第四十話 触



 そのまま立ち去ろうとしたナマエは左腕を掴まれて引き留められた。
 すぐに振り払おうとするが、無限が掴んだ腕はびくともしない。
「どうして、泣くんだ?」
「っ、これは……っ」
 ナマエは顔を覗き込まれて、慌てて逸らした。捕まっていない方の腕の袖で頬を拭う。気付いたら涙が溢れて止まらなくなっていた。
「ごめんなさい……」
「なぜ、謝る」
 訊ねる無限の言葉は、どこまでも優しい。
 その優しさにまた目が潤んでくる。
 無限はナマエの腕を固定したまま一歩近づき、その表情を確認しようとする。ナマエは背を固くして、無限の顔が近づいてくるのを意識した。
「無理に恋人になろうとなんてしなくていい」
 だから思いつめるな、と無限はナマエの背中側から包み込むように伝える。暖かな体温が伝わってきそうで、ナマエは肩を竦めた。
「無理になんて……」
 ナマエはぽろぽろと涙を零しながら嗚咽する。
「私、いろいろ考えましたの。無限様に抱いているこの思いが恋ならばどれほど素敵かと……。でも、私ではだめなのですわ」
 ナマエは腕から力を抜き、無限に向き直る。もう逃げないという態度に、無限はそっとナマエの腕から手を離す。ナマエは自分の細い腕に目を落とした。
「私、また無限様を凍らせようとしてしまいました。感情が昂って、自分でも抑えられないほどでしたの。こんな年にもなって、自分を操作できないなんて、なんて未熟なのでしょう。私には、恋人として振る舞うことはできないのですわ」
「どうして、そんなに感情が昂った?」
 ナマエは無限の顔をちらりと見て、少し距離を開けようとするように半歩後退る。後ろには壁があった。
「近頃、おかしいのです。無限様のお傍にいると、胸が苦しくて、お顔を見られなくなって、どう振る舞えばいいかわからなくなる……。そんなときに、こんなに近くにいらっしゃると、もうどうしようもなくなって、溢れた思いが冷気となってしまうのです」
「それがいやだから、私に近づきたくない?」
「いいえ!」
 ナマエは語気を強くして慌てて否定した。
「違いますわ。悪いのは私なのです」
 そして、悩まし気に自分の手のひらを見下ろした。
「この身体を、不便と思ったことはありませんでした。けれど……やはり、氷の身体で誰かに触れることはできないのです」
 温もりを与えられないどころか、奪ってしまう冷たい身体。平静ならば体温をなるべく高く保てるが、それも今は乱れてばかりだ。今後、収められるかもわからない。
「無限様を……傷つけてしまいます」
 ナマエは力なく項垂れた。
 誰かを傷付けるようなことはしたくないのに。これでは恋人どころか正反対の存在になってしまう。
「傷つきはしないよ」
 ナマエの手のひらの下に沿えるように、無限が手を伸ばしてきた。
「触れても?」
「……冷たいですわ」
「かまわない」
 無限はナマエが拒絶しないことを確認して、そっとナマエの手を包むように触れた。そしてほら、と言うように目元を緩ませる。
「大丈夫だ」
「今は、落ち着きましたから……。でも、また冷やしてしまうかも」
 ナマエはもう、自分が信用できなかった。自分の意志に反して冷気が広がってしまうと思うと怖い。
 ナマエの手の向きを変え、自分の手のひらと向かい合わせるようにすると、無限は彼女の指に自分の指を絡ませた。
「私は平気だ」
 冷えてしまう前に手を離さなければ、と思うのに、ナマエの手は動こうとしない。無限の手に優しく絡めとられ、繊細に扱われるのを、ただ受け入れてしまう。
 もし恋人になれたなら、こんな風にずっと触れ合っていられるのだろうか。
「あなたが私の恋人になれない理由は、それだけ?」
「……はい」
