第三十七話 紅



 それは棗の実が生る秋ごろのことだった。
 まだ虚淮と風息と三人で過ごしていたときだ。
 ナマエが摘んだ棗を干していると、風息が顔を出した。肩には人間の子供を担いでいる。
「あら、どうしたのその子」
「迷ったらしい」
 その子は風息の髪を掴み、鼻の頭を真っ赤にして、ぐすぐすとしゃくりあげている。ずっと泣いていたようだ。
「かわいそうに。小さな子。お名前は?」
「……小梓……」
「小梓。近くの村の子かしら」
「たぶんな」
 近くといっても、こんなに小さな子供が歩くにはずいぶん距離がある。小梓は涙に汚れた顔で、じっとナマエの髪を見つめていた。
「きれいだろう。氷でできているんだ」
 それに気付いて、風息は少女をナマエの傍へ近づける。ナマエは手で髪をさらりと揺らしてみせた。日の光がきらきらと反射するのを見て、少女は目を輝かせた。
「あなたは、妖精さんなの?」
「ええ、そうよ」
 少女は恐れることなく、その髪に手を伸ばす。ナマエがその手に毛束を掴ませると、ひやりとした感覚にきゃっきゃと笑顔を零した。それを見て、風息はほうと息を吐く。さっきまでなかなか泣き止まずたいへんだったのだ。
「妖精さん、きれい」
 心細さでいっぱいだった心が落ち着いたらしい。ナマエは汚れた頬を袖で拭ってやった。子供だからだろうか、体温が高い。小梓はひゃっ冷たい、と肩を竦めた。
「暗くなる前に返してくる」
「それがいいわね。ご両親か誰かいればいいけれど」
「そうだな」
 ただ迷い込んでしまっただけならいいが、何かの理由で親か誰かに連れられて森の奥へ来たのだとしたら、彼女の戻る場所は村にはないかもしれない。とはいえ、どのような事情があろうと、まずは人間の元へ返すことが先決だ。
「髪、ふわふわね」
 そんな会話をよそに、小梓は風息の髪をまた掴んで、にこにこと笑う。ナマエとの違いが面白いようだ。
「のんきだな」
 迷って泣き続けていたのをすっかり忘れてしまったかのような笑顔だ。風息は呆れながら、うるさく喚かないならそれでいいが、と首を振る。
「小梓、もう迷うんじゃありませんよ」
「うん! また会おうね! ばいばい!」
 ナマエは風息に抱えられて遠ざかっていく小梓を見送った。
 日が落ちてしばらく経った頃、待っていたナマエと虚淮のもとへ風息は一人で帰ってきた。
「あの子は?」
「村に返したよ。ちゃんと家族もいた」
「それならよかったわ」
 ナマエはほっと胸を撫でおろす。
「村の様子はどうだった」
 虚淮の問いに、風息は忙しそうだった、と答える。
「これから冬が来る。その準備をしているらしい」
「そうか」
 冬の間は、人間たちの活動は鈍る。虚淮にとっては、その方が好ましい。森の中を歩いているとき、人間に見つかるとなにやら拝まれるので面倒だった。
 それから数年が経ち、そんな出来事があったことをすっかり忘れたころ、ナマエは森の中に作られた廟に詣でる娘の姿を見た。
 木に隠れて様子を窺っていると、少女は両手に抱えた布を祭壇に置き、手を合わせた。
「風息様。これは私が織った服です。感謝のしるしに、お贈りいたします」
 人間たちは、霊質を操る妖精を神と崇め、廟に祀っている。風息、と聞いてその少女が小梓だと気付いた。風息に助けられたあと、健やかに成長しているようだ。
 ナマエは小梓が帰った後、その服を広げてみた。布は綺麗に染められており、手触りがいい。きっと腕がいいのだろう。ナマエはその服を風息の元へ持って帰った。
「服?」
 風息はナマエに見せられたそれを見て、ふうん、と唸る。
「あのときの子供、もうそんなに大きくなったんだな」
「ねえ、せっかくだから一度着て見せてちょうだい」
「ナマエがそう言うなら……」
 風息はしぶしぶそれを受け取って、着替えて来た。その色合いは、風息の髪の色によく映えた。彼女は風息の髪の色をよく覚えていたのだろう。
「似合っているわよ」
「そうか?」
 風息は布をたっぷりと使った服の裾を持ち上げて見て頭を掻く。少し重くて、動きづらい。だが、自分のために織られたと思えば、いやな気持ちはしなかった。
 それから、数年ごとに小梓は服を奉納した。ときには女物の服もあったので、ナマエのことも覚えていたらしい。
 ナマエは喜んでそれに手を通した。
「素敵な色ね」
 ナマエが普段身に着けている青系と違い、淡い紫系統で統一されていた。
「綺麗だ」
「うん。いいんじゃないか」
 虚淮は楽しそうな姉の姿に目を細め、風息も笑みを浮かべた。
 ナマエはそれを着て、少し散歩をすることにした。歩くたび絹が揺れて心が弾む。きっとよい生地を選んでくれているのだろう。上着は薄く、下の生地が透けている。それがまた上品で目を楽しませてくれた。
