第三話



 小さな子供の鳴き声が聞こえてきて、風息もナマエも足を止めた。
「先行く!」
 ナマエは風息に言うが早いか駆け出した。風息も木々の合間を縫って後を追う。風息が追い付いたときには、ナマエが蹲って泣いている子供を案じているところだった。
「怪我してるのか?」
「そうみたい。熊に襲われそうになってた」
 ナマエが子供の肩を撫でるが、子供は丸まったまま震えている。よほど怖かったのだろう。少し前までは、風息もこれくらいの大きさだった。数年経って、今は手足も伸び、ナマエの身長をもう少しで追い越せそうだ。こんなに小さな足では、遠くまでは歩けないだろう。恐らく近くの村の子のはずだ。そう考えて、風息は子供を抱きかかえた。足を少し切っていたが、浅い。傷みよりも恐怖に震えているようだ。
「お前、名前は?」
「うう……」
「俺は風息。こっちはナマエだ。もう大丈夫だ」
「熊は私が追い払ったからさ。安心しな」
 子供は風息とナマエの顔を恐る恐る見比べて、しゃくりあげる。
「小玉……」
「小玉か」
 小さな声で名前を答えた少女は、目に涙をいっぱい溜めて、風息の顔をじっと見つめる。
「ふーしー?」
「そうだよ。お前はどこから来たんだ?」
「わかんない……」
 森の中で迷って、方向がわからなくなったのだろう。とりあえず、一番近い村へ行ってみることにした。村に入ると、少女は風息の腕から下りて、きょろきょろと辺りを見渡す。
「おかーさん……! どこ……?」
 ナマエは少し離れたところに村人の姿を見つけ、駆け寄って訊ねた。
「あの子、小玉っていうんだけど、この村の子?」
「おお? ああ、小玉! どこに行っていたんじゃ」
 老人は小玉の顔を見るや駆け寄って、怪我の具合を確認した。
「お母さんが心配しとったぞ。大きい怪我はしてないようじゃな。ああよかった」
 小玉の頭を撫でながら、老人は風息とナマエを見上げた。
「お二人がこの子を見つけてくださったんですか」
「森に迷い込んで、熊に襲われるところだったよ」
「なんと……。失礼ですが、あなた方が熊を?」
 風息もナマエも、老人から見れば武器も持っていない子供に見えるだろう。なので、ナマエは正直に正体を明かした。
「そうだよ。妖精だから、私たち」
「おお……! この森に住むとは聞いておりましたが、まさかお会いできるとは……。無事に戻ってこれたのはあなた方のおかげじゃ。ぜひお礼をさせてください」
 老人は小玉を抱き上げて、二人に何度も頭を下げる。ナマエは手を振った。
「いや、大丈夫だよ。小玉の家がすぐ見つかってよかった」
「そうおっしゃらず。ご馳走を用意しますから。この子の両親も歓迎するでしょう」
「うーん、それなら、ちょっとお邪魔しようか。ね、風息」
「俺はどっちでもいいが……」
 ナマエがそうと決めたなら、風息に断る理由はなかった。ナマエは老人に向き直り、笑いかけた。
「じゃあ、お世話になるよ」
「どうぞどうぞ、ご馳走を用意しますから」
 老人に案内されるまま、村に入り、一番大きな家に迎え入れられた。そこは村長の家で、老人は二人のことを説明し、村長は喜んで二人の歓迎の準備を始めた。老人は小玉を連れて家族の家へ向かった。その間、風息とナマエは村長の家の庭の椅子に腰かけ、待つことになった。
「何が食べられるかな? 楽しみだな」
「俺は何もしてないんだが……」
「風息があやしてくれたからあの子も安心して泣き止んだんだよ」
「そうか?」
「ありがたく受けておこうよ」
 釈然としない顔の風息に、ナマエは朗らかに笑う。ほどなくして小玉を連れて大人の男女と数人の子供たちが二人の前までやってきた。
「この子の家族でございます。この子を助けていただいたそうで、お礼を申し上げます」
「ああ、いいよいいよ。そんなに気にしなくて。怪我がたいしたことなくてよかったね、小玉」
 ナマエは手を振って、小玉の頭を撫でてやる。小玉は二人の顔を見て言った。
「たすけてくれて、ありがとう」
