第五話



 朝日が昇り、鳥たちの鳴き声で目を覚ます。朝露に濡れた草がひんやりと足に触れた。
「おはよう、風息」
 大木から飛び降りると、すでに起きていたナマエに挨拶をされた。
「おはよう」
 髪をがしがしと指でかきながら挨拶を返す。
「虚淮は?」
「いつものとこ」
「洛竹と、天虎は?」
「まだ起きてないよ」
「そうか」
 ナマエは立ち上がると、軽く足の筋を伸ばす。
「朝ご飯、取りに行こうか」
「ああ」
 この近くに、山竹の生る木がいくつかある。近頃は、そこから食べる分だけもらってきていた。弟たちが寝ている間に、二人で全員分の山竹を取りに行く。洛竹も天虎も、ここ龍遊で生まれた妖精だった。生まれたばかりで、まだ幼い。それを風息が見つけ、保護した。
「お、いい匂いしてきた」
 木がまだ見えていない距離でも、その甘い匂いがわかった。風息もつられてすんと鼻を鳴らす。
「洛竹も天虎もたくさん食べるから、たくさん持っていかないとな」
 ぶちぶちと手の届く範囲でもぎ取っていたが、ナマエは足元に収穫した山竹を置くと、軽く飛び上がって木の上に登った。
「落とすよー」
「ああ」
 上にある方がおいしそうに見えたらしい。上からぽいぽいと投げてくるので、風息は受け取って左腕に抱えていく。
「もう十分だ!」
「そう?」
 そのまますべてもいでしまうのではないかという勢いでぽいぽいと投げるので、風息は左腕がいっぱいになる前に待ったをかけた。ナマエは木の枝の間から風息が抱えている分を確認すると、ほいっと下に飛び降りて、さきほどもいだ分を拾って風息と並んだ。
「じゃ、帰ろうか」
「ああ」
 洛竹たちが起きるまでまだ時間がある。急いで戻る必要はない。ナマエも走らず、辺りを見ながらゆっくり歩いている。
「もう夏だね」
「そうだな。葉の色が濃くなってきた」
「暑くなるね。でも、南の方はもっと暑かったな」
「もっと暑いのか」
 龍遊の夏も十分暑いから日影が恋しくなるが、それ以上に暑くなるというのは想像がつかなかった。
「どうやって暑さをしのぐんだ」
「そうだな。水浴びをしたりしてたかな」
「それなら、こちらと変わらないな」
「そうだね。うちは虚淮がいるから涼むに困らなくていいな」
 どうしても暑くて耐えられなくなると、虚淮に頼んで氷を出してもらっていた。氷が放つ冷気が夏の暑気を中和してくれてずいぶん楽になるものだ。
 そろそろ家に着くというころ、洛竹が二人の名前を呼んでいる声が聞こえてきて、二人は顔を見合わせて駆け出した。
「風息、ナマエ!」
「洛竹、ここだよ」
「あ! ナマエ!」
 洛竹はナマエを見付けると、頼りなさげに下げていた眉をぱっと持ち上げ、その手に持つ山竹に気がつくと先ほどまでの心細さを忘れ満面の笑みを浮かべた。
「山竹! いっぱいだ!」
「取りに行ってたんだよ。心配させてごめんな」
 ナマエはひとつを洛竹の方へ放り投げる。洛竹は上手く受け止めて、さっそく皮をむいて実をかじった。
「天虎、お待たせ。腹減ったろ」
「うん」
 洛竹の傍には所在なくぺたんと座った天虎がいた。風息は天虎の隣に腰を下ろし、山竹を置くとひとつを手に取って天虎のためにむいてやった。
「虚淮呼んでくる!」
 ナマエはそういうと、ぱっと駆けていった。彼女が術を使うと本当に一瞬で姿が見えなくなってしまう。あれだけ早く移動できれば、確かにこの森だって彼女にとっては窮屈に感じてしまうだろう。ナマエは口にはしないが、やはり出て行きたいと思っているのではないかとの疑念がどうしても拭えずにいた。ナマエが外のことを話すとき、本当に楽しそうな口ぶりになる。きっともっとたくさんのものを見たいはずだ。それをここに留めているのは、自分の幼い約束かと思うと罪悪感がぽつりと浮かぶ。でも、もしかしたら、本当に龍遊の森が気に入って、もうずっとここにいてもいいと考えが変わったのかもしれない。その可能性だってあるはずだ。実のところどう考えているのか、その話題を出したらそのときこそ彼女が出て行ってしまうのではないかと危惧して口を噤んでしまう。洛竹と天虎が増え、森は賑やかになった。みんな大事な兄弟だ。ナマエだって、外から来たからといって、そんなことは関係ない。できることならこのまま、兄弟たちと暮らしていきたい。この龍遊で。