 思いを成就させた男女は必ず身体を触れ合わせていた。それは恋人同士の欠かせない愛情を示す行為のはずだ。ナマエには無限に対してそれをすることができない。
 だから、恋人になれない。
 落ち着いたはずの涙がまた零れそうになって、ナマエは唇を噛む。
 この人の恋人になりたいという、自分の願いがわかったのに。
 それはできない。
 無限のこともがっかりさせてしまう。
 それがただただ悲しかった。
 至らない自分に失望して、閉ざされた未来への希望に悲しみが募る。
 無限はナマエの手を握っていない方の手でナマエの顔へそっと触れる。どきりとするナマエを驚かさないように、静かにその涙を拭った。
 ナマエを見つめる瞳はどこまでも優しい。
 碧玉の奥にはあの炎が揺らめいている。
 こんな自分にまだ無限はこの瞳を向けてくれる。
 何も考えずに、ただこの瞳に心を預けてしまえたら、どれほどいいだろうか。
「私はあなたが好きだ」
 何度も聞いたはずの言葉に、ナマエの心臓はどくんと跳ねる。
「この氷でできた美しい身体も、好ましいと思っている」
 人差し指の先がさら、と前髪に触れる。
「触れることに不安があるなら、無理には触れない」
 そうしたら、と無限はナマエの顔を覗き込む。
「私の恋人になってくれるだろうか」
「あの……」
 ナマエは戸惑って言葉を探す。
 無限がはっきりと願いを口にしたのは初めてだ。今までは、ずっとナマエのやりたいようにと委ねてくれていたことを改めて意識した。
「でも、それで恋人と呼べるのでしょうか……」
「触れるかどうかは、問題ではないよ」
 無限はすとナマエの手を離し、一歩後ろへ下がる。ナマエは思わずそれを追いかけそうになって、踏みとどまった。
 無限は変わらず、ナマエをまっすぐに見つめている。ナマエはその視線を全身で受け止めた。
「心が合わされば、それで充分なのだから」
「心が……?」
 ナマエの瞳に少しずつ光が戻り、とくとくと心が騒ぎ始める。
 触れられなくても、恋人になれるのだろうか。
 そうだとしたら、もしそれでもいいのなら。
 そう考え始めたら止まらなかった。
 だって、本当は。
 気づいてしまったの、自分の望みに。
 許されるのなら、伝えたい。
 今にも溢れそうなこの思いを。
 ナマエはたまらずに一歩踏み出して、無限の顔を見上げた。

「お慕いしております。無限様……っ!」

 心を落ち着けて、手を差しのべる。
 無限はすぐにそれを握り返してくれた。
 手が引かれ、爪先が触れ合うほどの距離になる。
 その力の優しさに、胸が高鳴る。
 ナマエは無限の顔を見上げる。
 無限も柔らかく微笑んで、ナマエを受け止めてくれた。
 さっきまでの絶望が、嘘のように解けていく。
 代わりに、得られなかったはずの喜びがじわじわと足元から湧き上がってきた。
 目元を濡らすのは不思議と暖かな涙だった。
 ナマエも無限と同じように微笑んでいた。
 笑みと笑みが向かい合う。
 心が通じ合う。
 そのまま舞い上がってしまいそうなくらい、感極まっていた。
 無限の好意に呼応して高鳴る心で愛を返すことができる嬉しさ。
 ずっと悩んでいた問題が、氷解した。
 無限の熱が、解かしてくれた。
 辛抱強くナマエと向き合い、戸惑うナマエを見守り、手を引いて導いてくれた限りなく深い心。
 そこにナマエは、身を任せることをもう迷うことはないのだ。
 新しく知った感情。
 これから、どんなふうに変わるのか、想像もつかない。
 けれど、無限の求めに応じて変わるなら、何も怖いものなどなかった。
 ナマエは一歩踏み出した。
 愛に満ちた鮮やかな明日に向かって。



「そろそろ食堂へ行こうか」
 ナマエが落ち着いてきたのを見て、無限の方からそう提案した。小黒がきっと待っている。ナマエはそうでした、と頬を拭った。小黒を待たせていることをすっかり忘れていた。
