20:Welcome home

 しんとした下町の夜は、深い霧に包まれていた。
 曖昧な街の中を、音もなく進んでいくのは銀色の人影だった。
 霧は彼から足音を奪い、存在感を希薄にする。彼は手に黒い物を携えていた。彼の身長と同じくらいあるそれを、軽々と担ぎ、彼は霧の中へと消えていった。



 ユーリは腹部に走った痛みに起こされ、一気に覚醒した。 
「いてて……あれ? ここは……」
 薄暗いが、そこが箒星で借りているの自分の部屋だということはすぐにわかった。部屋の入り口にはデュークが佇んでいた。
「これは返してもらう」
 彼は紫の光を帯びた剣――デインノモスを手に持ち、言った。
「ああ……。あんたが助けてくれたのか」
 デュークは答える代わりに古い書物を置いていった。ぱらりと捲ってみたところ、星喰みに関することが書かれている。
 デュークは星喰みに対抗する手段に心当たりがある様子だったが、詳しくは語らず立ち去ってしまった。
 追いかけようにも、脇腹が疼き、ユーリは腹を押さえて、ベッドに手を付いた。ふと、指先が肌に触れる。
 驚いて手を引っ込めかけて、また脇腹が疼いた。まだ完全に塞がっていない傷が、皮膚が引きつる度に痛む。アレクセイを倒した後、フレンの副官の女騎士――名はなんと言ったか――に刺されたのだ。
 フレンが自分を庇い、倒れたのを見て頭に血が昇ったものか。いや、彼女が何を考えていようと、そんなことは関係ないことだ。恨まれているなんて今さらだ。
 一度は死を覚悟したこの身が、なんの因果かまだ生きていること。
 そして、自分のベッドに横たわる彼女。
「セシリア……」
 どれくらいの時間が経ったのだろう。きっと、心配を掛けた。自分でも、死んだと思ったのだ。皆、魔核の崩落に巻き込まれたと思っただろう。

 どうして、ここにいるのか。
 甘い期待が浮かんでくるのを止められない。
 最期のときに思い続けたから、あるいは甘い夢を見ているのか。
 傷はずきずきと鬱陶しいくらいに痛むから、これは現実だろうと思うのだが。
 一度躊躇ってから、そっと指を伸ばし、前髪に触れた。うつぶせに寝転がった額から、ふわふわと跳ねている。
「セシリア」
 目を、覚ませよ。
 そんなに、シーツを握り締めなくたって。
 ほら、本物はここにいるんだぞ。
「セシリア……」
 くしゃ、と髪に指を入れる。柔らかな毛髪が、手の中で波打った。微かにセシリアが唸る。そしてゆっくりと、睫が震え、瞼が開かれた。

「…………っ」

 顔を、上げ。
 ユーリを、見つけて。
 セシリアは飛び起きるや、腕を伸ばしてユーリに抱きついた。

 いつの間に、とか、どうして、とか、夢じゃないのかとか、そういう諸々のことは全て吹き飛ばして、セシリアは確かにそこにいる暖かな体温に縋りつき、きつく抱きしめ、何度も何度もその手応えを確認しては、泣き続けた。

 ユーリ。ユーリがいる。
 なくなってしまったと思ったものが、確かに今、この腕の中に。
 私を抱きしめて、くれている。

「……ユーリ……ッ」
 ただ夢中でしがみ付いてくる彼女に、ユーリも胸が締め付けられて言葉が出なかった。
 蟠りも、躊躇いも、何もいらなかった。
 狂おしいほどの抱擁を交わしていれば、それで全てが満たされた。

