第二話



 ナマエが龍遊を訪れて、一月ほどが経った。風息にはまだナマエが知っていることを語りつくしていない。ナマエが旅に出ようかというそぶりを見せると、風息が必ず引き留めた。
「いったい私はいつまでここにいればいいんだ?」
 ちょっとふざけてそういうと、風息は唇を尖らせた。
「ずっといればいいだろ。ナマエはここがきらいなのか?」
「好きだよ。風息も、虚淮も好きだ」
「……っ、じゃあ、なんで出て行こうとするんだよ」
 むすっとして睨み上げてくる風息に、そりゃあ、と空を見上げる。
「新しい土地が見たいんだ、私は」
「ここが一番いい場所だよ、ぜったい」
「ははは、風息も外に出てみようよ。海、見に行こう」
「……海……」
 風息は膝を抱え、そこに顎を乗せる。瞳は揺れていたけれど、やっぱりこの森を離れたくないという気持ちの方が強そうだった。風息は木属性で、ここの植物たちと仲がいい。だから、離れがたいんだろう。それならそれで、同じ場所で過ごすのもいいだろう。ナマエも、この土地は悪くないと思っている。けれど、その分、その外に広がっているものはどんなものだろうかと興味が湧いてくる。見上げる空は、どこまでも続いている。ナマエがどこへ行こうとも、空だけは変わらない。だから新しい土地に行っても、繋がっているんだと感じられる。その繋がっている大地を、どこまでも走り続けたい。立ち止まっていると、足が疼いてくる。そういう性質なんだろう。どこか素晴らしい場所を見付けても、たとえそこ以外の土地が枯れていたとしても、ナマエは走り出したくなるんだろうと思う。もっといい場所を求めているわけじゃない。ただ、走りたいんだ。この広大な地を。そうじゃなきゃ、もったいないと思う。
「じゃあ、ナマエは龍游を全部見たの?」
 風息は挑戦的な瞳でそんなことを言う。ナマエはまだだな、と笑った。
「全部見てからじゃなきゃ、だめだ」
「ははは、そうだな」
「おれが見せてあげる」
 風息は黒豹の姿になって駆け出した。
 それからは、毎日二人で森を駆け回った。虚淮は興味がないらしく、湖から離れなかった。龍遊は広く、森は深い。風息にとっては、一生を掛けても周りきれないくらいの広さに感じた。
「あの崖の上には行けないかな」
 風息は森から突き出した崖の斜面を見上げる。かなり急な斜面だ。
「あれくらいなら登れるよ」
 ナマエはひとつ風息に見せてやろうと、猟豹の姿になった。
 前足で軽く地面を蹴ると、風が吹き抜けて思わず風息は目を瞑った。
「風息! こっち!」
 すると、かなり遠くの、頭上の方からナマエの声が聞こえてきて、風息は目を瞬きながら上に向けた。さっき見上げた崖の縁で、人の姿に戻ったナマエが手を振っていた。
「えっ……あれ!?」
 ついさっきまですぐ隣にいたはず、ときょろきょろする風息にナマエは笑い声を立てて、今度は人の姿のまま崖を滑り降りてくると一瞬で風息の横に戻ってきた。
「うわっ」
「どうだ、驚いた?」
「どうやったの!?」
 風息は息ひとつ乱していないナマエに詰め寄る。
「これが私の術だよ。風馳。すごく速く走れるんだ」
「へえええ……」
 風息はナマエの周りをぐるぐる回って、その足や手を見ては、感嘆の声を上げる。
「いいなあ。おれもそれやりたい!」
「風息の術は?」
「おれもできるの?」
「いや、妖精はそれぞれ違う術を持ってるからね。虚淮は私と違うだろ?」
「うん」
「だから、君も君の術を持ってるはずだよ」
 ナマエは風息の胸の辺りを指でとん、と叩く。風息は不思議そうに自分の胸に手を当てた。
「おれの術、どんなだろう」
「楽しみだね」
 牙を見せて、にかりと風息は笑った。
 翌日、風息は虚淮にどうすれば術が使えるようになるのか訊ねた。
