第三十八話 恋



「腕、すっかりよくなったわね」
 右手で茶壷を持ち、左手で蓋を抑えるナマエの白く細い指をしげしげと見ながら、紅泉は笑みをこぼした。
「ええ。このとおり」
 ナマエは茶壷を置くと、自分の分の茶杯を両手で持ち上げて、一口飲む。
「ずいぶん掛かったわね。やっぱり腕一本再生するのって時間かかるのね」
 私はなくしたくないわ、と紅泉は自分の身体を腕で抱きしめた。
「だから、無限様と小黒に料理を作ること、再開しようと思うの」
 本当はもう少し早く再開してもよかったのだが、無限と小黒はナマエの爪の先まで完璧に戻ってからでないとだめだと強く言い張ったので、今になってしまった。
「それはよかったわ。それで、無限様とは最近どんなかんじ?」
「どんなって……」
 ナマエは答えようとしたところで、ぱっと頬を染める。まだ、無限の眼差しを受けるとどぎまぎしてしまう。最近は小黒や誰かが一緒にいるところで会うのでなんとか普通に振る舞えているが、もし二人きりになってしまったら、やはり戸惑ってしまうだろう。
「近頃は、少し任務も落ち着いているようで、小黒の修行をよくしていらっしゃるわ」
「よかった。無限様が館にいるようになってだいぶ経つけど、なんだかんだそんなに不満も出てないみたいだし。なによりよね」
「ええ。本当に」
 ナマエが知る限りでも、どこかで問題が起こったということは聞いていない。館の中は穏やかだ。
 だが、ナマエの胸中はそうでもない。ずっと悩み続けている。
 ナマエは少し黙り込んだ。今日は紅泉に相談しよう、と胸に秘めて彼女に会いに来ていた。
 紅泉はナマエが館に来た時からよく気にかけてくれて、話し相手になってくれた。お茶の淹れ方や料理、買い物の仕方、洋服の着方など、様々なことを教えてくれた。
 きっと、恋愛事についてもナマエよりずっと詳しいだろうと思う。 だが、いざとなるとどう訊ねればいいのか迷ってしまった。
「どうかした?」
 もじもじしているナマエの様子に、紅泉はすぐ気が付いた。ナマエはええと、と指を組んだり解いたりしながら、口を開く。
「紅泉に、教えてほしいことがあるのだけれど……」
「なに? 私に教えられることなんてそんなにないけど」
「そんなことないわ。いつもあなたにはたくさんのことを教えてもらっているもの」
 謙遜する紅泉に、ナマエは首を振った。
「私はわからないことだらけで……。だから、今も戸惑うばかりなの」
 自分の胸に手を当てて、ナマエはしみじみと言う。
「恋って、どんなものなのかしら」
「あら」
 途端に、紅泉はぱっと笑顔を浮かべて、前のめりにナマエの顔を見つめた。
「ちょっと! お相手はまさか……!?」
「あの、違うの。そういうのじゃなくて」
 ナマエは慌てて手を振るが、照れなくていいわよと紅泉は身を乗り出してくる。
「ただ、知りたいの。恋について」
「うんうん。わかったわ」
 漠然とした問いだったが、紅泉は妙に物分かりよく頷いてみせる。
「そういうことなら、教材はいっぱいあるわよ!」
 そう言うやいなやちょっと待ってて、と立ち上がり、奥の部屋へ行ってしまう。ナマエは手持ち無沙汰になりながら、紅泉が戻って来るのをそわそわと待った。
「じゃーん!」
 戻ってきた紅泉は両手に本を十冊ほど抱えていた。それを卓子の上にどさっと置く。大きく息を吐いて、腰に手を当てた。
「まだいっぱい奥にあるんだけど、とりあえず特におすすめの恋愛小説を見繕ってきたわ!」
「恋愛小説?」
「そう!」
 紅泉は一番上の本を手に取り、ナマエに見えるようにぱらぱらと捲ってみせる。
「これは人間の男と女が出会って恋に落ちる話。短いから読みやすいと思う。これもそう。昔の時代の本を選んでみたわ。その方がいいかと思って。現代小説もあるけど。それから、どれも人間が書いたものよ」
