第一話



「うーん」
 軽く身体を伸ばし、両手をぐっと天に突き出す。ぱっと力を抜いて、すう、と息を吸うと、ナマエは走り出した。
 その速度はまさに神速、通り過ぎる勢いで風に煽られたように木々がざわめく。耳に付けられた二つの飾りが真横を向き、ひとつにまとめた暗藍色の髪に巻き付くように粉紅の紐が踊る。音よりも速く駆け抜けて、高く聳える断崖に足を掛けると、地面の続きのようにやすやすと垂直に駆け登った。あっという間に頂上まで辿り着き、ナマエは息ひとつ乱さず背後を振り返った。
 高い視点から見下ろせば、大地は地平線まで広がり、その先には青く煙った山脈の尖った影がぼんやりと浮かび上がっている。青々とした森の中にところどころナマエが登ったような突起があり、地平線から顔を出した朝日に照らされて長く淡い影を木々に落としていた。
 ナマエはその光景にひとつ深呼吸をして、満足する。
「いい土地だ」
 この地に生まれてから、ナマエはいろいろな場所を旅してきた。生まれた場所は南の方だ。海沿いを走ったり、内陸へどんどん入りこんだり、足の向くまま歩いてきた。今は、また海の方を目指している。昔に見かけた地図の記憶は朧気だが、確か東の方にも海があった。あの登り始めた太陽の方へ進んでいけばいつか辿り着くだろう。
 崖から身軽に飛び降りて、ナマエは森の中を歩き出す。
 霊質に満ちていてとても気持ちいい。今日はこのままのんびり歩いて行こう。
 日が高くなってきたころ、がさがさと枝が揺れる音がした。鳥か獣か、何かが暴れているような音。
 気になったので、そちらへ向かってみることにした。音はまだ続いている。葉がひらひらと、何枚か枝から散って落ちてきた。その真上に顔を向けると、子供の顔があった。
「お」
「うぎーっ!」
 子供は牙を剥いて、ぶんぶんと顔を振っている。そのたびに、彼が乗っている枝がぎしぎしと揺れた。
 はらはらと舞い散る葉を気にもせず、ナマエはその子供に声を掛ける。
「おちび、そんなところで何やってるんだ?」
「えっ!?」
 子供は話しかけられて初めてナマエの存在に気付いたようで、暴れるのを止めて声の方へ丸い瞳を向けた。浅灰紫紅色の瞳がぱちくりとナマエを映す。ふわふわとした同じ色の髪からは、黒い耳がぴょこんと生えていた。
「妖精に会うのは久しぶりだな。この辺りに住んでるの?」
「おまえ、だれだよっ」
 子供の妖精は見慣れないナマエの存在に警戒心を抱いたらしい。ナマエは腰に当てていた手をひらひらさせて、敵意はないことを示した。
「ナマエだよ。旅してるんだ。この辺りはなんていう森なの?」
「たび? この森を知らないの?」
 子供は不思議そうに訊ね返してきた。
「よそ者を見るのは初めて? そうだよ。私はこの森の外からやってきたんだ」
「森の外……」
 子供はぽかんと口を開けて、ぐいと首を上げ、木々の向こうを覗こうとするが、四方に立つ木は子供が引っかかっている枝よりずっと背が高い。何も見えず、子供は眉を寄せた。
「ここ、龍遊っていうんだよ」
 そして、素直に教えてくれる。龍遊か、とナマエは頭に刻んだ。いままで旅してきたところの地名は、なるべく覚えるようにしている。
 そうしないと、どこがまだ訪れていない地かわからなくなってしまうからだ。ナマエは、いつも新しい地を見たいと望んで今いる地から飛び出していく。
「ねえ、海ってもう近い?」
「うみ?」
「見たことないか? 見渡す限りの湖だよ」
「湖なら知ってるよ」
「もっと大きいんだよ。果てがないんだ」
「そうなの?」
 子供の瞳が、好奇に光った。
「それに、しょっぱい」
「しょっぱいの!?」
 驚いた拍子に、枝が上下に揺れた。子供は今の状態を思い出したように身じろぎする。そして溜息を吐いた。
