第三十九話 冷



 ナマエは紅泉に借りた最後の本を閉じ、卓子の上に置いて物憂い溜息を吐いた。
 人間の恋について、恋とはどのような感情、行動が伴うものなのか、少し知ることができた。しかし、何をきっかけにそれを友情ではなく恋と確信するのかについては、曖昧でナマエには見定めるのが難しかった。登場人物たちはたいていが迷わずこれが恋だとすぐに気付き、相手へ愛を込めて接するようになる。そうすると、どうしてか相手にもその愛が伝わるようで、やがて二人は恋人同士として振る舞うようになる。
 中には、恋心を伝えることが問題になる場合があり、相手にすぐに伝えられないこともあった。それでも、彼らは障害を乗り越え、最終的には思いを伝え合う。そして恋人になる。
 彼らの運命は劇的で、情熱的で、今のナマエの状態とはまったく違う。恋を理解したつもりが、遠のいてしまったような感覚もあった。命を救われた相手に好意を抱くのは恩を感じるのとどう違うのだろう。好きだという言葉以外に、どのような仕草に恋心を感じるのだろう。
 人間を学んで知りえたことは、より恋の理解を難解にするようだった。
 恋を知れば、無限に対してどう振る舞うかわかると思った。
 しかし、まだどうすればいいかわからない。
 恋人になったあとは、愛の発露のために見つめ合い、身を寄せ合い、手を繋ぎ、贈り物を贈り、相手を大切に、かけがえのないもののように思う。
 それらの行為も、ナマエにとって難点がある。
 重い心を抱えながら、ナマエは借りた本を持ち上げて、紅泉の元へ返しに行った。
「もう読み終わったの? 早いわね」
 紅泉は驚いた顔でそれを受け取り、ナマエの浮かない表情に気付いた。
「あんまり参考にならなかった?」
「いいえ」
 紅泉はナマエを部屋に招き入れながら、悩みが深まったようだと察する。すぐには核心に向かわず、まずは本の感想を言い合うことにした。
「どれが一番気に入った?」
「この白い花の本。最初に読んで、夢中になってしまったわ」
 ナマエは少し笑顔を見せ、一冊ずつ紅泉に本を読んで感じたことを伝えた。紅泉自身、同じものを見て感想を言い合うのが好きだったので、それをナマエとできたことが嬉しかった。人の感想を聞くと、自分とは違った視点を知ることができる。それはときに既知の物語に新しい角度の景色を見せてくれる。また、驚いた箇所や、好ましい描写が自分と同じだと、それも嬉しい。
 つい白熱して感想を言い合ったあと、紅泉は居住まいを改めて、ナマエに話を振った。
「それで、恋についてはどれくらいわかった?」
「ええと……。恋人になった男女がどんなことをするかは、少しわかったと思うわ」
 でも、と言い渋るナマエの表情はやはり影がある。
「どうして恋とそれ以外の感情を見分けることができるのか、読んだだけではわからなかったわ」
「うーん。確かに……」
 それは、実際に体験したことのない紅泉にも難しいところだった。一目見てこの人だと思い、魂のすべてで愛おしいと思うような瞬間はどのようなときに訪れるのだろう。
「でも、実際そうなってみたら、私はわかると思うわ」
「どんなふうに?」
「きっとね、恋してる相手って輝いて見えるの」
 紅泉は少し気恥ずかしくなりながらそう想像する。まるで若い娘のような幼い憧れだ。だが、紅泉はそういうものが好きだし、大事にしたい感覚だとも思っている。ときめきは変わり映えのない日々を鮮やかにしてくれる。
「他の人が目に入らなくなって、その人のことばかり考えてしまうんじゃないかな。その人に話しかけられたらどきどきして、それだけでとても嬉しくなって……」
 だからきっと、他の人とは違うってわかる、と紅泉は漠然とした確信を持つ。ナマエは言い切る紅泉を頼りなさげに見つめている。
「どう? そういう気持ちになったことない?」
「私は……」
 ナマエは紅泉が言ったことを、自分の感情に当てはめてみる。確かに、無限のことを考えることが多くなった。見つめられるとどぎまぎして自然に振る舞えなくなる。けれど、そうなったのはごく最近だ。初めは、普通に接することができていた。無限が自分に向ける視線が熱いことに気付いて、それにどう答えていいかわからなくなってからだ。いまのところそうなるのは無限に対してだけだ。だから特別だと言えなくもない。無限のことばかり考えてしまうのは、無限に対してだけちゃんと対応できないからだ。だから……。
「…………。わからないわ……」
「そっか」
 紅泉はうーん、と唸って、眉を寄せ俯くナマエから、窓の外に目を向ける。
「でも、とにかくナマエは恋がしたいのよね?」
「え?」
 思ってもみなかったことを言われ、ナマエはふと顔を上げ瞬きをする。だって、と紅泉は肩を揺らす。
「恋のこと勉強して、知りたいって思ったら、実際やってみるのが一番だし。そうしたい相手がいるから、こんなに悩んでるんでしょう?」
「恋を……」
 まだ、そこまで考えられるところまできていなかった。だが、紅泉に指摘されて、初めて意識をそこに昇らせる。
 ――私にも、恋ができる?