「あ、そうですわ」
「ん?」
 歩き出そうとする無限に、ひとつ気になっていたことを訊ねるためナマエは立ち止まった。無限はなんでも答えようというように足を止め振り返る。
「無限様は奥様がいらっしゃいましたけれど、これは浮気にならないのでしょうか」
「う」
 無限は思わぬ問いに固まった。ナマエの方は、浮気というものをよく理解せずに、純粋に心配になって訊ねている。それだけだ、と無限は小さく首を振って気を取り直すと、ナマエに答えた。
「違う。彼女のことは今でも大切に思っているが、恋ではない。今の私が恋をしているのは、あなたひとりだけだよ」
 ひとりだけ、と言われて嬉しさにナマエの頬は緩む。
「わかりましたわ」
 なんだか嬉しそうな様子のナマエの顔を見て、無限は改めて浮気はしない、と心に誓う。もとより彼女以外に心を奪われるはずもないが、ナマエの笑顔には決意を新たにさせるだけの力がった。
 こんなふうに笑い合える日がこんなにも早く来るなんて、予想もしていなかった。
 ナマエへの愛を自覚したばかりの頃は、ただその存在を目に入れることができるだけでよかった。傷つき、悲しみにくれる彼女の助けになれればいいと、それだけを願っていた。
 それなのに、思いは日に日に強くなっていた。
 彼女の手料理を食べ、彼女のそばに住むようになり、よりその存在が身近に、親しいものになった。
 大きくなりすぎた想いは持て余すようになり、抑えてはおれずついに口に出して伝えてしまった。
 そのときもあくまでただ知っていてほしかっただけで、どうこうするつもりはなかったのだが、幸運にも彼女が己のことを好きだと言ってくれたときには大いに期待した。彼女も、己と同じ思いであることを。
 しかし、そんな都合のいいことはなかった。妖精は情とは縁遠い。これは人間特有の感情だ。すっかり肉体も精神も妖精に近づいていたつもりだったが、まだそんな青臭い感情が残っていたのだと、己に苦笑してしまった。
 そんなものを押し付けるつもりはなかった。だが、彼女はわからないならばわかるようになりたいと、健気にも悩むようになった。
 ゆっくりと人間のことを知ってくれればいいと構えていたが、安穏としていられる日々は突然変わる。彼女の身がふたたび危機に脅かされたときには心臓が止まる思いだった。
 どうして守ってやれなかったのかと、力及ばない己に腹が立った。
 ずっと彼女の傍にいて守ってやれればどれほどいいかと苦しかった。
 どれほど修行して力をつけても、守りたいものを守れないならいったいどんな意味があるだろう。
 そして、その存在を絶対に失いたくないと、強く自覚した。
 言葉が足りないのは己の至らないところだと自覚がある。できるかぎり、彼女と言葉を交わそうと決めた。
 彼女は素直に、今思っていることを伝えてくれる。
 だから、己も彼女に対しては誠実でいようと心がけた。
 彼女が考えた末、恋人になれないと答えるなら、それでよかった。変わらず、己は彼女を愛し続ける。それだけだ。
 だが、そう口にする彼女自身がひどく苦し気に見えて、すぐに引き下がることはできなくなった。
 触れてはあなたを傷つけてしまうと涙を流す彼女のいじらしさに胸が締め付けられた。
 あまりに思いつめている彼女に、そんなことか、と安堵する己がいた。そんなことなら、障害になるはずもない。
 己の存在がそれほどまでに彼女の心を乱すと知らされて、どうして喜ばずにいられるだろう。
 できることなら抱きしめていた。だがそれは彼女をさらに混乱させることになりかねない。
 彼女は触れ合うことが恋人に必要不可欠なことだと学び、それができない自分を責めた。そうして泣く彼女はあまりに愛らしかった。