 それから、村の人々が次々とやってきて、料理を振る舞ってくれた。宴会のように賑やかになって、村人たちは酒も飲み始めた。ナマエも勧められるままに飲む。風息は遠慮しておいた。充分にもてなしてもらい、二人はそろそろ帰ろうと立ち上がった。そのとき、小玉がそっと近づいてきて、風息の服の裾を掴んだ。
「風息、また来てくれる?」
「……ああ、わかった」
 風息が小さく微笑んで答えると、小玉は嬉しそうに頬を弛めた。
 二人が森に帰るころには、すっかり暗くなっていた。
「ただいまー虚淮!」
「……酒の匂いがするな」
 虚淮はご機嫌に帰ってきたナマエを見て目を細める。
「へへへー、ごめんごめん。虚淮も今度行こうよ!」
「なんの話だ」
「人間の村に寄ってきたんだ」
 呂律の怪しいナマエに変わって、風息が今日のことを虚淮に話した。
「ご飯美味しかったよー」
「私は行かん」
 肩に腕を回して絡んでくるナマエの腕を払いながら、虚淮は淡白に言う。
「えー。でも、風息、小玉と約束したもんね、また行くって」
「……ああ」
 あそこで行かないと言ったら泣いてしまいそうな気がして、風息はそう答えた。口約束になるのも忍びないから、また様子を見に行ってやろうと思う。いままで、人間のことは遠くから見かけたことしかなかったから、これほど会話を交わしたのは初めてだった。村人たちは皆気さくで、付き合いやすい人たちに見えた。料理は美味しく、いろいろな食材を使ってこんなにも豊かな味が作れるのかと驚いた。人間の作る椅子も、机も、家も、服も、とても便利そうだった。霊質は操れないけれど、その代わり、なんでも作ることができる人間という存在に興味が湧いた。あれらを、術なしに、手だけで作ったとはにわかには信じがたい。人間はどんなことができるのか、知りたくなった。
 実際訪れたのは数週間後だった。村人の一人がすぐに風息に気付き、また村中に触れまわった。
「みんな! 妖精様がいらっしゃったよ!」
「待て、今回は歓迎しなくていいから」
 風息は慌てて彼女を止める。ナマエは元気に挨拶をして物珍しく眺めてくる子供たちに手を振っていた。
「風息! ナマエ!」
 その中から、走ってきたのは小玉だった。ナマエはしゃがんで小玉と目線を合わせる。
「元気になったみたいだね、傷はどう?」
「うん! もう痛くないよ!」
 小玉は快活に笑った。そして、あ、と口を開ける。
「待ってて。二人にお礼の腕輪を作ったの!」
 風息が止める前に、小玉は走り去ってしまった。あれだけ走れるなら、一人で森の中を突っ走り、迷子になってしまったのも頷ける。元気になった背中を見て、風息は少し笑みを浮かべた。
 ほどなくして戻ってきた小玉の手には、二つの腕輪が握られていた。
「これ、お母さんに作り方を教わったの。こっちはナマエに、こっちは風息に!」
 緑の玉がついた腕輪をナマエに渡し、青い玉のものを風息に渡した。
「おお、綺麗だね! ありがとう!」
 ナマエはさっそく腕につけ、玉を太陽の光に透かして見る。
「こういうの、大好きなんだ。嬉しいよ」
「ふふ、よかった!」
 風息もナマエを真似て腕に通した。青い玉が揺れて、光を反射しきらきらしていた。こんなに小さな子供でも、その手で器用にこんなものが作れる。素直にすごいと感じた。
「なあ、これはどうやって作るんだ?」
「紐をより合わせて、玉を通すの。作りたい? 教えるよ!」
 小玉は風息に訊ねられたことが嬉しいようで、張り切って答える。
「いいな。私も作ってみたい!」
 ナマエも乗ってきたので、二人で小玉に腕輪の作り方を習うことになった。一緒にいた子供たちも、それぞれ素材を持ち寄って、みんなで青空の下腕輪づくりを始めた。
「ここをこうやって編んでね、こうするの」
「ふむふむ」
「……うーむ……」
 ナマエは小玉の教えた通りすいすいと編んでいくが、隣で風息は苦戦していた。どうも紐をどこに通したらいいのかわからず、小玉のようにいかない。
「風息、こうするんだよ」
「そうやってるつもりなんだが……」
 小玉はくすくす笑いながら風息の結んだものを一度解いて、編みなおしてみせる。小玉の手からするすると伸びる紐は小玉のいうことは素直に聞くので、不思議だと風息は首を傾げた。