「下りられないのか?」
「お、下りれる!」
 一応訊ねてみたら、強気に言い返されてしまった。
「そっか、木の枝に引っかかってるように見えたけど、そこにいたくているんだな?」
「そ、そうだよっ」
 怒ったように言い返しながら、子供はまた身じろぎをする。まあ下りれるというならいいか、と思い、ナマエは子供に向かって片手を上げた。
「じゃあね。森の名前、教えてくれてありがとう」
「あ……」
 そのまま背を向けて立ち去るナマエの背中を、子供は呆然と見送る。そして、俯いて、もうどれくらいこうしているか、改めて考える。遠くに見える地面には、そこだけやたらと葉が落ちている。自分の足がぷらぷらと頼りなく揺れるのを見て、子供はぱっと顔を上げた。
「……ナマエっ!」
「ん?」
 名前を呼ばれて、ナマエは足を止め、振り返る。子供はもどかしく腕で枝を押しながら、ようやく伝えた。
「下りれない…」
「あははっ」
 あまりにもしょんぼりとしているので、ナマエは腹から声を出して笑い、ぱっと子供の元へ戻ると、高く飛び上がって子供の挟まっている枝に飛び乗った。
「わっ」
 子供があっけにとられている間に、ナマエは子供をさっと枝から取り上げると、小脇に抱えて地面にふわりと降り立った。そして、子供を下ろしてやった。
「ほい」
 子供は頭に葉をつけたまま、ナマエを見上げる。ナマエはそれを払ってやった。
「もう挟まるんじゃないよ」
「もういっちゃうの?」
 そして去ろうとするナマエを、子供はまた引き留める。
「言ったろ? 旅してるって」
「でも、夜のごはんはどうするの?」
「ごはん? ああ」
 移動しながら見つかれば食べるし、見つからなければ見つかった時でいい。いままでそうしてきたのだが、子供は本当に心配しているようだった。
「美味しい果物がたくさんあるとこ、おれたち知ってるんだよ! ナマエには教えてあげる!」
「あ、そう?」
 子供はそれがいい、と思うとぱっとナマエの手を掴んで、走り出した。小さな手の力は弱くて、振りほどこうと思えば簡単だろうが、ナマエはついていくことにした。急ぐ旅というわけでもない。それに、彼はおれたち、と言った。この辺りには、他の妖精もいるのだろう。彼らと出会い、交流をはかるのも旅の醍醐味だ。幸い、彼はもうナマエのことを信頼してくれているらしい。
「そうだ、君、名前は?」
「風息!」
 子供は元気に答えて、ナマエがついてくるのを確認すると、黒豹の姿に形をかえ、四つ足で走り出した。まだ、人の姿になれるようになったばかりで、この方が慣れているようだ。なら、とナマエも彼にならって形を変える。風息と似ているが、こちらは猟豹だ。風息はナマエを見上げると、おお、と唸り声を上げた。猟豹は風息がついて来れる程度に速度を上げる。風息は負けない、とばかりに小さな足を動かし、懸命にナマエに追い付いた。
 追いかけっこをしているうちに、二人は湖のほとりまで辿り着いた。
「虚淮! 虚淮!」
 風息は水際で立ち止まり、誰かを呼ぶ。すると、静かだった湖面が僅かに盛り上がり、青白い顔が浮かび上がってきた。彼は額に角を二本生やし、水藍色の髪を背中に流した少年の姿をした妖精だった。少年は風息に返事をする前に、その後ろにいるナマエに鋭い視線を向けた。
「誰だ」
「ナマエだよ、虚淮。森の外から来たんだって!」
 虚淮と呼ばれた少年は、ナマエを見つめたまま水の上を歩いてくる。水属性のようだ。ナマエは人の姿に戻り、両手を軽く広げて何も持っていないことを伝える。
「森の外から? なぜここへ」
「海を目指してるんだ」
「海……」
 彼は海を知っているのだろうか。僅かに目を細めると、ようやくナマエの顔から視線を外した。どうやら警戒を解いてくれたようだ。