「じゃあ、行ってくる」
 山竹を食べ終わって、立ち上がると、食べている途中だった洛竹が齧りかけの山竹を持ったまま立ち上がった。
「今日はおれも行きたい! 連れてってよ風息!」
「ついて来れるか?」
 風息は笑みを浮かべて訊ねた。洛竹はがんばる! と気合十分な様子だった。洛竹はよく風息の行く先についていきたがった。まだ小さいからとそのたびに残るよう諫めていたが、そろそろいいかもしれない。
「じゃあ、行こう」
「うん! ナマエ、虚淮、天虎、いってくるね!」
 洛竹が手を振ると、天虎まで立ち上がろうとしたので、ナマエは小さな丸い身体を持ち上げると膝の上に乗せてしっかりと抱きしめた。
「天虎は私と遊ぼうな」
「……うん」
 天虎は不満そうだったが、諦めて洛竹と風息に手を振った。ナマエも一緒にひらひらと手を振る。
「気を付けてね」
「ああ」
 軽く走り出した風息に、洛竹は勇んでついて行った。
「風息はいつも森を見て回ってるの?」
「そうだ」
「森って、どれくらい広い?」
「お前の足で周りきれないくらい広い」
「風息だったら周れる?」
「ああ」
 もちろんナマエの方が早く周れるが。と心の中で付け足す。
 洛竹は歩きながらもあちこちに目を向けるので、ふらふらとしている。
「おはよう、みんな、おはよう!」
 木々の間からふわふわと半透明の小精霊が現れて、二人の傍を飛び回る。洛竹は嬉しそうに彼らに挨拶をした。
「あ、棒みっけ!」
 突然走り出したかと思ったらしゃがんで、自分の背丈の半分もある長い棒を掴み取った。それをぶんぶんと振り回し、また風息のあとについて歩く。ずいぶんとご機嫌だ。
「いいものを見付けたな」
「いいでしょ! えへへ」
 今日は洛竹がいるので、いつもの半分ほどの範囲を見回るつもりでいる。大半は何ごともなく家に帰ることになるが、やはりときにはあの野党たちのようなよからぬ人間や、好戦的な妖精と出くわすことがあった。中にはたんなる旅人もいて、善人か悪人か、見ただけでだいたい見当をつけられるようになってきていた。あの村だけではなく、気付いたら人間たちは森を切り開き、どんどん家を建ててあちこちに集落ができていた。それぞれの村と交流はないが、把握はしている。人間たちも、風息たち妖精の存在は感じ取っているようで、森とは一定の距離を置き、その領域を侵さないよう配慮をしていた。人間もまた動物たちのように森に住む命のひとつなのだと風息は受け入れていた。彼らは彼らなりのやり方で文明を築き、興隆していた。彼らは動物のような強さも、妖精のような能力も持っていなかったが、数百人の群れを作り、知恵を使いいろいろな道具を作る利発さがあった。
「風息!」
 大きな樹が並ぶ付近に立ち寄ると、頭上から声が掛かった。ばさばさと羽ばたく音と共に、青い羽根が一枚舞い落ちてくる。
「海角」
 背中に羽の生えた、くちばしを持つ妖精が風息の前に降り立った。この近くを縄張りにしている妖精だ。
「あれ、そのちびは?」
「洛竹だ。俺たちと一緒に暮らしてる」
「へえ、俺、海角だよ。よろしくな」
「洛竹だよ!」
 洛竹は棒を振って海角に挨拶をした。海角は笑って手を振り返すと、風息に向き直った。
「よかったよ、今日会えて」
「何かあったのか」
「いや。ちょっと手狭になってきたからさ。引っ越そうかと思って」
「手狭? ここが?」
 風息は何百年も生きている樹々を見上げて眉を顰める。
「うん、結構近くまで人間が来るようになってさ。この中までは入ってこないが、それも時間の問題な気がして」
「それで、どうしてお前が引っ越すんだ」