 とくとく、と心臓が脈を速くする。
 ――私は無限様と、恋がしたい?
 いままでは、無限の求めにどう応じればいいのか、とばかり考えていた。ずっと受け身の姿勢だった。ナマエ自身がどうしたいか、という視点はすっぽり抜けていた。
 紅泉は内心の葛藤を如実に表すナマエの表情をじっと眺める。
 頬を両手で押さえ、次第にその色を薔薇色に染め、白い肌を覆っていた影はするすると晴れていき、瞳がきらきらと光を帯びていく。
 ナマエにこんな表情をさせる相手は幸せ者だ。どこまでも純真で素直な初恋は、色づいた桃の実のように瑞々しい。
「紅泉、私……」
「うんうん。迷いは晴れたみたいね」
「わからないわ……。でも、前よりはどう考えればいいのか、わかったような気がする」
 もうナマエに本を貸す必要はなさそうだった。
「悩んでるよりも、行動した方がいいときってあるわ。頑張ってね、ナマエ」
 応援してる、と紅泉は心からナマエに伝える。ナマエもようやく笑みを見せた。

 ナマエは紅泉の部屋を出て、ぼんやりと館の廊下を歩く。
 どこかから誰かの楽しげな笑い声が聞こえてくる。この館には、本当にたくさんの妖精がいる。
 その中から、無限はどうしてナマエを選んだのだろう。
 ナマエと同じくらい長く生きている無限は、いままでにもたくさんの出会いをしたはずだ。実際、無限には妻と子がいた。ナマエはいつか連れて行ってもらった放河灯を思い出す。ナマエは風息を偲び灯籠を流した。無限も家族を思っていた。無限は、妻に恋をしていたのだろう。そして結婚し、子供を設けた。いままではよくわからずに聞いていたその営みが、恋というものを具体的に知ったために急に目の前に迫ってくるようだった。
 恋をする相手は一人だけだが、恋をする相手が変わることもあるという。昔、無限はある女性に恋をしていて、今は、ナマエに恋をしている。そういうことだろうか。それは浮気にあたらないのだろうか。
 かつて、あの瞳を向けられた人がいることに気付いて、どきりとする。その瞳に宿った炎は同じ色をしていただろうか。
 無限に恋をされるということは、無限に恋をするということは、どんな気持ちだっただろう。話をすることができたらいいのに、とナマエは心の底から思った。今、ナマエの気持ちを一番理解してくれるのはその人以外にいないような気がした。
 なにせ、ナマエ自身も自分の気持ちをはかりかねている。
 無限に好意を向けられることは、いやではない。嬉しい。
 そんな無限に、恋ができたらきっと素敵だと思う。
 だが、本当にこの気持ちを恋としていいのかとも迷う。
 まだ、ナマエの中で無限への気持ちと、例えば小黒への気持ちのはっきりとした違いが見いだせていない。
 とはいえ、小黒に恋をするかといえば、それはしないと断言できる。小黒自身がナマエに恋をしていないのだから、そもそも応えなければならない必要性というものがない。
 そう、ナマエは無限の思いに応えたいと思っている。
 しかしそれが、恩に報いるためなのか、恋のためなのか、と言えば、わからない。
 そこが明確にならないままでは、無限に本当の意味で応えたことにはならないのではないかと思う。
 だって、無限が求めているのは恋なのだから。
 ナマエは自分の手を握り、口元に寄せる。紅泉の言葉を思い出す。悩むより、行動した方がいいこともある。ナマエは無限の姿を探して、足を向ける方角を定めた。