「ナマエ、ごはんはこっちだよ!」
 風息は黒豹姿のまま、ぐるぐると回ってナマエが着いてくるのを待っている。目線で虚淮に許しを乞うと、彼は目を閉じてしまった。許可を得たと思っていいだろう。
 風息は待ちきれないように駆け出して、斜面を登り始めた。ナマエは木の枝を飛び移るようにして後を追いかける。しばらく登ると、平地に出た。
「ここだよ!」
「おお」
 そこには油桃の木がたくさん生えていた。風息は人の姿に戻ると軽々と木に登り、いくつかを摘んでナマエの前にぴょんと飛んできてもぎたての油桃を差し出した。
「はい! おいしいよ!」
 ナマエは受け取った油桃をさっそく齧る。硬い果実から酸味のある果汁が溢れ、咽喉を潤す。食べたことで身体が空腹だったのを思い出したようで、五つほどを一気に平らげてしまった。
「ふう。おいしかった」
「ねえ、ナマエ、海ってあの湖より大きいの?」
 腹を撫でるナマエの隣に座り、風息は尻尾をゆらゆらしながら訊ねる。
「ん? うん。おっきいよ。対岸が見えないくらい」
「へえぇぇ……」
 風息はのけ反るようにして口を開ける。そのまま倒れそうにも見えたが、うまくバランスを取っていた。
「森の外って、どんななの?」
「どんなってなあ。いろいろだよ。どこまでも続く平原、険しい山道、べとべとする沼地、人間の住む街」
「人間?」
「ああ。人間、見たことないか?」
「知らない」
 風息は自分の知らないことばかり口にするナマエに、すっかり興味津々になっていた。ナマエも邪険にはせず、教えてやることにする。
「こっちの姿そっくりの種族だよ。ただし、人間は変化できないけど。霊質の使い方もうまくない。寿命も短い」
「寿命?」
「どれだけ生きられるかってこと。私たち妖精はずっと長いこと生きられるけど、人間はとっても短いんだ」
「そうなんだ」
「でも、私たち妖精より数が多い。だから、力を合わせていろんなものを作る」
「どんなもの?」
「家とか、畑とか、橋とか、城とか。便利なもんだよ」
「そうなの?」
 風息は丸い目をぱちくりとさせる。こう一気に説明しても、なかなか飲み込めないだろう。ナマエは会話を切り上げて立ち上がった。
「まあ、君の知らないものが森の外にはたくさんあるのさ。興味があれば、君も出て行ってみるといいよ」
「森の外に……?」
「怖いか?」
「こ、怖くない!」
 恐る恐るといった様子だった風息をからかうと、強気に言い返してきた。
「ナマエ、もういっちゃうの?」
「油桃、ごちそうさま。腹いっぱいになったよ」
「でも」
 風息はナマエの長い髪を掴んだ。
「森の外のこと、もっと聞かせてよ」
「うーん、いっぱいあるよ」
「いいよ。いっぱい聞きたい!」
「そうだなあ……」
 どうやら、風息はまだナマエにここにいてほしいらしい。急ぐ旅ではない。ならまあ、いいか。ナマエはぱっとしゃがんで、風息と目線を合わせた。
「じゃあ、君が満足するまで、話してあげるよ。それならいいだろ?」
「ほんとか!?」
 風息はナマエが思っていた以上に目を輝かせて、喜んでくれた。歓迎されるのも悪くはない。
「よっと」
「わあっ」
 小さな風息を抱き上げて、肩の上に乗せる。風息は落ちないようにナマエの頭に手を回した。
「じゃ、しばらく世話になるよ。よろしくね」
「うん!」
 とはいったものの、あの水属性の彼も受け入れてくれるだろうかと一抹の不安はあったが、まあそのときはそのときだと気楽に考えることにして、風息を抱えたまま、ナマエは斜面を下りて行った。

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