18:Her lion's skin

 しばらく手分けして辺りを捜索したが、ユーリの姿はどこにもなかった。「海に落ちた可能性がある」と言って、フレンは捜索船を出すことを決めた。セシリアたちはその日一日粘ったが、とうとう服の切れ端一枚、発見することは叶わなかった。

「一度帝都に戻ろう」
 そう提案したのはセシリアだった。星喰みの脅威を、ダングレストにも伝えなければならない。「でも、もう少し」とエステルは迷いを見せたが、結局捜索の全てを騎士たちに任せることになった。
 しかし、カロルたちは納得行っていない表情をしていた。
「ねえ、やっぱりもう少しだけ捜そうよ。今戻っても、僕落ち着かないよ!」
「私もです、セシリア! どうしてやめてしまうんです?」
「ちょっと、やめなさいよ」
 セシリアに詰め寄るエステルをリタが宥めようとしたが、セシリアは構わない、とそれを制した。
「わかってます……っ、わかってるつもりです。でも、お願いします! 一緒にユーリを探してください……っ」
 今にも泣き出しそうな大きな瞳だった。切実に震えた、今にも崩れ落ちそうな悲痛な声に胸が痛む。セシリアは僅かに目を歪ませ、宥めるようにエステルの肩に手を置いた。
「エステル。星喰みを見たでしょう」
「……っ」
「一刻も早く、あれをどうにかしなきゃ。私たちに、立ち止まってる時間はない」
「そんな!」
 大切な仲間の行方がわからないのだ。その捜索の時間を、立ち止まるなどと言い捨てられて聞き流せるものではない。
 だがセシリアは、真っ直ぐにエステルの目を見据えた。
「彼ならそう言うよ。やるべきことをしろって」
「っ……!」
 エステルははっと息を飲んだ。見開かれた目に、涙がじわりと浮かぶ。そんなエステルに、セシリアはふ、と表情を和らげた。
「大丈夫! どうせその辺に引っかかって、抜け出すのに梃子摺ってるのよ。そのうちひょっこり帰ってくるから。ね?」
「セシリア……」
 釣られて、エステルも思わず噴出した。出っ張った鉄骨か何かに引っかかったユーリをつい、想像してしまった。そして、彼なら、何より彼女がそう言うなら、それもありうる、と信じることができた。
「じゃー、出航!」
 ぱっと、セシリアは手を上げる。バウルが一声鳴いた。フレンは必ず、と決意を込めた表情でセシリアを送り出した。
 セシリアは船首に立ったジュディスに並び、帝都を臨む。決して振り返ろうとはしないセシリアを、ジュディスは無表情を装って覗き見た。
 あまりに、前向きすぎる。それは、本当に本心だろうか。
 誰よりも取り乱し、嘆くべきだとは言わないが、もっと不安を見せてくれてもいいのではないか。
 まさか、本当に楽観視しているわけではないだろう。それとも、その生死すらもう気にならないというのか。
 思わず浮かび上がった疑念を、ジュディスは首を振って否定する。この二人の間のことは、ほとんど知らない。だが、ザウデで肩を並べて戦う二人の後姿を見ていれば、そうそう浅いものではないことだけは確信できる。
 だから、早く。
 生還してと、願うことしかジュディスにはできなかった。



 帝都では上空に現れた物体に不安を覚え、アレクセイらが勝利を収めたのではないかとの絶望的な見解すら流れていたが、悠々と飛ぶバウルの姿を見るや、人々はバウルの降りられるほど広い広場に押しかけた。
「セシリア! 無事だったか!」
「ごめん、心配かけて」
「いやいや、無事だろうとは思っとったがな」
 ハンクスは皺の寄った額を険しくしてセシリアが無傷であることを知ると多少表情を和らげたが、あくまで一つ心労が減ったという程度だった。
「それで、あれはなんじゃ」
 指をさした先の空には、禍々しいものが足を四方に伸ばし、世界を暗い影で覆っていた。
 セシリアは一度ハンクスやルブランなど主だった人だけを集めて、城に戻った。城にはヨーデルが騎士を連れて戻ってきていたので、彼らも含めて、セシリアはジュディスやリタと共に空に現れた化物、星喰みについての説明をした。
 ダングレストへの報告はリオが海賊の船で行くことになった。一度全員で戻るつもりだったセシリアは、「何かこちらでも動きがあるかもしれませんから」と言われ、フェリクスと一緒に残ることになった。
 エステルは城に残り、カロルとレイヴンはリオとダングレストに向かうと言った。
「今は、自分にできることをやろうと思うから」
 それでいいんだよね? とカロルはセシリアを見上げる。問いかけではあったがセシリアの答えを聞かずとも、彼はよく理解していた。頼もしいことだ、とセシリアは微笑んで、彼らを見送った。