 無限は部屋にいなかった。ナマエは心当たりの場所をいくつか回って、中庭のひとつに辿り着いた。ここは、たまに無限が小黒の修行をしている場所だった。無限と小黒は少し離れて立ち、向かいあっていた。無限が金属を操り、小黒へ向けて飛ばす。小黒はそれを受け止めて、自分で操作し、無限へ返す。小黒の技術は日に日に向上しているようだ。もたつかず、滑らかに金属を操っているように見える。
 ナマエは中庭を囲う壁から顔をのぞかせるようにして、二人のやりとりを見守った。
 小黒の操る金属が無限の頭の横を通り過ぎ、髪を揺らす。藍鉄色の髪は艶やかに散って、さらりと顎の下に揃う。無限はまったく揺らがずに、金属の支配を取り返し、小黒の方へ飛ばす。身体はほとんど動かさず、指先のちょっとした動きだけで、金属は自由自在に飛び回る。ほとんど揺れず、小黒にひたと向けられる眼差しは師匠のそれであり、厳しさと、聡明さと、穏やかさに満ちている。
 小黒にはあんなふうに眼差しを向けるのかと、ナマエは改めて知った。自分に向けられるものとはまったく違っている。だが、同じく愛を感じる。
 その眼差しの根底に流れる愛情は確かにある。なのに、どうしてこうも違って感じられるのだろう。何ともわからない息苦しさに胸が痛んで、ナマエは胸元に手を当てる。今、無限を前にして、確かにナマエは、他の人では湧き上がらない感情を抱いている。
「ここまで」
 無限の声で、ナマエの心は引き戻された。小黒は張り詰めていた気を弛めて、お腹空いた! と両手を上げた。
「ナマエ」
 声を掛けようと考える前に、無限の瞳はもうナマエを捕えていた。いつから気付かれていたのだろう、と思うと恥ずかしさが募る。ナマエはしずしずと壁から出て、二人の前に姿を現した。
「待たせてすまなかった。何か用だったか」
「いいえ。真剣にしていらっしゃったから、遠慮しておりましたの」
「あ! ナマエ、僕の修行見てくれてた!?」
 小黒はナマエを見付けると、頬を上気させて駆け寄ってきた。
「すごかったでしょ!」
 そんな小黒を見ているだけで、緊張していたナマエの心が解けていく。ナマエは頬を弛めて、膝をかがめた。
「ええ。見ていたわ。どんどん強くなるわね」
「へへへ! すぐに師匠より強くなるよ!」
「まあ」
「まだまだだ」
 自信たっぷりな小黒にそう言いながら、無限の口元もほころんでいた。
「ねえ、ナマエも一緒に食堂いこう? ぼくお腹が空いちゃった!」
 軽食を食べに行きたいのだろう、ナマエはいつもならすぐに頷いてやるのだが、今は無限に用がある。無限はそんなナマエの様子を察して、小黒に言った。
「小黒。私たちは後から行くよ。先に食べていなさい」
「え! どうしたの?」
「ちょっとやることがあるんだ」
「そうなの? じゃあ行くけど……。師匠の分も食べちゃお!」
 小黒はにやりと笑うと、だっと廊下を走って行ってしまった。よほどお腹が空いていたらしい。無限は元気な弟子の姿を見送ってから、ナマエに向き直る。ナマエは気を使ってくれたことに感謝して少し頭を下げた。
「昼にはまだ少し早い時間だな」
「はい。お邪魔をいたしまして……」
「いいんだ。あの子はもう食堂の人たちとずいぶん仲良くなっているし」
 ナマエの料理が食べられない間はずっと食堂を利用していた。無限自身が食事の仕度をしてもよかっただのが、小黒ががんとして食堂利用を主張したのでそうなった。
「ここでの生活も、馴染んできたようだ」
「ええ」
