19:World he is not

 人々は寝静まっている。古い床を踏む度に、不安になるような音を立てて軋んだ。ドアの一つに手を掛けて、そっとノブを回す。ドアは泣き声にも似た音を立てて、主不在の部屋に訪問者を招き入れた。

 月明かりもなかった。
 とろりとした黒にまみれたその部屋は、奇妙に広々として見えた。一歩踏み出したら、底なしの淵に飲み込まれてしまいそうだった。
 ふらりと、踏み込む。床を踏んだ感触はない。ゆらゆらと揺れる船の、甲板の上を歩いているようだった。だがあのときのように心躍る愉快さはない。
 ベッドの側まで来ると、崩れ落ちるようにその上に倒れ込んだ。泥のような疲労感が背中にべったりと張り付いて、のしかかってくるようだった。身体中の筋がすり減って、軋んでいる。一体どれくらいの時間が経ったのかもわからない。もう永遠に、先の見えない夜をさまよった気がする。溜まりに溜まった疲労だけが、生きていることを思い出させた。

 瞼を一度閉じてしまったら、もう二度と目を覚ませなくなる気がする。あまりに気だるくて、それでもいいか、と投げやりな気持ちが生まれた。そう思うとふう、と残っていた僅かな力も抜け、ベッドに深く沈み込んだ。

 風がどこからか吹き込んで、頬を撫でた。暖かな声が耳を擽る。それに答えようとして、セシリアは身を堅くして目を見開いた。

 目を開いてもそこは闇だった。誰の息づかいも聞こえない。聞こえるはずがない。
 息をしようとして胸が詰まり、セシリアは喘いだ。ようやく自分がどこにいるのかを知ったように、はっとして辺りを見渡す。いつここに来たのかも思い出せなかった。ここに来るまで何をしていたのかもわからない。
「……疲れた」
 すぐに脳が思考を放棄して、セシリアはそのままベッドに倒れ伏した。
「……あ、ラピード」
 さっきまで一緒にいたはずだったが、部屋の中にいる様子はなかった。どこかで別れたのだろうか。それも思い出せない。やるせない虚脱感が全身を包む。
 何をやっているんだろう。下町の手伝いを放り出して。
「バカみたい」
 語気を強めて吐き捨てる。
「バカじゃない……」
 こうやって必死に探さなくとも、ある日ひょっこり、思いも寄らないところから顔を出すのがあいつじゃないか。そう、自分で言ったじゃないか。

 もっとユーリを捜そうと言う仲間たちを止めたのは自分だ。どうせすぐに戻ってくると、何の根拠もなく言い放って、ザウデから離れた。
 捜索から二日経ち、生存確率は絶望的になった。
 その事実に耐え切れず、不落宮にいると気が狂ってしまいそうで、あの太古の遺跡から逃げ出したんだ。
 それからのことはよく思い出せない。ずっと夜の中を彷徨い続けている気分だ。もう何日太陽を見てないのだろう。
 エステルもジュディスもリタも、カロルもレイヴンも、リオもフェリクスもいなくなった。誰の側にもいたくなかった。
 ラピードさえ、煩わしくなって。
 フレンの顔も見たくなかった。疲れ切った顔をして、「見つからない」と言うに決まっているのだから。そんな言葉、聞きたくない。

「ユーリ……」

 シーツを握り締め、濡れた布に顔を押し付ける。香りがしない。温もりがない。ここには、主の気配がほとんど残っていない。
 いってしまわないで。痕跡を消してしまわないで。息をするのも恐ろしかった。

「ユーリ……っ」

 どこにいるの。
 闇に深く沈んでしまって、もう浮き上がれそうもないの。
 どうして手を離してしまったんだろう。
 あのとき。
 あのとき。
 あのとき。
 ずっと側にいたなら、こんな、引き裂かれるような苦しみを味わわずに済んだの?
「帰ってきてよ……ッ! 勝手に、消えちゃわないでよ……っ」
 嗚咽が喉を焼き尽くしてしまいそうだ。肺が収縮して引きつる。呼吸が止まってしまう。心臓は激しく喘いで破裂してしまいそうだった。
「ばか……っ」
 こんな別れは、想像したこともなかった。
 たとえ離れていても、同じ空の下にいるのだと、そう思っていた。
 だから、身体ごと全て砂と化して崩れ落ちてしまったかのような喪失感に、どうすればいいのかわからない。
 実感なんて沸くはずがない。ユーリがこの世界のどこからも消えてしまうなんて、どうして想像できるだろう。

 もうあの声が聞こえないなんて。
 もうあの髪に触れられないなんて。
 もうあの笑顔を、見ることができないなんて。

 この宇宙から、彼という存在が消え去ってしまい、もうどこにもないというなら。
 この呼吸は止まるんだろう。
 それだけを、セシリアは確信して、意識を失った。
prev * 71/72 * next