どうやら怒らせてしまった。
 原因はよくわからないし、今の微笑を浮かべる表情からもはっきりとはわからないけれど、でも、たぶん、怒ってる。
 でなくちゃ、ベッドに押し倒されて、手首をやんわりと押さえつけられる、この態勢と、覆いかぶさってきた彼のいつになく強固な態度に説明がつかない。
 何が彼の逆鱗に触れてしまったんだろう。
 そもそもあるのかも疑わしいそれに、どうせ何も起こりはしないと安心しきって、甘え切って、知らず知らずのうちに、私は踏み越えてみしまったんだ。きっと。
 人の身とはまるでかけ離れた雰囲気の彼にも、確かに心があるのだということを、忘れかけた私の、これは過ちだ。
 自分の傷ばかり眺めては流れ出る血をいたずらに拭わせて、それを当然だとばかりに甘受して、感謝もろくに返さなかった。
 穏やかで、澄み切ったその凪いだ水面には、どんな人であろうと、どんな事象が起ころうとも、波風を立てられないだろうと思い込んでいた。
 いつだって彼は優しくて……こんなときだって、やっぱり優しいんだ。
「痛くはないですか?」
 そう訊ねながらも、私が動けない程度に込められた力は緩められる気配はない。窮屈さを感じながらも、私ははうんともううんとも答えられない。ただ、今起きている事態がまだ信じられなくて、どう反応をすればいいのか迷っている。
 本当なら、すぐにはねのけて、ふざけないでと怒って見せなくちゃいけない。
 なのに、彼の清らかな青の瞳の奥に燃えるほどの怒気を垣間見てしまって、それができなくなってしまった。
 身がすくんでしまった。
 彼は微笑を浮かべ、私の目を見つめたまま、片手で器用にシャツをまくりあげる。
 そして、くすくすと声を立てた。
「いやではないのですか、と聞きたかったのですが……どうやら、これから私が君に何をしようとしているのか、そもそも想像できていないようですね」
 動けないよう押さえつけられて、服をまくり上げられて、肌に、彼の手が触れて。
 彼は医者でもなんでもない、成熟した男性だけれど、でも、私と同じ種族ではないことは、確かで。
「不思議そうな顔だ。これは信頼の証……とはいえ、少々面白くない」
 彼の顔が近づいてきて、一部が私に触れたようだった。それは一瞬で終わるかと思ったのに、より確かにしようと圧力が加えられ、重さを感じ、痺れるような熱が最後にもたらされた。
「……っ」
 こんな風に人と触れたことがなかったから、何が起こったのかすぐには理解できなかった。
 唇と唇を重ねること、それは愛を伝える行動だ。私にとっては。
 でも、そこに込められた意味は、彼にとっても同じなのだろうか。
 訊ねる前に、熱い舌の先が私の唇に割り込んできて、口内を撫でまわした。私の舌を促す動きはまるでエスコートでもされているようで、ただ応えるように、求められるまま舌をくねらせ、絡める。その意味するところをまだうまく捉えられないままに、彼の伝える熱が肌の表面を伝わって、じんわりと身体をほぐしていく。
「……ぅ……」
「……この行為が、何かはご存知ですか?」
「……キス?」
「ええ、そう。キスですね」
「……どうして、したの?」
 いつもの調子で訊ねられたので、なんとか返事をすることができた。聞き返しながら、呼吸を忘れていたことに気付き、大きく喘ぐ。
「苦しかったですか? すみません、加減がわからないもので」
「だって、これ、は……空の民は、好きな人同士で……するんだけど」
 口にしてみるとやっぱり恥ずかしくなってしまった。釈迦に説法でもするような気分。ルシオだって、いくら浮世離れしてるといっても、それくらい知っているはず。でも、彼にとっては違う意味があるのかもしれない。
「存じています。しかし、行為自体は可能です。そこに思いがなくとも」
 話し方はいつもと同じなのに、言葉の選び方に冷たさを感じてぞくりとする。やっぱり、怒ってる。