「修行がしたいのか」
「修行すればできるようになる?」
「私別に修行しなかったな」
 のんびり会話に加わるナマエに、虚淮は物言いたげな視線を向ける。ナマエは肩を竦めてみせる。
「おれ、術使えるようになりたい!」
「……では、教えよう」
 それからは、風息は午前中は虚淮と修行をし、午後にナマエと辺りを駆けまわるようになった。
「ナマエも一緒に修行しよう」
「私はいーや」
 じっとしているのが性に合わないので、ナマエは風息の誘いを断って森に行ってしまった。虚淮と過ごす時間は静かだ。虚淮はほとんど喋らない。そのうえ、修行中なので霊質を集めるのに集中しろと怒られてしまう。ナマエはたくさん話してくれて、笑ってくれる。虚淮とは反対だった。風息はどちらと過ごす時間も大好きで、楽しい。ナマエが旅に出てしまったら、また静かになるだろう。ナマエがそうしたがっているのはわかっていたけれど、まだここにいてほしかった。風息は龍遊が大好きだ。ナマエは一緒に来るかと誘ってくれるけれど、ここを離れることは想像できなかった。植物たちに囲まれて駆け回り、美味しい果物で喉を潤して、暖かな木の肌に触れながら眠る日々が、変わってしまうことなんて考えられない。
 どうしてナマエはどこかへ行きたがるんだろう。ここはこんなに過ごしやすいのに。風息には不思議で仕方がなかった。
 外を見てみればとナマエは気楽に言う。少し見てみるのも悪くないかもしれないとは思う。けれど、それがあまり必要なことだとは感じられなかった。この森だけで、風息にとっては広すぎる世界だ。
 それより外のことなんて、考えられない。
「風息、修行順調そうだね」
「うん! もうすぐ術使えるようになるかもな!」
 遠出をして、見付けた池のほとりで休憩しながら、そんな話をする。風息は拳を握ってみせた。ナマエの足元から木の芽が生えてきて、しゅるしゅると足に絡みつく。
「ほら!」
「くすぐったいじゃんか」
 ナマエは伸びたばかりの青々とした葉をそっと指先で撫でる。柔らかくて瑞々しい。蔦はしゅるりとナマエの足から離れた。
「今日はちょっと遠出しすぎたな。暗くなる前に戻らないと虚淮が心配するし」
 ナマエは猟豹の姿になると、風息の前で前足を屈めた。
「乗りな。飛ばすよ」
「うんっ!」
 風息はぴょんとナマエの背に飛び乗り、ふわふわの毛をしっかりと掴む。ナマエはほとんど助走をつけずに、飛ぶように森の中を突き抜けて行った。
 あまりに速すぎて、風息には周囲の景色が見えないくらいだ。けれど、振り落とされるようなことはない。ナマエはごく普通に動いているように感じる。ただ、木々だけが解けるように後ろへ消えていく。
「はやーい!」
「落ちるなよ」
 速度を楽しむのは一瞬で、すぐに虚淮のいる湖についてしまった。
「ただいま、虚淮!」
「ただいまー」
「……速かったな」
 虚淮もちょうど森の中を駆けてくるナマエの姿を見たらしく、少しナマエを見る瞳に浮かぶ感情に変化があったようにナマエは感じた。虚淮の表情はほとんど変わらないから読みにくい。かろうじて快不快がわかるくらいだ。
「ナマエ、速いだろ!」
 風息はナマエの背中に乗ったまま自慢げに言う。ナマエは笑いながら人の姿に戻り、そのまま風息を肩に乗せた。風息もナマエの頭に手を回して落ちないようにしながら笑った。それを見ていた虚淮の口元も微かにほころぶ。一人で旅をすることが長いナマエだが、だからこそ、こうして誰かと過ごす時間が楽しい。風息が望んでくれるなら、まだここにいてもいいと思った。
 翌朝は曇り空だった。修行は早めに切り上げて、ナマエも今日は遠くへは行かないことにした。
「ナマエ! 追いかけっこしようよ!」