 ある日、ナマエは虚淮と遠出をし、空を飛んで帰っていくところだった。
「この先に村がありますが」
 遠回りをするか訊ねる虚淮に、ナマエは太陽の傾きを見て、首を振った。
「まっすぐ行きましょう。暗くなる前に戻りたいわ」
「わかりました」
 夕方ごろなら出歩いている人間も少ないだろう。
 そう考えたのだが、予想は外れた。
 村に近づくにつれて、賑やかな音楽が流れて来たのだ。
「今はお祭りの時期でもないでしょうに……」
 そう思いつつ、心は楽し気な音に惹かれていく。少しだけ高度を下げて、何をしているのか覗き見たくなった。虚淮は何も言わずにあとをついてきてくれた。
「人がたくさん集まっているわね」
 どうやら宴が開かれているようだ。広場の、一段高くなった場所には、男女が二人いた。その豪華な紅い衣装がよく目を引いた。
「結婚式だわ」
 昔、館で働いていたときに見かけた景色を、ナマエは思い出していた。一緒にいた人が、あれは結婚式だと教えてくれた。人間の男と女が契りを交わし、人生の伴侶となるための儀式だと。
 そのときの光景と、今見ているそれはよく似ている。
 誰もが笑顔で、幸せそうだ。着飾った男女を囲む人々の笑い声が、こちらまで響いてくる。
「小梓……」
 頬を朱に染めて幸せそうに隣の男の顔を見上げているのは、確かにあの迷子だった。
「大きくなったのね」
 自然と笑みがこぼれて来た。何かお祝いをしてやりたい。
 ナマエは手を振って、氷の粒を降り注いだ。
 晴れた空から降ってきた雪の結晶に気付き、人々が空を見上げたときには、もう二人の姿はなかった。
 それからどれくらいの時が経ったのか、ナマエはたまたま服が供えられるときに出くわした。
 服を持ってきたのは、老女だった。若い男に支えられて、ゆっくりと歩いて行く。
「風息様。これが最後の贈り物となります。今日の日までこうして生きてこられたのも、あなた様の加護のお陰でございます」
 彼女の言葉通り、それ以降服が供えられることはなかった。しかし、彼女の子孫や、同じ村の信心深いものたちが、廟の手入れを欠かさずしていた。ナマエたちが直接彼らを助けることはほとんどない。だが、彼らは妖精の存在そのものに畏敬の念を抱き、手を合わせる。そうすることでご利益があると信じている。人間の不思議な習性だった。

 昔のことを思い出すのは久しぶりだ。龍遊を出てから、ゆっくり考え事をする時間というのはあまりなかった。ナマエは在りし日の風息の姿をまだありありと思い描けることを確認して、胸元に手を添え、目を閉じた。
 頬の辺りに、風を感じる。最近、昼を済ませたあとにはよく部屋の外に出て、ここに来て一息ついていた。
 館の片隅にあるここは人気が少なく、静かに風を感じられる。特に近頃は冷えてきたから、ここに長居する人は滅多にいなかった。
 ナマエは立ち上がって、自分の今の服装を見下ろす。いつも着ている、着なれたものだ。あの日、花嫁は上から下まで紅一色の衣装を着ていた。人間は、紅を祝いの色としている。
 こんな感じだっただろうか、と思いながらナマエは服を霊質で再現してみる。たっぷりした袖に、引きずるほどの長い裾。髪飾りもきらきらとしていたと思うが、細かいところは忘れてしまった。
 左腕を持ち上げ、袖をひらりとさせながらくるりと回ってみる。髪が肩をすべり、背中で翻る。
 人間は、今も変わらず結婚という制度を続けているのだろう。着る衣装は変わっているかもしれないが。あのとき、小梓はどんな気持ちでこの衣装を着ていたのだろう。小梓がくれた服の中に紅いものはなかった。
 結婚というものは、ナマエにとって縁遠いものだ。そもそもナマエは家を持たないし子供も作らないから必要ない。この衣装を着てみようと気まぐれに思ったのは、やはり考えてしまうからだ。
 人間である無限のことを。
 無限はわからなくていいと言っていた。だから、ナマエがこんなにも頭を悩ませることはないのかもしれないが、どうしても考えずにはいられなかった。無限の瞳に見つめられるたびにその思いがいや増していく。
 ――私はその瞳に秘められたものが何なのかを知りたい。
 ――それがわかって初めて、その瞳をまっすぐに見返せるようになると思うから。
 かつ、と石畳を叩く音に、ナマエははっとして顔を上げた。
 そこにいたのは、誰あろう無限であった。
「あ」
「きゃあっ」
 ナマエはかっと頬を染め、考えるより先に声を上げると服の裾を蹴り上げて無限に背を向け走り出した。建物の角を曲がり、目の前を壁に塞がれて初めてここが行き止まりであることを思い出した。
