虚淮の横に座るナマエをじっと見つめていた。
「まだ食べたい?」
「ううん! もうお腹いっぱい……。あのね、ナマエの髪はきらきらしているね」
「私たちの身体は氷でできているのよ」
 ナマエが手を差し出すと、小黒は恐る恐るその手に触れて、びくりとして引っ込めた。
「つめたい!」
「ふふ、ね?」
「わぁ……」
 小黒は興味津々でナマエと虚淮を見比べる。
「ふたりはきょうだいなの?」
「そうよ。姉と弟」
「あねと、おとうと……? って、なに?」
「私たちはね、とても近いところで生まれたの。だから似ているのよ。姉弟というのは、猫たちけものが同じお母さんから生まれた子供たちをそう呼ぶのを真似てるの」
「そうなの? みんなもきょうだいなの?」
「そうだ」
 これに答えたのは風息だった。
「俺たちはみんな、同じ森で生まれた兄弟、家族だ。一緒に住むんだから、小黒、君もだよ」
 そう言われて頭をわしわしと撫でられ、小黒は嬉しそうに笑い声をあげた。
 新しい“家族”が生まれることは、もうずっとないことだった。故郷を人間に支配され、森がどんどん小さくなってしまうと、妖精の数もどんどん減り、新たに生まれることはほとんどなくなってしまっていた。
 だから小黒が嬉しいと言ったように、ナマエたちも彼を受け入れることは喜ばしいことだった。
「ぼくの故郷は、人間たちに壊されてしまったんだ」
 だいぶ打ち解けてきて、小黒は風息にそう打ち明けた。
「妖精やけものたちがたくさん暮らしてたのに、みんな住む場所を奪われた」
 ぎゅっと眉根を寄せる表情には苦労が滲んでいて、ナマエは慰めるように小黒に寄り添った。
「私も、虚淮に出会うまではひとりだったわ」
 ナマエが虚淮に目を向けると、虚淮は微かに笑んだ。
「でも、こうしてみんなに会えた。そして小黒、あなたにね」
「……うん!」
 焚火の炎で照らされた小黒の頬は柔らかそうに円かった。こんなに幼い子が、たった一人で都会を彷徨っていたという話はひどく胸に迫るものだった。ナマエには家族がいた。小黒が生き延びたのは運がよかったのもあるだろうし、彼自身の能力も優れていたのだろう。なんにせよ、こうして出会うことができたことは奇跡だ。風息も街中で一人路地裏に隠れていた彼を見過ごすことなどできなかっただろう。彼のためにも、この島を安全な場所にしたい、とナマエは強く願った。

 小黒を寝床に連れて行き、戻ってきた風息の表情は、しかし硬かった。
 薄暗い闇の中、ナマエはその頑なな口元を見上げ、不安になる。
「風息?」
「……ナマエ。あの子は、領界を持っている」
「領界を?」
 風息は強奪という術を持っていた。妖精から霊力と術を奪い、自分のものとする。その力で、小黒自身まだ気が付いていない彼の力を見抜いていた。
 そしてそれは、風息の願いを叶えるために十分な力だった。
 ナマエは何かを企んでいる風息の横顔を見て、恐ろしくなる。震える身体を抑えて立ち上がり、風息の腕を掴んだ。
「いけないわ、風息。あの子はまだあんなに小さいのよ」
「もちろんさ。ただ、俺はあの子に仲間になってほしいんだ」
 風息はやんわりとナマエの手を自分の腕から外し、その掌を自分の骨ばった手で包み込む。そしてナマエの目をまっすぐに覗き込んだ。
「俺たちは助け合っていけると思う。そうじゃないか?」
「それについては私も同じ意見よ。小黒にはここにいてほしい。この島で……」
 ナマエはその手を握り返し、縋るように掌を摩った。
「ねえ、ここを私たちの新しい故郷にしましょう」
「…………」
「風息?」
「……人間たちが戻ってこない間は、な」
 風息は思いつめた表情をしていた。風息の考えがナマエにもわかるような気がした。彼は優しいが、激しいところがある。実際、故郷を取り戻すために人間たちを害した。しかし、小黒にはそんな風に人間と戦ってほしくないとナマエは思う。
 このままこの森で、静かに暮らす。
 しかし、そんなささやかな夢は、無慈悲な金属の鋭利な刃に打ち壊されてしまうのだった。


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