「セシリア、ちょいとこっちを手伝ってくれんか」
「また壊れたの? やっぱり付け焼刃じゃもたないか……」
「仕方ない。物資も人手も何もかも足りんのじゃ」
 セシリアは朝から晩まで、寝る間も惜しんで下町の復旧に勤しんだ。リタとジュディスも、それを手伝ってくれている。リタは城の牢屋に入れられたアレクセイから何か話を引き出せないか、と合間に城に足を運んでいた。
 水道が破裂していては生活もままならない。ライフラインの復旧を重点に、セシリアは忙しく立ち働く。しかしろくに食事も摂っていない。そんなセシリアに、ジュディスは苦言を呈した。
「あなた、ちょっと働きすぎじゃない?」
「皆同じよ」
「少なくとも、皆は五時間は眠れているわ。あなたは昨晩、寝てないでしょう」
 上手く隠していたつもりだったが、ジュディスの目は誤魔化されなかった。それが妙に気恥ずかしくて、セシリアは少し笑った。
「大丈夫よ。これくらい、たいしたことないわ」
 本当に疲れたらちゃんと休むよ、と言うセシリアに、ジュディスは本当かしら、と身を屈めてその顔を覗き込む。肌が荒れてはいるが、確かに疲れは感じさせない。
「本当だよ」
 ジュディスはそれで納得したそぶりを見せて、身を引いた。セシリアの足に絡みつくようにして、ワン、とラピードが鳴く。
「フフ、いざとなったらラピードがベッドに押し込んでくれるわね」
「そうなる前に自分で入るようにしないとね」
 セシリアは肩を竦めて笑った。

 翌日、リタは考え込んだ顔をしながら、言いにくそうにザウデに戻ると二人に告げた。アレクセイはずっと放心状態で、役に立たない。だから自分でザウデを調べ、星喰みについて僅かでもわかれば、という思いだった。
「私も行くわ」
 ジュディスはリタをザウデに送り届けることにしたが、すぐには動かずセシリアを見つめた。セシリアは瞬きをする。
「ごめんね、私は残るよ」
 下町を放ってはおけない。それに、ダングレストからの知らせも待たなければならなかった。
「そう……?」
 ジュディスはじっとセシリアを見つめる。しかし何も言おうとはせず、ふ、と不思議な笑みを作り、手を伸ばすとセシリアの頬にそっと触れた。
「私たちが側にいたら、変に気張らせてしまうみたいだから……。一人にしてあげた方がいいのかもしれないわね」
「な、何の話よ……」
「強情な人」
 一瞬寂しげな表情を見せたが、ふいにくすり、と笑ってジュディスはセシリアの頬をちょっと突付く。
「ラピード、この人が無茶をしないように、しっかり見張ってちょうだいね」
「ワン!」
「無茶って、どっかの誰かじゃないんだから」
「……セシリア」
 ジュディスは真剣な瞳でセシリアを呼んだが、ふと言い淀む。
「一人で抱え込んではダメよ。あなたは一人ではないのだから」
 そう言った後に、もっとも、と自嘲して付け足す。
「私自身も、それを最近悟ったばかりなのだけれど」
 セシリアも、寂しさを覆い隠すように微笑んで、頷いた。
「……うん。わかってるよ。ありがとう」
「じゃあ……行くわね」
 そういいながら、名残惜しげに、後ろ髪を惹かれるように振り返り振り返りしながら、ジュディスはリタと共に下町から去って行った。