「恋に落ちる話……」
 ナマエは一冊を開いて冒頭を読んでみた。これなら読み進められそうだ。
「特におすすめはこれね。人間と妖精の恋のお話よ」
「人間と妖精?」
 それを聞いてナマエはどきりとする。まさしくナマエが知りたかった話だ。紅泉はそんなナマエの反応を確認するように眺めながら、花が描かれた表紙の本を取り出した。
「切なくてすごく泣けるんだけど、愛が詰まったとっても素敵な物語なの。ナマエも気に入ると思うわ」
「そうなのね……」
 大爽に聞いた人間と妖精の話も、確か悲しい結末だったと言っていたことを思い出し、ナマエの胸がぎゅっと痛む。
 やはり、人間と妖精とは、本来交わらないものなのだろうか。
「全部は……重いか。いくつか気になるの持って行って。返すのはいつでもいいから」
「助かるわ、紅泉」
 ナマエは数冊を借りることにした。
 本は自室に戻ってからじっくり読むことにして、ナマエは椅子に座りなおした紅泉に訊ねた。
「紅泉は恋をしたことはある?」
「私? 私はねえ……」
 頬に手を当て、考えるようにしたが、へへ、と悪戯っぽく笑った。
「実はないの」
「そうなの」
 紅泉は手を組み、腕を捻じるようにしながらそりゃねえ、と言う。
「小説とかドラマとか映画とか漫画とか、恋愛ものを見てドキドキしたり、泣いたり、いいなーって思うことはあるんだけどさ。現実に、そういう風に思える相手に出会ったことないんだよね」
 つまんないよね、と紅泉は唇を尖らせる。
「物語の主人公に起こるようなこと、身近に起こったらいいなって思うけど。これがなかなかないのよね」
 もう一度つまらない、と繰り返し、どこかに出会いないかなーと頬に手を当て、溜息を吐いてみせた。
「まあまだ人生長いし。これからに期待!」
 前向きな紅泉の笑みにつられて、ナマエも思わず笑ってしまった。
 紅泉は手を膝の上に置き、じっとナマエの顔を見る。
「ナマエはいいなあ」
 そしてしみじみ言うものだから、ナマエは何が、と首を傾げた。
「ううん。ま、だから恋愛について具体的なアドバイスはできないけど、話聞くくらいだったらできるし。これからも何か悩んでたら話してよね」
「ありがとう、紅泉。私も、紅泉が悩んでいることがあれば相談に乗るから」
「ははは、そのときはお願いね!」
 恋愛の話はそのあたりにして、またお菓子を食べお茶を飲みながら日が暮れるまで二人は一緒に過ごした。

 夕飯を食べ終えたナマエは、さっそく一冊の本を手に取った。紅泉が勧めてくれた白い花が表紙の本だ。
 いったいどんなことが書かれているのか、少しどきどきしながら頁を捲った。
 その本の主人公は、病弱な少女だった。少女は自分を助けてくれた妖精に憧れ、いつしか恋慕うようになっていた。ひょんなことからその妖精と知り合い、一緒にお茶を飲むようになった。少女は妖精に心のうちを伝えたが、妖精はその意味をすぐには理解しなかった。
 ――私と同じ。
 と、ナマエはどきりとする。妖精は人間のように異性を必要としない。だから、好意を抱くということの本質がわからない。妖精も、誰かを好ましいと思うし、友達や、家族として親しくすることがある。だが、恋というのはそれとは違うものなのだという。
 たった一人だけに向ける、特別な感情。それが恋なのだと。
 無限の言う好きは、ナマエ一人だけに向けられているのだろうか。無限はたくさんの人を大切に思っている。ナマエはそのうちの一人だ。そう理解していた。
 ナマエも、無限を大切に思っている。家族とは違うけれど、大事なことには変わりない。
 それが、特別、ということになるのだろうか。