 この匂い、この温もり、この柔らかさ。
 ずっと求めていたもの。ずっと欲しかったもの。
 それは変わらず、ここにある。
 ずっと、ここに、あった。

「セシリア……」

 それを互いにしつこいほど確認して、泣いて、気が済むまで泣きはらして、ようやくセシリアは涙を拭いた。
 ぐしゃぐしゃになってよく見えないような目で、ユーリの顔を両手で挟み、間近に見つめる。
「ユーリだ……」
「ああ、俺だ」
 ふふっ、と嬉しくてたまらないように、軽やかな笑い声を上げる。
 頬を挟む手を掴み、ユーリはセシリアを引き寄せた。
 幾度も唇を重ね合わせる。柔らかく押し付けあっては、優しく食み合い、熱く絡み合わせる。
 幾度も幾度も。時間を忘れて与え合った。
 深く深く。
 ひたすらに、深く。

 酸欠になった頭が、平衡感覚を狂わせる。ユーリは身体を支え損ね、セシリアともどもベッドに倒れこんだ。それすらおかしくて、セシリアは声を立てて笑う。また一筋、涙が零れた。
 それを拭いもせず、セシリアは手を伸ばしてユーリの首筋を捕まえ、キスを重ねる。
「んっ……」
 幾ら与えても、あとからあとから湧き上がって来る熱いほどの想いを、飽くことなく溢れさせる。それを受け入れる器もまた、底無しの無限大だった。
 指を絡ませ合い、腰を抱き寄せ、足を押し付け合う。
 互いの髪が絡まって、シーツはぐしゃぐしゃに乱れた。
「つっ!」
 セシリアの上に馬乗りしようとしたユーリは、ふいに脇腹が傷の存在を主張したため顔を顰めた。
「どうしたの?」
「はは、ちっと調子に乗りすぎたな……」
 こんなときに痛みに邪魔されるとは。
 しかし無理に押し通せば開きそうである。セシリアはユーリが押さえている辺りを探り、怪我の具合を調べた。
「深い傷……だめじゃない、無理しちゃ」
「無理も、するだろ」
 だってお前が、ここにいるんだ。
 途端に、セシリアは眉を下げて、目を潤ませる。あれだけ泣いたのに、まだ泣くつもりだろうか。
「ずっと……捜してたんだよ」
 声を震わせながら、セシリアは訴えた。なんとか、涙を堪えている。
「死んじゃったかと思ったんだから……っ」
 言うと同時に感情を高ぶらせて、セシリアはユーリの肩口に頭を押し付けると泣きじゃくった。枯れることを知らない涙が、温く湿らせていく。震える細い肩と、きつく握られた指が、彼女の苦しみを訴えていた。
 ユーリはセシリアの頭を掌で包むようにして抱き寄せ、改めて言った。
「ごめんな。心配掛けたな……」
「うん……っ」
 悪態の一つも出ない様子なのが、それだけ追い詰められていたことを感じさせるようで、遣る瀬無い。
「どれくらい、だった?」
「……もう、五日だよっ……」
「えっ、そんなにか?」
 ユーリの体感では一日か、二日程度だと思っていたのでセシリアが怒ったように訴えた数字は意外だった。それだけ経てば、生存の可能性が大幅に下がる。
「悪い……。俺も、さっき気がついたところで」
「さっき?」
 ユーリはデュークがここへ運んでくれたことを伝えた。その名前に、セシリアは泣くのをやめてきょとんとした。これが証拠だと古ぼけた本を渡すと、セシリアは受け取らず表紙だけを眺め、そっか、と呟いた。
「ほんとに……あの人には、助けられてばかりだな」
「ああ。とうとう俺までお世話になっちまった」
「ふふ。私たちの命の恩人だね」
「そうなっちまうか」
 向こうはデインノモスを失いたくなかっただけのようにも見えたが、危うく海の藻屑となりかけた命を拾ってもらったことには違いない。
 ユーリはぽん、とセシリアの頭に手を乗せる。
「お前を泣かせずにすんだんだ。……感謝しなきゃな」
「そうだよ」
 セシリアははにかんで、鼻を啜った。これが、自分を失って流された涙になっていたら、死んでも死にきれないところだ。あのときは、死んでも仕方がないと思ったが、どうしてどうして、こうしてセシリアを抱きしめ、愛しさを肌で感じていれば、すっぱり未練を断ち切れることなどできるはずがなかった。
 セシリアはユーリの胸板に頬を押し付け、ほうと溜息を吐いた。
「……無事でよかった」
「……ああ」
 詰まったように頷き、沈黙する。セシリアはふと顔を上げると、ユーリを正面から見つめた。潤いを湛えた澄んだ瞳が、ユーリの姿を映す。
「私、まだ失ってない?」
「え?」
「君を、失ってない……?」
 つう、と、指が縋るように、首筋から鎖骨へと下ろされた。服の襟に指が引っかかり、ぴくりと痙攣した。
「俺こそ」
 涙が滲む瞳に映されたユーリは歪んでいる。
「お前を失っては、いないんだな?」
 失ってしまったのか、とは問いかけない。
 だってお前は、ここにいる。
 ここに、いるんだろう?