「できた!」
 ナマエは色とりどりの玉を通した腕輪を頭上に掲げる。そしてさっそく自分の腕に通して出来栄えを満足げに眺めた。
「うん、いい感じ」
 ナマエのものは、小玉が作ったものより玉が多く、少し重そうに見えたがよくできていた。風息は自分の手にある作り途中の腕輪を見て、もう少し玉を追加してみようと思った。
 なんとか完成したものは、やはりどうも歪だったが、玉の色合いは悪くないと思う。そして、作り終わった後になってこれをどうするか考えていなかったことに気付いた。ナマエはこういうものが好きだと言っていた。なら、ナマエにもらってもらおう。
「ナマエ。これ、いらないか」
「ん? 私にくれるの?」
「俺はつけないから」
「じゃあ、もらっておこう! ありがとう!」
 ナマエはさっそく腕に風息の腕輪を通した。右手に小玉からもらったもの、左手にナマエと風息の作ったものを着けている。ナマエの腕に自分の作ったつたない腕輪が着いているのを見て、風息は嬉しくなった。ナマエが作ったものと並ぶと少しはよく見えた。
「色合いもばっちり。いいね」
 そう言って笑ってくれるので、ナマエにあげてよかったと思えた。
 その日は腕輪作りで終わったが、他のものの作り方も知りたくて、風息はまた村を訪れることにした。
 村人に椅子や机の作り方を訊ね、作り方を見せてもらったり、作り方を習ったり、次第にひとりひとりの顔を覚えてしまうほど、足蹴く通うようになっていた。子供たちと遊んだり、昼食を食べたり、そうするうちに数年が経っていた。小玉は成長し、もう少しで成人する年齢になった。村も、子供が増えたり、老人が亡くなったりして顔ぶれが変わっている。風息は、変わらないナマエと小玉を比べて見て、これが妖精と人間の違いかと思った。
「風息、あのね……」
 あるとき、小玉が何か言いたそうにしながら、風息を呼び止めた。
「どうした?」
 風息は続きを待つが、小玉はなかなか言い出さない。風息は焦れて、続きを促そうとしたところにナマエが遠くから声を掛けてきた。
「風息! 小玉! 西瓜食べようって!」
「ああ、今行く!」
 風息はナマエに答えてから、小玉を振り返った。
「続きは西瓜食べながら聞くよ」
「ううん。やっぱいい。なんでもないの」
「え?」
「いいから! 行こう!」
 小玉ははぐらかして、走り出した。なんなんだ一体、と思いながらそのあとを追いかけた。しばらく、小玉は風息のことを意味深に見つめたり、急に不機嫌になったり、かと思ったらとても嬉しそうにしたりするようになった。やはり風息に何か伝えたいことがある様子だったが、なかなか口にしなかった。何を考えているのか気になったが、無理に聞き出すつもりはなかった。
「ナマエ、最近、小玉の様子がおかしくないか」
「ん? そう?」
「何か俺に言いたそうなんだが、言ってくれないんだ」
「そうなんだ。なんだろうね」
 ナマエもわからないようだった。ナマエの方が人間との付き合いが長いだろうに、それでわからないなら風息にもわかりようがない。何か悩んでいることがあるなら聞いてやりたいと思う。頼りないと思われているのだろうか。それなら、ナマエに相談するように言おうか。そう思いついて、伝えてみることにした。
「小玉、何か悩んでいるのか?」
「うん……そうだけど……」
「俺でよければ聞くよ。もし俺が頼りなければ、ナマエに聞いたらいい」
「私は、風息に聞いてほしいの!」
 突然、小玉が怒るので風息は面食らう。今の流れで、何が気に障ったのかまるで想像がつかない。
「じゃあ、言ってくれ」
「今は言わない!」
 小玉はぷんとして立ち去ってしまった。残された風息は、なんだよ、と思いながら足元の小石を蹴とばし、ナマエの元に戻った。また数か月後、村に寄ると、風息は小玉に呼び出された。
「何かあったのか?」
「私、結婚することになったの……」
「結婚? ああ」
 小玉の両親のように、男と女が家族になるための契約だったはずだ。
「私……私、風息のことが好き!」
 ふいに、小玉が服の裾を握り締めながら、唐突にそう言ってきた。