 当然、人間たちよりずっと前に海角の方がここにいる。あとからやってきた人間に遠慮する必要はないだろうと言外に風息は唸った。
「人間の中には、俺の姿を見て驚くやつらもいるんだよ。攻撃されそうになったこともあった。別に、負けやしないけどさ。あいつらは数が多い上に、諦めようとしない。いちいち小競り合いになるのも面倒なんだ」
「しかし……」
「ああ、それだけじゃないよ。もっと西に行ってみたいと思ってたんだ。だから、いい機会だと思って、旅に出ようと思うんだ」
「旅……」
 風息の脳裏に、ナマエの顔が浮かんだ。彼が心を決めているなら、引き留める言葉は風息の中にはなかった。
「そろそろ行こうと思っていてね。その前に風息には伝えておきたいと思ってたんだ」
「そうか……」
「寂しくなるが、二度と会えないってわけじゃないさ。みんなにもよろしくな」
「……ああ。お前も、元気で」
「おう!」
 海角はにっと笑うと、風息と腕を軽く当て、挨拶を済ませると飛んで行ってしまった。風息はその姿が見えなくなるまで見送った。
「海角、龍遊を出てっちゃうの?」
 黙ってやりとりを見ていた洛竹が訊ねてくる。風息はうん、と頷いた。
「人間が広がる速度は、思っていたよりも早いかもしれないな……」
「人間って、怖いの?」
 洛竹はまだ人間に会ったことがない。風息は洛竹の頭をぽんと叩いた。
「怖くはないさ。霊質が扱えないから妖精よりずっと弱い。だが、とにかく多いし、道具を使って物の形を変える。他の動物とは違って、俺たちの生活圏に入ってくる可能性がある」
「そしたら、一緒に暮らす?」
「それは……難しいかな」
 一時人の中に混じっていたが、やはり長くそうすることはできないと感じた。人間と妖精では、生き方が違う。
「だが、適切な距離を保っていれば、うまくやっていけるはずだよ」
 必要以上にお互い干渉せず、不可侵を守れれば、今のバランスを保っていられれば。いくら彼らの道具が強力でも、この何百年も育った巨木を切り倒すことはできまい。もし彼らがやりすぎることがあれば、少し脅かして退ける必要はあるかもしれないが。
「そろそろ、帰ろうか」
「うん!」
 お土産に、通り道で見付けた果物を拾っていって、虚淮たちの元へ戻った。そして、海角が旅に出ることを虚淮とナマエに伝えた。
「あの辺まで、もう人間が来てるんだ」
「そうらしい。あいつが出て行く必要はないと思ったんだが」
「優しい子だからね。争いになる前にと思ったんだろう」
 ナマエに不満を漏らすと、想像通りのことを言われた。
「なら、俺が人間を引かせてもいい」
「どうやって?」
「少し脅かせば近寄らなくなるだろう」
 風息は手から木の蔦を伸ばしてみせたが、ナマエは肩を竦めた。
「最近、人間はさらに力をつけているからね。それくらいのことじゃ、止まらないと思うよ」
 ナマエはやけに達観している。虚淮も何も言わないが、ナマエに同意している風だった。風息はもどかしくて拳を握り締める。
「だからといって、こちらが譲歩することはないだろう。あそこは、海角の森だ」
「場所の取り合いになったら戦うか、譲るかだよ。獣たちだってそうしてる」
 不満を募らせる風息に、ナマエは笑って肩を叩いた。
「まあ、海角が決めたことなんだから。笑って送り出してやれよ」
「わかってる」
「じゃ、おやすみ」
 ナマエは焚火の傍から夜の影の中へ紛れて行った。風息はその背中を見送った後、考え直してその後を追いかけた。
 ナマエは湖の傍に来ていた。風息は後ろからそっと近づく。ナマエはこちらを振り返らないが、存在には気付いていた。
「西か。今はどんな状況だろうな」
 振り返らないまま、風息に話しかけてくる。風息はナマエの隣に立った。ナマエは湖のほとりに胡坐を掻く。風息も真似て座り込んだ。
「南の方も、結構人間の住処が広がってるそうだ。思っているよりも、あいつらの範囲が広がるのが早い」
「……ああ」
「人間と接触する妖精も増えているそうだ」
「でも、ここは大丈夫だろう。こんなに深い森の奥まで、あいつらは来られない」