「大丈夫かしら……」
 船に乗ったはいいものの、リタは未練を残して下町を見つめ続けていた。セシリアが心配なのは、リタも同じだった。リタは、二人の、ただの恋人同士とはどこか違う、不思議な絆を何度も目の当たりにしていた。だから、彼女が不安を見せず、強かに振舞うのはよくわかる。そして一方で、自分の半身を失ったかもしれないという状況に、その胸中は察して余りあるとも考えていた。
「変なこと、考えたりしないよね」
 思わず、ジュディスは口を噤む。咄嗟にないわよ、とはいえなかった自分に肝が冷えた。
「まさか。ないわ」
 それでも、しっかり口に出して否定する。そうだよね、ないわよね、とリタも冗談にしてしまおうとできるだけ軽い口調で付け足した。
「心配なら、戻る?」
「でも、あたしがいたってどうしようもないじゃん」
 自分自身、やっぱり戻ろうかという気になりかけていたジュディスは、悔しげに言ったリタの声に胸を打たれた。
「むしろ、気を使わせてしまってる気がしてくるわよね……」
 その点についても、二人の思いは一致していた。仲間が悲しまないようにと、セシリアは自分の苦しみを欠片もみせようとはしない。それは下町の人間、誰に対してもそうであるように見えたが。
 誰もが不安を抱えているときだったのだ。無闇に、暗い顔を見せる人じゃない。
「悲しいのなら、泣けばいい。そう、言ってあげればよかったのに……」
 そう言ってやりたかったのに、どうしてもそれを言うタイミングが掴めなかった。ベッドに入り、就寝する前、お休みと言い合った後、よほど言ってやろうとしたのに。
「それが怖い……なんて。あの人の悲しみを、受け止められるかどうか、自信がなかった」
 頭上で、バウルが悲しげな鳴き声を上げる。リタも遣る瀬無く目を伏せた。
「もしも私が彼女の立場だったなら……私がバウルを失ったとしたら。誰かにその悲しみを癒せるなんて……思えないもの」
 苦しげに額に皺を寄せ、頭痛を抑えるように、こめかみに長い指を添えた。
「それでも……側にいてあげるだけでも、よかったのかな」
 リタは答えの出ない疑問を呟いた。今は、ただの友人でも。ずっと同じ時間を、体験を共有したなら、彼女の痛みを癒せるだけ近くに居られるようになったかもしれないのに。
 だが、同時に、彼女のような人には、一人になる時間が必要なのだとも思った。バウルと共に一人で生きてきた自分、彼女に共感する部分がある。彼女には、一人で悲しみに向き合う強さがあるはずだ。



「セシリアが居ない?」
 そう言いに来たのは、近所の住人たちだった。皆一様に途方に暮れた顔つきで、揃いも揃って項垂れている。
「今日の午後は、誰も会ってないんですよ」
「なんてこった」
 ハンクスは白髪の残る頭皮を叩いた。
 人々がそれに気づいたときには、最後にセシリアを姿を見てから半日が経過してしまっていた。
「あのクリティアのお嬢さんたちはどうした?」
「今朝、下町を出たみたいで……」
「ああ……、ストッパーが外れたか」
 一人にしないように気をつけてたのにねぇ、と女将は困った様子で頬を撫でる。
「滅多なことはないと思うが……」
「何しろユーリのことだからな……」
「わからんな」
 まさか後を追うような真似はしないだろうとハンクスは思っている。彼女自身、そういう感傷じみた行為をよしとしていない。だが、自らの半身のような相手を失う痛みは、彼自身知っている。
 人の前では彼が死ぬわけがないと吹聴していたが、その分強がる相手がいなくなったときが怖い。女将もハンクスも、不安げな顔を向け合った。
「とりあえず、各々あの子を見つけたらとっ捕まえとくれ。そうしたら問答無用で丸一日ベッドに縛り付けてやる」
「もちろん」
「フレンにも伝えておこうかね」
 女将の言葉に常連の青年が頷き、すぐさま広場を飛び出して行った。
 ハンクスは、不気味な色に様変わりしてしまった空を見上げて、目を細めた。



「クゥン……」
 セシリアの太ももに鼻面を押し付けながら、ラピードはセシリアを見上げる。彼女の顔からはおよそ感情というものが読み取れなかった。
「……行くよ、ラピード」
「ワフッ」
 ラピードは元気に答えて、セシリアを先導するように通りに躍り出た。
 崖の端まで駆けて行ったラピードを見送って、セシリアは海の方に目を向けた。ひどく毒々しい波を荒立てている。その波の音がやけに気に障って、セシリアは足を振り上げ小石を放り込んだ。風を切る音がしたが、小石が立てた水音は打ち寄せる波の音に紛れて掻き消されてしまった。
「くそっ」
 余計に苛立ってその場を踏みしめる。気味の悪い海が憎かった。こんな色になったのは、一体何を飲み込んだせいだろう。吐き気がする。
 ワン、と遠くからラピードが呼んだ。セシリアはぱっと顔を上げるが、すぐに落胆して眉を落とす。ラピードはセシリアの下に駆け寄るとクウン、と頼りなく鳴いた。
「……行こう」
 そしてまた、宛てもなくセシリアは駆け出す。ラピードは黙ってその後に付いて行った。
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