「だから結婚したくない。風息は……私のこと、好き……?」
 頬を赤らめながら接近してくる小玉の勢いに押されながら、風息はどう答えるべきか考える。小玉は結婚することになったのに、したくないと思っている。ずっと悩んでいたのはこのことだったのだろうか。
「初めて会ったときから、ずっと好きだったの。でも、風息はナマエのことが好きなのかもしれないって思ってて……でも……諦めきれなくて……」
 そう言いながら小玉が泣き出してしまうので、風息はますます困惑する。
「どうしてナマエが出てくるんだ?」
「だって、風息、ナマエといつも一緒だから……」
「それは、ずっと一緒だから……」
 風息にとってはもうナマエがいるのは当たり前のことで、考えるまでもなかった。あれから、虚淮は一度も村に来たいと言ったことがなかったから、二人になるのは必然だった。ナマエは、旅に出たいと言わなくなった。それは、恐らく風息が初めて術を使い、ナマエの霊質を奪ってしまったあの日が境目だったと思う。いつか一緒に走ろうという約束を守ってくれるつもりなのかもしれない、と風息は思う。自分のために、彼女は旅に出るのを我慢している。そう考えると申し訳なくなるが、風息自身はこの龍遊を離れるつもりはなかった。大きくなって、行動範囲も広がり、森のことをよく知るようになった。獣たちと共に森の成長を見守り、ここで呼吸をすることが風息の一部となっている。だから、ナマエにも龍遊を気に入って欲しいし、ずっとここに住みたいと思ってくれるようになればいいと思う。今、ナマエがどう考えているかはわからない。また旅に出たいという言葉が聞きたくなくて、無意識にその話題を避けているところはあった。ナマエが出て行ってしまうと考えると、胸にぎゅっと痛みが走る。初めは、自分が知らないことを知っているナマエに興味を持って、知っていることをすべて教えて欲しいと思い引き留めた。そのうち、ナマエがいることが当たり前になって、一緒に駆け回るのが楽しくて、虚淮のように自分の傍にいてほしいと願うようになった。
「風息……?」
 小玉に名前を呼ばれて、風息ははっとした。そして、伝えることを決めた。
「……俺は、妖精だ。お前は、人間なんだから、人間と結婚すればいい」
 少しつっけんどんな言い方になってしまった。小玉の瞳にみるみる涙が溢れていく。風息はその瞳から目を逸らした。小玉は嗚咽を飲み込み、風息に背を向けて走って行った。
「ちょっと、風息!」
 少ししてから、ナマエが怒った顔で駆け寄ってきた。
「小玉泣いてたんだけど! 何したの?」
「……結婚したくないっていうから、した方がいいって答えただけだ」
「そうだったんだ? もう小玉もそんな歳かあ」
 ナマエは感慨深げに呟く。風息はナマエの顔を改めて眺めた。人間は、好きだと思った異性と一緒にいようとする。それを恋人と呼び、あるいは夫婦と呼ぶ。この村で過ごした日々で、風息は人間のことを学んだ。
 それは、風息がナマエと一緒にいたいと思う感情と同じだろうか。もし同じだとしたら、泣いた小玉の気持ちが少しわかる、と拳をぎゅ、と握った。もしナマエが一緒にいてほしいとの頼みを断っていたら、風息は傷ついただろう。
 風息は妖精で、小玉は人間だ。これから、小玉はどんどん大きくなる。風息は、これ以上ほとんど姿が変わらない。ずっと一緒にはいられない。だから、同じく年を重ねる人間の男と一緒にいるのがいいに決まっている。小玉の瞳に溢れた涙を思い出す。子供のころのように、無邪気に遊ぶだけの関係を続けられたらよかったのに。小玉とまた顔を合わせるのを気まずく感じた。
「ナマエ」
「ん?」
「小玉を泣かせてしまった。謝って許してくれるかな……」
「きっと大丈夫だよ。優しい子だから」
 ナマエの笑みを見て、頷く。今度会ったら、謝ろう。そう決めて、ナマエと一緒に虚淮の下へ帰る。風息はナマエとずっと一緒にいたいと思っている。ナマエは、どうだろう? そんな疑問が胸の中に渦巻いて、気分は晴れなかった。

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