 風息は体力が有り余っているようで、すでに黒豹の姿になって駆け回りながら、ナマエが来るのを待っていた。ナマエも猟豹に変わって、走った。ナマエが走り出したのを見て、風息は森の方へ駆け出す。入り組んだ木の根を器用に避けながら、森の中を進んでいく。ナマエは木の根を飛び越えて、木を壁のように使いながら飛び跳ねるようにしてそれを追いかける。ナマエがひと飛びして風息の頭上を飛び越え、その前に着地した。今度は風息が逃げる番だ。
 そうして何度か追いかける側と追われる側を交代しながら走り回る。しばらくすると広い草原に出た。
「ここじゃあおれが不利だ」
 障害のない、まっすぐに走れる環境ではナマエが万全の状態で走れてしまう。風息は森に戻ろうとしたが、ナマエが先回りして行く先を塞いだ。
「もっと走ろう!」
 ナマエはそう言って草原へと駆け出していく。風息は懸命にその後を追いかけた。走っても走っても、ナマエとの距離は縮まらない。
 四つ足が軽く地面を蹴るだけで、風息の何倍もの距離を進んでいく。どんどんナマエは先へ進む。距離が広がっていく。風息はできるかぎり全力を出しているのに、それでも追い付かない。
 置いて行かれてしまう。
「……ナマエー!」
 風息は大声でナマエを呼んだ。
 ナマエはぱっと足を止め、戻ってくる。
「速すぎるよ!」
「ごめんごめん。ちょっと行き過ぎた」
 ナマエは人の姿に戻って、風息の前に歩いてくる。ちゃんと呼びかけに答えてくれた、と風息はほっとした。
「おれも速く走れたらいいのに」
 ナマエを追いかけて、追い越して、それよりももっと速く。
「ナマエの術、おれにくれよ」
「ははは、それができれば一緒に走れるな」
 笑うナマエに、風息は手を伸ばす。ナマエと一緒に走りたい。ただ、それだけの気持ちだった。置いて行かれたくない。もっと速く走りたい。気持ちが膨らみ、――“できる”、と唐突に気付いた。
「風息」
 ナマエの表情から笑みが消える。風息は手を伸ばす。
「……だめだ、それは」
 ナマエの胸元から、霊質が溢れた。風息の手を通じて、流れ込んでくる。どんどん、ナマエの力が風息の霊域を満たしていくのを感じる。そして、掴んだ。彼女の風馳を。
「……っ」
 がくり、とナマエの足が折れ、地面に倒れ伏した。風息ははっとして、その結果に愕然とする。
 おれは、一体、何を。
「……っ、ナマエ!」
 倒れたナマエの肩に触れようとして、躊躇う。また、霊質を奪ってしまったら。
「そんな……、虚淮!」
 どうしていいかわからなくなって、虚淮に助けを求める。彼はここにいない。だが、今の自分なら、すぐにでも駆けていけることがわかっていた。
 ――ナマエの術で。
「ナマエ、待ってて!」
 風息は駆けた。普段の自分とは比べ物にならない速度だった。なのに、何も楽しくない。一人で走りたいわけじゃなかった。ナマエが一緒だったから、楽しかったんだ。ナマエ。おれはなんてことをしてしまったんだろう。後悔ばかりが胸の中をぐるぐると渦巻いてむかむかする。吐き気を堪えながら虚淮を見付け、飛びついた。
 虚淮は目を丸くして、そんな風息を見ていた。
「お前、それは」
「お願い、ナマエが倒れちゃったんだ! ナマエを助けて!」
 虚淮はすぐに察すると、空へ飛びあがった。風息は来た道を戻り虚淮をナマエの元へ誘導する。ナマエは変わらず、草の中に倒れ込んでいた。虚淮はナマエを抱え、湖の傍にある大木のうろの中へ寝かせた。
「なあ、ナマエは大丈夫なのか?」
「……わからない」
 虚淮は厳しい瞳で寝込むナマエを見つめる。
「霊質が大量に減っている。しばらくはこのままだろう」
「そんな……」
 風息はがくりとナマエの横に膝をついた。