 セシリアはまた、飽くことなく涙を溢れさせた。身体中が水で出来ているのじゃないかと思うほど、いくらでも流れ出てくるそれは綺麗で、愛しい悲しさに満ちていた。

 ねえ、ずいぶん。
 私たちは遠回りをしてしまったね。
 傷ついて、傷付けて。それでも信じた道を行こうと、傷を抉って血を溢れさせているのにも構わずに。

 泣き続ける彼女を胸に抱き、天井を仰ぎながら、ユーリは今までの道のりを思い返していた。思えば長く、やけに入り組んでいて、複雑な道を選んだものだ。
「……お前は、俺が許せないんだろう」
 ユーリは静かな思いでセシリアのこれまでの言動を反芻し、彼女が何を思っていたのか、浮かび上がらせようと試みた。
「お前が思うとおりにしてくれよ。騎士に差し出すでも、なんでも」
 ぴたり、とセシリアの涙が止まった。ぐずぐずと、鼻を啜る音がする。
「ばか」
 と、もごもご言うのが聞こえた。
 しばらくしてなんとか落ち着いたセシリアは咳払いをして喉の調子を整えながら、身体を起こした。
「……確かに、私、ユーリが許せなかった」
 セシリアも静かに、これまでの悲しみ、苦しみ、怒りを、平らかな胸の内に並べてみる。
「でも、帝国の法に引き渡したりなんかしない」
「……セシリア」
「今の帝国の裁きなんて信用できないから。そう言ったでしょう。フレンはフレンの考えで動くよ。私は私の、ギルドの正義で」
「……どうするんだ?」
 ユーリがそう問いかけると、セシリアの瞳がみるみる濡れていった。そのうち眼球が溶け出してしまうのではないかと、思わず心配になる。
 セシリアは泣きながら、怒りに眉毛を尖らせた。
「どうして何も言ってくれなかったの? どうして一人で勝手に行動するの。どうして一人で全部背負うのよ」
「それは……。こんなこと、お前に言えるわけがないだろ。言ったら絶対にお前は手を出すから……。お前に、こんなことさせられない」
「それが馬鹿だっていうのよ」
 セシリアは拳を作るとユーリの胸に突きつけた。
「本当に私のこと何も知らないのね。私は、守ってもらいたいわけじゃない。私は……君の隣に立って、一緒に戦いたかった」
「戦うって……でも、これは」
「それがユーリの決めた道なんでしょう」
「…………」
「私は、ユーリと同じ道を歩みたい。同じものを背負いたい。ずっと君の隣にいたかった……!」
 セシリアは涙を溢れさせ、ぐっと俯いて顔を覆った。ぐいっと涙を拭って、震える咽喉から声を振り絞る。
「なのにユーリはそれを許してくれなかった! 私も意地になって、ユーリを止められなかった自分を許せなくて、ユーリは止めてくれたのに、私は何もできなくて……悔しかった。こんな情けないんじゃ、君の隣になんていられないって……思って、逃げ出したの」
 最後の方は擦れてほとんど声になっていなかった。そこまでを伝えて、しゃくりあげるセシリア。ユーリは目を見開いたまま彼女の独白を聞いていた。
 心の中にあった硬いものが、がらがらと崩れ落ちていくような不安定な心地になった。セシリアと相対するための、強固な地盤が、彼女の本心に触れてまったくその支えを失ってしまったかのようで、反論する言葉が上手く出てこなかった。
 それでもユーリは、ずっと抱えていた苦い思いを、恣に吐露し始める。