 物語を読み進めていくと、妖精はいろいろなやり方で恋がどんなものか知ろうとしていた。今のナマエと同じだ。彼女が大事だからこそ、その気持ちを知りたいと願い、努力する。ナマエも、無限が大事だから自分に何を望んでいるのか知りたいし、応えられるものならそうしたい。彼のように努力すれば、ナマエも恋を知ることができるだろうか。
 妖精は少女と触れ合うことで、少女へと抱く感情が次第に変化し、それは友達に向けるものとは確かに違うようだと気づいた。
 ナマエはいつしか物語を追うのに夢中になって、自分の悩みも忘れ、二人が短い時間を精いっぱい幸せに過ごしたことを見届けた。
 病弱な少女が息を引き取るときまで、妖精は傍にいた。
 そして、彼女がいなくなった後も、妖精は彼女のことを忘れない。
 感情がせり上がり、涙が溢れた。悲しいけれど、心が温かさに満たされている、そんな読後感だった。
「恋って、素敵なものなのね……」
 お互いを思い合う二人の姿は微笑ましく、こちらまで幸せを感じるようだった。だからこそその時間がわずかしかないことが切なくて、胸が痛んだ。
 ふと時計を見ると、もう真夜中だった。すっかり夢中で読んでしまった。紅泉に借りた本はまだまだある。ナマエは次の物語を楽しみにしながら、寝床に入った。

 翌日はいつもの場所に行って、別の本を読むことにした。しばらく読んでいると、誰かが近づいてくる足音がした。ここに来るのは無限くらいだ、と思いナマエはどきりとする。思った通り、無限が顔を出し、ナマエと目が合うとにこりと笑って見せた。
「今、何をしているだろうと思って」
「本を読んでいたんですの。紅泉に恋愛小説を貸してもらって」
「恋愛?」
 無限は少し目を丸くしながら、ナマエの隣に座った。ナマエは無限との間に空いた距離を意識しながら、つとめて平静な声音で答えた。
「昨日読んだ本は、妖精と人間の恋物語でした。悲しい結末で、つい泣いてしまうくらい……。でも、素敵なお話でしたわ」
「そうか」
 無限はナマエが話すのを、目を細めて聞いている。
「私、恋というものがどういうものかわからないので、紅泉に相談しましたの。そうしたら、これを貸してくれたのです。確かに、登場人物たちが恋をしている様子を見ていたら、何かわかりそうな気がしてきましたわ」
「本当に?」 
 ナマエは頷いて、本を膝の上に置き、無限へ目を向ける。
「恋というのは、たった一人としかできないのでしょう?」
「そうだな」
 無限は顎に手を添え、言葉を選ぶように間をあけた。
「基本的には、そうだ。もし恋人がいる人間が別の人間に恋をしたら、それは浮気という。あまりいいことではない」
「まあ、もう恋をしているのに、別の方に恋をすることがあるんですの?」
「人による」
 ナマエは驚いて、浮気……と慣れない言葉を繰り返し呟いてみた。特別なのは一人ではなかったのだろうか。もう特別に思う人がいるのに、他の人が特別になることが、ナマエにはうまく想像できない。
「結婚も、一人としかできないのですわね?」
「そうだよ」
「その……無限様は……」
 ナマエはふと思いついたことを訊ねようとして、それを言葉にするのがあまりに気恥ずかしく、手で口元を覆う。
「私を……好きだと……」
 ほとんど消え入りそうな声になってしまった。意識するまでは、あんなに自然と受け入れられたのに。改めて考えると、なんだか大層なことのような気がしてくる。
「あなた一人だけだよ、ナマエ」
 無限はナマエの意を酌んで、微笑みを浮かべ、ナマエの目をまっすぐ見つめながらそう伝えた。
 それが思った以上にナマエに衝撃を与える。
 ナマエは何も言えなくなり、息をするのも苦しいほどだった。
「……あ、の……恋、を……」
「ああ。あなたに恋をしている」
「……!」
 正面切って言われてしまうと、逃げ場がどこにもなくて思いは冷気として溢れだした。