 彼女は知らないだろう。
 己がいままで、どれほど彼女の存在に心を震わせ、揺らし、熱くさせていたのかを。
 子供のころ出会った美しい憧れは、かわいらしい実態を伴って、手の届く現実として目の前に現れた。
 また自分が恋という感情を抱く日が来ることがあるとは思わなかった。
 ナマエは妻とはまるで違う。
 比べるものではないが、あのときの若かった自分が持っていた愛情と、今自分が抱く愛情は、ずいぶん差異があると思い返し、ナマエと再会できた幸運に感謝を抱かずにいられない。
 誰かを愛し、愛に応えてくれる存在がいることが、どれほど心を満たしてくれるだろう。
 長い時間を生きてきた。
 孤独ではなかった。だが、誰もいなくなった隣は寒々としていた。
 そこに今、ナマエが寄り添ってくれるようになった。
 足元には小黒がいる。
 私は、恵まれている。
 無限は目を閉じ、微笑みを浮かべた。

「遅い!」
 食堂につくと、小黒は肉包を齧りながら無限とナマエにじとっとした目を向けた。
「私の分は?」
 無限はそんな小黒の非難を受け止めながら、椅子に座る。ナマエはその隣に腰かけた。
「遅いからぼく三つ食べちゃった」
「あら、そんなに食べてお昼はどうするの?」
 ナマエは皿にひとつだけ残された肉包を見て目を丸くして見せる。
「食べれるよ!」
 小黒は慌てて椅子の上に立ち上がり、ナマエに昼食が必要なことをアピールした。無限は残された肉包を静かに食べ始める。ナマエはそれを見て、くすりと笑みを零した。無限の分の昼食は、少し多めにしよう。
 そんな無限とナマエの顔を、小黒はきょろきょろと見比べる。
 そして、口にものを含んだままもごもごと訊ねた。
「なんだか二人とも楽しそう。何してたの?」
 無限とナマエは小黒のきょとんとした顔を見た後、お互いの顔を見合わせた。ナマエは頬を染め、ちょっと目を伏せる。無限はそんなナマエの顔を愛おしそうに眺める。
 小黒はますます首を傾げた。
 無限は肉包を飲み込み、軽く咳ばらいをすると、小黒に向き直った。
「実は、私とナマエは恋人になったんだ」
「え」
 小黒は齧った肉包を思わずぽろりと落とした。膝の上に白い皮の欠片が転がった。
「えええ!? 恋人ー!?」
 小黒の驚きの声が食堂に響き渡った。まだ昼食前なので人数は少なかったが、何ごとかと人々の視線がナマエたちに集められた。
 ナマエはもう一度無限と目を合わせて、ちょっと肩を竦めて恥ずかしそうに、だが嬉しそうに口元を弛めた。
「ナマエ、師匠のこと好きだったの!?」
「ええ、そうよ」
 ナマエは照れながらも、小黒に誤魔化さずに答えた。小黒は無限とナマエの顔を交互に何度も見る。なんだか知らない人たちを見るような、奇妙な感覚に陥った。
 恋人、と言っても、お互いを好きな人同士、くらいの認識だ。実際それがどういうことなのかはよくわかっていなかったが、二人がとても幸せそうなのはよくわかった。
「そっか……。よかったね、師匠!」
 無限がナマエのことを好きなことは、小黒はよくわかっていた。ナマエがいるとき、無限はよくナマエのことばかり見ていた。その視線が他の誰かに向けるものとは明かに違っていることくらいは小黒にも察せられた。しかし、ナマエはそれに気付いていないような雰囲気だった。けれど、恋人になったということは、それを知ったということだろう。無限の片思いが実ったことを、小黒は心から祝った。
 二人が付き合い始めたという話は食堂からあっという間に広がり、その日のうちには館のほとんどのものが知ることとなった。
 人間と妖精が心を通わせ合う幸福な例として、それは受け止められていった。

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