「……だといいけど」
 風息の言葉に、ナマエは素直に頷かなかった。何をそんなに心配することがあるだろうかと風息は思う。道具を使ったとしても、限界は見えている。彼らは自然には敵わない。
「北に、大きな人間の都があるそうだ。一番大きい都らしい。見てみたいな」
 ナマエは湖の向こう岸を見透かすように目を細める。風息はぐ、と指に力を入れ、砂を掻いた。
「……行くのか?」
「そうだな。いつかは」
 その先の言葉を聞きたくなくて、風息は顔を背ける。心臓がばくばくと鳴り始めた。やっぱり、ナマエはまた旅に出たいと思っている。
「……すぐ、戻ってくるか?」
 答えを待っていたら、頭に腕を回された。不意打ちだったので抵抗することができず、風息の頭はナマエの肩に触れ、抱き込まれる形になった。
「そんな不安そうな顔するなよ。風息のことも、虚淮のことも、洛竹も、天虎も、大好きだよ」
 大好き、と言われてどくんと心臓が跳ねる。どうしてだろう、こんなにも嬉しくて、でもなんだか焦れるように苦しいのは。
「だったら、行かなくていいだろ」
 ナマエの服を掴み、力を込める。顔を上げ、じっとナマエを見つめた。ナマエは微笑んでいる。星明りに、唇の赤がうっすらと照らされていた。それに吸い込まれるように、風息は唇を重ねた。
「…………」
 唇を離し、細い腰を抱きしめる。もう、背丈は風息の方が大きかった。
「行くなよ」
「……これって、なんて言うんだっけ?」
 のんびりとした声が帰ってきて、少しだけ肩の力が抜ける。
「……吻、だよ」
「ああ、そう、吻、か。小玉が言っていたな。好きな人にする愛情表現だって」
「……うん」
 村にいたとき、何度かそういうことをしているところを見たことがあった。そのときは、なぜ唇を触れ合わせるのかわからなかった。けれど、彼女の唇を見ていたら、どうしてもそうしたい気持ちになった。実際に触れてみたら、背筋に電撃が走ったような衝撃があった。甘くて、柔らかくて、切ない。胸がいっぱいになって、目の前の存在が愛おしくてたまらなくて、抱きしめたくなった。こんな気持ちになるのは始めてだったが、ナマエと、いつかそうしたいと思っていたような気持ちもあった。
「じゃあ、虚淮とか洛竹にも」
「それは違う」
 見当違いなことを言い出すナマエにじれて、即座に否定する。
「虚淮たちへの気持ちと、あんたへの気持ちは……違う。だから、あんたにしか、しない」
「そうなの?」
 風息に大人しく抱きしめられたまま、ナマエは首を傾げる。どうすれば伝わるだろう。このもどかしい想いが。風息にはわからない。
「あんたも、俺以外には……しないでほしい」
 虚淮と吻をする姿を想像してしまって、とても嫌な気持ちになった。
「しないけど……。よくわからなかったから、もう一回していい?」
「え」
 答える前に、ナマエは風息の頬を両手で挟み、顔を正面に向けさせると、唇を押し付けてきた。むぐ、と喉の奥で声が漏れる。
「……なんか違う?」
「違うな……」
 さっきはうまくできた気がするのに、どうしたのかわからなくなってしまった。首を傾げるナマエの顔を見つめ、ただ高鳴る胸の音を聞き続ける。
「よくわからないね。人間にとっては、大事な行為に見えたけど」
 あっけらかんと笑う顔が憎らしかった。俺にとっても大事だ、とは言えない。言っても、うまく伝えられない気がした。そもそも、風息自身、どうしてこんなことをしてみたくなったのか、よく理解できていない。ただ、身体が動いてしまった。そして、実際にしてみたら、とても心が満たされた。ナマエが自分と同じ気持ちでなくてもいい。彼女の心は彼女のものだ。無理をしたって同じにはなれない。ただ、そばにいてくれればいい。朝、果物を取りにって、森を見回って、笑い合って、眠りにつければ。
 風息の願いは、それだけだった。

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