「あっ……ごめんなさい!」
 無限の指先を凍らせてしまいそうにいなったことに気付いて、ナマエは慌てて冷気を引く。なんとか気持ちを静めようと髪を撫でつけながら、呼吸を整えた。
「……。すみません。どうお答えしていいのか、わからなくて……」
「かまわない」
 ただ謝るしかできないナマエに無限はまるで気にしない様子なので、余計に申し訳なさが募った。なんだか一人で狼狽えてしまっている。
「難しく考えなくていい。あなたが思ったとおりに、振る舞ってくれればそれでいい」
「でも……」
「今、どう思ってる?」
「それは……」
 ナマエが袖で顔を隠そうとすると、無限は優しくそれを掴み、下ろしてしまう。そして、こちらを見て、と目で伝えてくる。ナマエはおずおずと無限の口元辺りに目を向けた。
「どうすればいいのかわからなくて、戸惑っていますわ。無限様の瞳が、見られなくて……。こんなに近くにいるのが、落ち着かなくて……」
「……そうか」
 無限は申し訳なさそうに俯くナマエの顔をじっと見つめた。長い睫毛が震えながら伏せられ、白い肌に繊細な影を落としている。その頬は赤らみ、視線は頼りなげに彷徨っている。唇は何かを言いたそうに微かに開かれているが、舌は歯の奥で動こうとしない。
「いやか?」
「いいえ」
 ナマエは即座に否定した。
「お応えしたいと思っています」
「私の気持ちに?」
「はい」
 ナマエは椅子の上に置かれた無限の手を見つめながら頷く。先ほど取り乱して凍り付かせてしまいそうになった指。
「無限様は、私に何を望んでいらっしゃいますか?」
 ナマエの問いに、無限はすぐには答えなかった。少し間を置いて、口を開いた。
「料理を。……作ってほしい」
「え?」
 それは想定外の回答で、ナマエは思わず無限の顔を見上げる。それはもう、とっくにしていることだ。困惑しているナマエを見つめながら、無限は優しく笑っていた。
「そう、急ぐことはない。私はただ、あなたの傍にいて、こうして話ができて、あなたの料理を食べられることが嬉しいんだ」
「それだけで……よいのでしょうか」
「今は」
 ただ、と無限はナマエの膝の上にある本を示す。
「わかろうとしてくれることもとても嬉しい。少しずつ知ってくれれば、おのずとどう振る舞えばいいのかもわかるだろう」
「そう……ですわね」
 無限はナマエの戸惑いすらも受け止めてくれている。思った通りに振る舞えばいいという言葉に、少し気持ちが収まった。
「では、そろそろお昼ですわ。小黒も呼んで、お昼にいたしましょう」
「ああ」
 ナマエは本を手に立ち上がり、無限と一緒に歩き出す。
 昨日読んだ本では、妖精は恋を知るために少女を抱きしめてどんな気持ちを抱くか試していた。無限の傍にいるだけで気持ちが騒いでしまう今のナマエでは、抱きしめてもらうなんてもってのほかだ。
 瑞英との戦いの後、無限に抱きしめられたことを思い出した。
 怒りと恐怖に支配されていた心がすっと落ち着いて、この人を守りたいと思ったことを覚えている。そのときはこんな風に戸惑ったりはしなかった。また、落ち着いて抱きしめてもらうことはあるだろうか。
 そもそも、男女の間で抱きしめるということはあまりしないそうだ。それこそ、恋人同士という関係で行う行為だという。しかし、あのときの行為は、無事を喜ぶものだっただろう。あのとき、ナマエと無限の間で通じた想いはなんだっただろうか。
 ナマエはふと一歩先を歩く無限の後ろ姿を窺う。
 ――私は、この方に恋をするのだろうか。
 本を握る手に少し力を込めて、ナマエは無限の後を静かに歩いた。

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