 ナマエは言葉少なく相槌を打つ。袖で口元を隠し、目を伏せ、少し距離を開けたところに立ってはいるが、全身がすぐそばにいる無限の存在を意識していた。
 ナマエが無限に声を掛ける前に向こうがこちらに気付いてくれていたことが、とても嬉しかった。すぐに声を掛けてくれて、心が弾んだ。今もどきどきと胸が高鳴っている。ナマエは、そんな自分の反応を、ひとつひとつ確かめる。
「やはり、ひとところに落ち着くのは大事だったな。修行への身の入り方が違うよ」
「そうですの?」
「うん」
 ちらりと無限の表情を盗み見る。無限は弟子の姿を思い出しているように微笑を浮かべていた。
 その笑みが、好きだと思った。
 初めの出会いは、あまりいい印象を与えたとはいえなかった。隠れ住んでいた島を荒らされ、兄弟たちと散り散りになってしまった。
 しかしそのあとは小黒にもあまり手荒な真似はせず、ナマエの身体を案じてくれもした。風息の計画に不安を抱いていたナマエは、館の人間である無限を信じることに決め、小黒を預けた。
 風息を喪い、兄弟たちと引き離されたナマエのことを、気に掛けてくれる無限の優しさはとてもありがたかった。小黒の無邪気な笑い声が、ナマエの悲しみを和らげてくれた。
 無限に初めて好きだと言われたときには、ただ親愛の情として受け取り、これからも変わらぬ友情を保っていけたらと願った。
 だから、無限にそうではないと言われて戸惑った。それはナマエの知らない情の在り方だった。
 大きなきっかけは、やはり瑞英だったのかもしれない。無限の身が危険に晒されると知って、無限という存在が自分の中でとても大きくなっていることに気が付いた。
 家族とも、友人とも違う。
 大切な存在。
 そんな無限が求めるのなら、応えるために知らないことを学んでいきたい。
 長い髪、秀でた額、力強い眉、鼻筋、厳しくも優しい口元、そして何より炎を宿した碧玉の瞳。
 鍛えられた肉体、それを包む衣服の裾のはためき。後ろに回された両腕をゆったりと組み、背筋を正して立つ姿勢。
 今ナマエの目に映る無限の姿が、とても眩しく見える。
「無限様――」
 だからきっと、この選択は間違っていない。
 私がしたいと望むこと。
 こう振る舞いたいと感じるままに。
「私は……」
 無限の顔がナマエをまっすぐに見つめる。その瞳に吸い込まれて、ゆらりと倒れ込んでしまいそうだった。
「……ナマエ」
 自分では踏みとどまったつもりだったが、視界が揺れた。無限の顔が一瞬見えなくなり、何かに縋ろうと慌てて突き出した腕がしっかりと下から支えられる。ナマエは驚いて顔を上げた。
 鼻が触れてしまいそうなほど近くに、無限を感じた。
「…………っ」
 かっと身体が沸き立つ。
 押さえようとする前に、冷気が溢れてしまった。いけない、と思ったときには自分の身体に触れている無限の手が強張った。
 ナマエは目を閉じて気を集中し、冷気を抑え込む。感情が乱れて力を操り損ねるなど、子供のころ以来だ。
 ナマエは至らなさに歯噛みしながら、無限の手を振り払い、数歩後ろへ下がって距離を取った。
「やっぱり……いけませんわ」
 自分の冷え冷えとした手を胸元に押し付け、声を絞り出す。

「私は、無限様の恋人にはなれません」

 無限の顔を見ることはもうできなくて、ナマエは決別するように背を向けた。

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