「ようやく、不安そうな顔をしましたね。そう、君はもっと危機感を持つべきだ。これから私がしようとしていることを、唯々諾々と受け入れてはいけない」
「え、何を」
 有無を言わせないとでもいうように、再び唇がふさがれる。
 ようやく離されるころには、脳が酸欠状態に陥っていて、ルシオの言いたいことがなんなのか、考えようにもまるでまとまらなくなってしまった。
「唇を許すということは、……私を受け入れるということなのでしょうか」
 ぽつりと、ルシオが独り言のように問う。
「ハナエル。私の名を知っていますか」
「さっきから、変だよルシオ」
「私の目を見て」
 あまりにまっすぐに見つめられて、思わず顔をそむけてしまう。直視できない。それは、ただ造りがあまりに整いすぎているから、それだけじゃなくて。
「……私を見て、ハナエル」
「……できない」
 震える声で、それでも私は、意思表示をする他なかった。
「ごめん」
 あなたの姿、あなたの声は、あなたを形作るものはあまりにも、あの人に似通いすぎていて。
 表情も、仕草も、話し方も、すべてあの人とは違うのに。
 あなたはあなたで、あの人はあの人だと、わかっているのに。
 わかりきっているのに。
 それでも、どうしても、割り切れない。
 怒って当然だ。どんな聖人だって、いい気はしない。
 自分の顔を通して、もういない誰かのことを想起されれば、誰だって、怒る。
「ハナエル」
 わかっていても、感情がついていかない。心が言うことを聞かない。そんな風に真剣に、まっすぐな目で見つめられてしまったら。
 息もできなくなってしまう。
「私の名を、どうかその口で」
「ごめん、ルシオ」
「謝罪を求めているのではありません。ハナエル。私を見るのは辛いですか」
「……ごめん。ルシオはルシオだよ。でも……」
「そう、私はルシフェルではありません」
 はっきりと彼の名前を口に出されて、びくりと心臓が跳ねる。
「私の名を呼んで。ハナエル」
 蒼の湧き出す瞳の奥底はどこまでも深く、いくら見つめても知れず、ただただ呆けた顔の私が映し出されているばかりで、嗚咽が次第に収まっていく。
 艶やかに流れる銀の髪、作り物のように滑らかな肌はその下に流れる血の赤が今はやや強く出ていて、潤んだ白目をより艶めかしく見せる。閉じられた唇はまだ濡れていて、よく聞けば呼吸も速く、浅い。
 彼もまた、生身の肉体を持ち、この空に生きる者には違いない。
「……ルシオ」
 彼は微笑を浮かべて、ようやく拘束を解いてくれた。
「君にそう呼ばれるたび、身体の奥底から喜びが湧き出てきます」
「え」
「主に何度なぜ、と問うても答えてはくれない。君にどうして、とぶつけて見ても、心はそうやすやすと変わらないでしょう。それでも、私は」
「ちょっと」
 起き上がろうとしたら、肩をぐいと押し戻されて、するりとシャツを脱がされてしまった。
 見られる、と思う前に敏感な部分に触れられてしまって、驚きのあまり動けずにいる間に濡れた唇が下へ、下へとキスを落としていく。
「ね、え、何やって、る、の」
「忠告はしましたよ」
「待って、ま、待って」
「実はもうずいぶん待っていたんです」
「いや、知らないから、ちょっと!」
「君は知らなかったでしょう。私がどれほどこの桃のごとき肌に焦がれていたか」
「知らないっやっ」
 やだという拒否の意思を示す言葉を発する前に、今までに感じたことのない感覚を与えられた身体はびくりと震える。握り締めようとした手のひらに、彼の指がするりと滑り込んできた。
「これから私が君に何をしようとしているのか、その説明は必要ですか?」
 耳元でいたずらっぽく囁かれ、ごくりと唾を飲み込む。
「私も舞台を降りた身。今までの私ならば、手を伸ばそうと考えることすらなかったのかもしれません。でも今は、こうして君に触れられることを知ってしまった」
 心なしか上擦った声は甘く震え、私の耳をくすぐる。