「そんなの……俺の方が、俺は汚れを背負ったから……俺じゃお前を幸せにできないって、だから、お前が離れて……正直ほっとした」
「…………っ」
 ぎゅっとセシリアは顔を顰め、痛みを堪える。
 どうしてそんなことを、と怒鳴る前に、ユーリの穏やかな、切ない表情にあって出鼻を挫かれた。ユーリはセシリアから目を逸らし、窓の向こうへ、遙か遠くへと向ける。過ぎ去った日々の、その向こうへと。
「でも、ふとしたときに思い出すんだよな。話しかけちまうんだよ。セシリア、お前はどう思う? セシリア、お前はどうしたい?」
 セシリアは喘いだ。胸が苦しくて呼吸もままならない。泣いても泣いても、まだ止まらない。無尽蔵に、悲しみも辛さも、苦しく圧し掛かっていたもの全てが体の中から溢れ出していく。
「でも、答えは返ってこない。当たり前だ。俺が自分で、突き放したんだから……」
 抱き締めたくてたまらなかった。今すぐにでも飛び着いて、全てを涙で流してしまいたかった。ユーリは拳を握り締める。
「お前には……背負わせたくなかったんだよ。こんな……、表を、大手を振って歩けないような、そんな場所に引き摺り落としたくなかった」
「……馬鹿」
「馬鹿じゃねえよ。当然だろうが。こんなこと、俺が一人で背負えるならそれでいいんだ」
 押さえつけるように断言するユーリを、吹き飛ばすようにセシリアは声を高くした。
「背負えてないじゃない。全然背負えてないわよ。私にも分けなさいよ。私は、表を歩けなくてもいい。そこに君がいないなら、意味がないんだから」
 泣きそうに微笑みながら、きっぱりと言われてしまい、不意を食らってユーリは言葉に詰まる。
 なんだ、やっぱり、同じだったのか。
 はあ、と体から力が抜けた。ずっとしこりのように凝り固まっていたものが少しずつ解れていく。
「……馬鹿だな」
「馬鹿よ」
「ほんと、馬鹿だ」
 そう呟いた声は震えていた。セシリアは溜まらずに俯いたユーリの頭を抱き寄せた。
 もっと早くにこうしていれば。
 そう思うと同時に、やはりこの道程は必要だったのだと、思う。
 この、二人には。

 別離があったからこそ、これだけ素直になれたのだから。逆に言えば、あれだけのことがなければ自分から折れない、頑固者同士だともいう。
 二人は同じようなことを考えて、相手も同じようなことを思っていることを感じて、顔を見合わせて苦笑し合った。
「……セシリア、本当に、ここにいていいのか」
「うん」
「後悔、しないか」
「するかも」
「……正直だな」
「でも……しない後悔よりする後悔がいいから」
「……するったって、限度があると思うぜ?」
「余裕で限度内よ」
「はっ……そうかよ」
「そうよ」
「……じゃあ、いてくれ。ここに」
 ユーリはセシリアの腕を解いて顔を上げ、左手を差し出す。
「いるわ。これからは、ずっと」
 それをセシリアは、しっかりと握った。ユーリはそのままセシリアを引っ張り、自分の胸の中に抱きすくめる。
 ありがとう、と口にするのももどかしかった。
 二人は一瞬だけ見詰め合って、肌の温もりを与え合った。硬く抱き締め合って、唇を交わした。
 愛してるの、言葉の代わりに。
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