「おれのせいだ。おれが、術が欲しいって思ったから。だから、ナマエは倒れちゃったんだ」
「術を?」
 虚淮は驚きに満ちた目で風息を見つめる。彼の修行は順調だった。もう開花していてもおかしくない。まさか、それがこんな術だとは――。
「ごめん、ナマエ。ごめんなさい。謝るから。目を覚ましてよ」
「……無駄だ。寝かせておこう」
 虚淮は風息を外へ連れ出した。そして、風息を自分の霊域に招く。
 初めて入るそこに、風息は目を丸くして、白い空間を眺めた。
「風息、手を出せ」
「うん……」
 虚淮は風息の手を取り、目を閉じると、何かを感じ取り、すうと目を開けた。
「お前の術は、強奪だ」
「強奪……?」
「妖精の霊質を奪い、術を使えるようになる。霊質を奪われた妖精は術が使えなくなる」
「そんな、じゃあ、ナマエは!?」
 恐ろしいことを聞かされて、風息は青ざめる。虚淮はしばらく考えてから、口を開けた。
「……恐らく、また修行をすれば使えるようになるだろう」
「ほんと……!?」
 風息は服の裾を痛いくらい握り締め、俯く。自分の力の強大さに、受け止めかねていた。
「だが、この術は軽はずみに使ってはいけない」
 虚淮の厳しい声音に、弾かれたように風息は顔を上げる。今にも泣きそうなその顔を、虚淮はしっかりと見据え、言い聞かせる。
「どうなるか、わかっただろう。いいな」
「……うん……。もう使わないよ」
 誰かを傷つけてしまう術なんて、絶対に使わない。風息は心に決めた。
 それから、ナマエが目を覚ますまで、風息はずっと傍にいた。時折食べ物を集めては、ナマエの枕元に置く。最初に置いた果物が腐り始めたころ、ようやくナマエが目を覚ました。
「ナマエ!」
 風息はナマエが身じろぎしたのに気付いて、その顔を覗き込んだ。ナマエは風息を見ると、笑ってみせた。
「だいぶ、寝ちゃってたなあ……」
「ごめんなさい、ナマエ。おれが」
 謝ろうとする風息の頭に、ナマエはぽんと手を置いた。
「ごめんな、私が修行さぼってたから……これくらいで倒れるなんて、弱っちいよねえ……」
「ナマエ……」
 ぽんぽん、と優しく頭を叩かれて、風息の目に涙が浮かぶ。
「違うよ。おれが、ナマエの術を、ほしいって思っちゃったから、おれがいけないんだ。ごめん、ナマエ」
「何泣いてるのさ」
 ナマエはぽろぽろと零れる風息の涙を指で拭ってやる。
「私も、風息と一緒に走りたいからさ。いつか、もっと鍛えて、倒れなくなったらさ……そのときは、一緒に走ろう。龍遊の果てまで」
「……うん」
 風息は涙で喉が詰まって、うまく話せず、ただ頷いた。ナマエは風息を撫でてやりながら、鼻を引く突かせる。
「ずっと食べてなかったから、腹減ったな」
「あ、朝、採ったやつ、あるよ。これ、食べて」
 風息は目をこすりながら、一番近くにあった果物をナマエに渡した。ナマエは枕元を見て、お供えみたいだな、と笑ってしまう。体を起こすのも一苦労で、ずいぶん弱ってしまったものだと自嘲した。
「美味しい。これ食べたら、すぐ元気になれそうだ」
「ほんと? じゃあ、おれ、いっぱい採ってくる!」
 風息は飛び跳ねるようにして外に出て行った。ナマエは壁に背を預けて、空を見上げながら果物を齧った。しばらくは、動けなさそうだった。こんなに走ることができないのは初めてだ。風息の術が発動するとき、止めてやることができなかった。あの子に辛い思いを背負わせてしまったことを悔やむ。どうして、あの子がこんな術を持つことになったんだろう。行き場のない憤りが、ナマエの中に渦巻く。この先、術のことであの子が苦しむことがなければいいのに、と願ってやまない。

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