「赤く熟れた果実はやはり毒だ……」
 恍惚の表情を浮かべながら、彼は私の乳房に唇を寄せる。
「っあ」
 ずくん、と腰のあたりが痺れる。その感覚が怖くて身を捻じろうとするけれど、彼がそれを許さず、私は抱きすくめられてしまう。彼の舌が突起を転がし、水音を立てて吸い付くと、私の中の何かが目覚めてしまいそうで、恐ろしくなった。
「……だ、め」
 でももしかしたらもう、手遅れなのかもしれない。
 手を握り締めると、ルシオの大きな手が暖かく握り返す。
 その優しさが、私の心を挫く。
 また、甘えてる。
 彼にとらわれて、抜け出せなくなってしまう。
 今、跳ねのけなくちゃ。
「ひっ」
 足の間に手が滑り込んできて、息が止まる。
 硬くなった私の身体にかまわず、その指先は深いところを探り当てようとするようにうごめいた。
「ひ、や」
 下着の上からそこを擦り上げられて、悪寒とはまた違う震えが背筋を走った。
 強張った肉体とは裏腹に、感覚はどんどん鋭敏になり、開かれていくという予感がどんどん増していく。
「……濡れていますね」
 じかに触れずとも、すでに布に染みてしまっている体液を確かめて、彼は下着をずり下げる。抵抗しなくちゃ、と脳の片隅で思ったはずだけれど、そのときにはもう衝撃に何も考えられなくなっていた。
「あぁっ」
 信じられないくらいの痛み、けれどそれだけじゃない、未知の感覚。
 彼は私の耳元に唇を寄せる。
「力を抜いて。怖いことはありません。私に身を委ねて」
 無理だと首を振ろうとしたけれど、目元や額、頬に優しく口づけされて、なんとか呼吸をしようと試みる。
「大丈夫。ハナエル。ただ、私を受け入れて……」
「……んっ」
 眦から零れた涙は熱く、それを拭う彼の舌はもっと熱い。
 指はいつの間にかより深く潜り込み、私の中でうごめいた。
「はっああっ」
 肉襞を擦られて、なすすべもなく声を上げ、身を捩るしかない私に彼はさらに奥へと入ってくる。
「あぅっ……う、あんっ」
 どうなっているのか、何をされているのか、見ることもできず、わからないまま翻弄される。
「あぁ、かわいいですね……」
 そんな私を見ながら、彼は蕩けた表情で独白する。
「ハナエル……。いますぐ、繋がりたい……」
「えっ……あっ!」
 指が抜かれたと思う間もなく、稲妻のごとく訪れた引き裂かれるような痛みに声も出なかった。
「……っ!」
「ハナエル、私で君を満たしたい。私だけで、君の中を、すべて、満たして」
 うわごとのように繰り返される言葉が妙にはっきり聞こえたけれど、それ以外の何もわからなかった。
「わかりますか。ハナエル。君も感じていますか。私を。ハナエル。私は感じています。これ以上ないくらいに、ああ、こんなにも、ハナエル。君に私は包み込まれている」
「ルシオ」
 熱に浮かされたままただその名を呼ぶと、彼はなんだか泣きそうな顔で笑って見せた。汗にまみれたその姿はもしかしたら私たちとはそう変わらない存在なのかもしれなくて、手を伸ばしてみたくなった。
 ねえ、あなたは、ずっとそばにいてくれるの。
 乱れた彼の髪が、私の手のひらの中でくしゃくしゃになった。

 あの人はもういない。
 ほんの一瞬、ほんの一言、交わしただけの、泡沫の邂逅。
 あの人は私の夢。私の理想。私の信仰。
 ただの一方的な、憧れ、それだけ。
 でもとても大切で、ずっと抱き続けていく、私の芯でもある。
 そうあろうとする私の決意をかき乱されるようで、あなたを見るのは辛かった。
 だから……考えられなかった。あなた自身と、私自身の、他の誰も介さない、個人的な関係の発展する先について。
 でもあなたは、きっとその話をしたかったんだね。
 ねえ、あなたは、私の隣に降り立ってくれたと、同じ空の下にいると、そう思ってもいいのかな。
 この先もずっと、あなたは私に、その名を呼ばせてくれるのかな。