 逃げられない。
 息を整えようと苦労しながら、すぐに服を元に戻すが、もう遅いだろう。おかしな恰好をしているところを、無限に見られた。
 恥ずかしさにいっぱいになりながら、ナマエはおずおずと顔を出す。無限は先ほど見たのと変わらない位置に佇んで、あっけにとられた顔でナマエを見つめていた。
「あ……の、すみません。驚いて……」
 いまさら繕ってももう遅いが、なんとか誤魔化そうとナマエはもごもご弁明する。思い切り悲鳴を上げて逃げてしまった。
 だって、誰か来るなんて思っていなかったのだ。特に、それが無限だなんて。
「いや……。私こそ、驚かせたようで……すまない」
 そんなナマエの態度に面食らったのだろう、無限の方も言葉を詰まらせながらそう答えた。
「近頃ここによくいるようだったから、今日もそうだろうと思って……」
「あっ、また、探させてしまったでしょうか……」
 すみません、とナマエは身を縮める。
「私があなたに会いたかっただけだから」
 しかし無限は気にするなとそう言ってくれる。それはそれで問題のある発言だったが、ナマエはそれどころではなかったので聞き流してしまった。
「今の、服は……」
「あの、なんでもないんです」
 一番聞かれたくなかったことを聞かれそうになって、ナマエは言葉を重ねるようにして口早に声を上げた。
「ただその、昔見たことのある服を、ふと思い出して、それだけです!」
「そ、そうか」
 勢いよく言い切ったナマエに、無限はやや押されながら頷いた。
 ナマエはふうと息を吐いて髪をかき上げ、自分の服装を改めて確かめる。急いでいたから変なことになっていないか心配したが、大丈夫そうだった。
「心臓が止まるかと思った」
 無限はぽつりとそう言った。
 そして、いつものあの目で、ナマエを見つめる。
「あなたが誰かの隣でその服を着る姿が見えて、苦しくなった」
「どうして……?」
 無限はナマエに座るよう促し、自分もその隣に腰かけた。
「やはり私は欲深だ。あなたにわかってもらえなくてもいいと言いながら、もし別の誰かがあなたの隣にいるようなことがあれば、耐えられないようだから」
「そんな……」
 ナマエは無限の静かな物言いに驚いて、答えに窮した。まさか、そんな反応を返されるとは思わなかった。ナマエは考えながら、口を開く。
「その、この衣装は人間が、結婚式のときに着るのでしょう……?」
「ああ」
「だったら、私がこれを着ることは、ありませんわ」
「そうだな」
 無限の微笑は謎を含んでいて、ナマエは自分の言葉選びが正しかったのかわからなくなり、迷う。
「だが、よく似合っていた。息を飲むほど」
 無限の碧玉色の瞳が煌めいて、ナマエの不安そうな顔を映していた。下がっていた眉は驚きに開かれて、頬が嬉し気に染まっていく。その変化をありありと見て、これが自分の表情かとナマエは思った。
 そのまま捕えられてしまいそうで、咄嗟にナマエは目を逸らし、袖で口元を覆った。
「すまない、また見つめてしまっていたな」
 無限は笑って、捻っていた上半身を正面に向ける。ナマエも隣の無限を意識しながら、足元の地面に視線を落とした。
 なんて馬鹿なことをしたんだろう、という羞恥心は、すっかりなだめられてしまっていた。ただ無限という存在に、こんなにも気持ちを大きく揺さぶられる。
 いままで、ナマエをこんな風に見てくれる人はいなかった。
 だから、ナマエは無限のことを意識し、戸惑い、うまく対応できないでいる。
 もし、無限以外の人がナマエにこんな視線を向けて来たとしたら、ナマエはどう反応するだろう。
 同じように、戸惑うだろう。だが、これほど頭を悩ませただろうか。これほど、わからないことをわからないままにせず、わかりたいと望んだだろうか。
「無限様」
「うん?」
 無限はナマエの方を務めて見ないようにしながら言葉を待つ。ナマエはその横顔をじっと見つめた。
「きっと、すぐにはわからないと思います。でも、知りたいと思います……。だから、時間をいただけませんか?」
 無限は目を見開き、ナマエを振り返った。
「だから、教えてください。無限様のお気持ちを。もっと」
「ナマエ……」
 無限の左手がナマエの右手に重ねられた。熱い体温だったが、ナマエはそれをいやだとは思わなかった。
「いくらでも」
 言葉と同時に、重ねられた手に力がそっと込められた。
 この人に報いたい。
 その思いが、今のナマエの心を満たしていた。

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