09:My mission

 セシリアの訴えを黙って聞いていたクルジは、返答を待っていたセシリアが焦れて口を開こうとしたのを封じる形で、言った。
「あんたには、ここでの仕事があるはずだが」
 その口調は厳格で、取り付く島も付け入る隙もない。厳然と、当然の義務を示してみせるだけだ。
 後ろに控えてやりとりを見守っていたフェリクスは、セシリアの反論を待った。

 帝都が海上からの攻撃に晒されたのは、その日の午後のことだった。一つの街を破壊するのに十分なそのエネルギーは、内海を挟んだ遠くダングレストからでも視認できたほどだという。
 南の空を、目映い光が横切っていった。そういった目撃情報は、トルビキア大陸から戻ってきた人々の証言により、帝都付近が砲撃されたときの光らしい、との噂に結びつけられ、夜を迎えるころにはほぼ事実に近い話が天を射る矢に集められた。

 砲撃したのはヘラクレスだ。この名を知らないギルドはもはやいない。それは騎士団の力を体現した、恐るべき暴力的な武器だ。
 騎士団長アレクセイが帝国に反旗を翻し、ヘラクレスの主砲を帝国に向けたものであるらしい。幸いにも、狙いは帝国をわずかにそれたが、その力は凄まじく、ザーフィアスからそう離れていない大地を抉った。
 それと同時に、帝都の結界魔導器が異常を示し、結界が消失したという。さらには、光る靄が立ちこめ、植物が巨大化し、水が毒に変わってしまったと、命辛々帝都から逃れてきた人は証言した。
 噂が交錯して、どれが本当に起きていることなのかはわからない。だが、とんでもないことが起きていることだけは確かだ。
 下町の住人たちが、その渦中にいるのだと思うと、セシリアは居ても立ってもいられないのだった。

 そして、今すぐ下町に行くと言ったセシリアに、クルジは冒頭、「仕事はどうする」と訊ねたのだった。
「だいたい、どんな状況になっているのかもわからないのに、あんたが行って何かできるのかね」
 クルジはあくまでも辛辣だった。セシリアの心中がわからないはずはないのに――わかった上で、淡々と事実を連ねる。
「いったいどうやって――」
「行かなきゃいけないんです!」
 駄目押しなのか、さらに言葉を重ねようとしたクルジを遮って、セシリアは言い募った。
「下町の皆が困ってるの……! 今行かなきゃ、私のしてきたこと、これからすること、全部意味がなくなるわ。行かせてください」
 お願いします、とセシリアは頭を垂れた。
 クルジの言葉に、微塵も動揺した様子がない。フェリクスは低く下げられたセシリアの背中を見て、クルジの出方を伺った。
 セシリアをなんの感慨もなさそうに見下ろしていたクルジの表情が、ふいに崩れた。彼女の反応をじっくり見聞して、面白がっているとも取れる笑みに、フェリクスは脱力した。本当に、一筋縄ではいかない人だ。彼女の決意を試したのか、はたまた単なる意地悪だったのか。つい穿ってしまう。
 クルジは特に口調を変えず、話の続きのように言った。
「……あんた以外にも、下町に縁のある奴らがここにはいる。恐らく帝国に向かおうとするはずだ。あんたは、そいつらを纏めて率いるんだ。そして帝都の現状を把握すること。わかったかね」
「……はい! ありがとう!」
 求めた以上の答えを与えられ、セシリアは跳ねるように顔を上げるとお礼を言い、慌ただしく部屋を飛び出していった。
 フェリクスもクルジに頭を下げると、セシリアの後を追いかけた。

「リオ、出かけるよ!」
 セシリアはフェリクスを連れ、リオを呼ぶとダングレストにいる下町縁のものを集めた。下町に親戚がいるもの、知り合いがいるもの、商売相手がいるもの、様々な人間がこれに応え、三十人程度の人間が集まった。
 セシリアたちは地図を広げて、帝都への道筋を検討し始めた。
「まず、帝都に近づけなければなんにもならない。ノールから来た人は、エフミドの丘の向こうに巨大な穴が空いてしまっていて、完全に道が絶たれてしまったと言っていたわ。だから、海路しかないと思う」
「帝都は海に近いですからね。川を昇って行けば……」
「船が使えるんなら、陸路を行くよりうんと速い。今の時期はこちらから南に流れる潮がある」
 漁師の子であるフェリクスはそう付け足した。となれば次は船の確保である。これが難航した。天を射る矢の名を出しても、なかなか船を貸そうとしない人間が多かった。
 帝都周辺が危険地帯になっているだろうことは誰もが予想していたので、関わり合いになりたくないというのが本音なのだろう。帝国の手助けなどまっぴらだと面と向かって言う者もあった。
 それでも粘り強く当たっていると、海賊ギルドはどうだと提案された。今、荒波の鷲<レイジングシーズ・イーグル>が港に停泊しているという。ヘラクレスが砲撃をしたという情報をもたらしたのも彼らだった。
「ギルドといっても、海賊なんでしょう? しかもユニオンに加入してない。信用できるんですか」
 難色を示したのはリオだった。これに威勢良く反論したのはフェリクスだ。
「海賊をちゃちな泥棒みたいに考えるんじゃねえよ。あの人たちは海の男の憧れの的なんだからな。荒れ狂う海を縦横無尽に渡り、銛一つで海の魔物に立ち向かう。それに金持ちの船しか襲わねえんだ」
「ははっ、だいたい同意だけど、それでよく騎士団に入れたわね、君」
 セシリアが感心半分、飽きれ半分で言うと、フェリクスは渋い顔をした。騎士であったころの思い出は苦いばかりのものらしい。
 リオは、フェリクスがそう言うならと渋々納得した。

 荒波の鷲に打診に向かうと、副船長が交渉に現れた。
「帝都の周辺が今どれだけ荒れているのかはわからない。帝都に近づくためには、騎士と戦うことになるかもしれない。それでも行ってくれる?」
「あのなぁ、姉ちゃん。危険かどうかは、俺たちにとっちゃあ大事なことなんだよ。狙う獲物がでかくて、凶暴であればあるほど――血が沸くんだからな」
 体だけでなく顔のあちらこちらに傷を持つ男は、傷跡を歪めて笑って見せた。
 交渉成立だ。フェリクスは、どうだとばかりにリオを見上げた。リオは実際の海賊を目の当たりにして、素直に自分の海賊像を修正した。

 *

 寝ずに準備を整えて、翌日の昼前には船の碇が上げられた。高々と広げられた帆は大きく膨らみ、追い風を受けて滑るように海上を押し進んでいった。
 セシリアは潮風に煽られながら、舳先から帝国のある方角を臨んだ。
「空が赤い……」
 南の空が僅かに赤く染まっていた。尋常の色ではない。ただでさえ落ち着かない心が、暗い予感に押しつぶされそうだった。
 どうか――どうか、無事で――

「首領」
 そう呼んだのはリオだった。急拵えとはいえ災害救助ギルドのボスには違いないのだから、という理屈でセシリアをまた首領と呼び始めた。
 そんなに名前を呼びたくないのならもう好きにすればいい、とセシリアも半ば諦め気味である。
「今のうちに、休んでおいてください。このまま風が吹けば、一日で着けるそうですから」
「ええ。……二人も、休んでなさい」
「首領が休んでる間は休めねえよ」
 フェリクスが間を置かず言った。
「だから、さっさと休んでくれ」
「……はいはい。わかったわよ」
 そう言われても眠れるわけがないのだし、この胸にくすぶる苛立ちを狭い船室でくすぶらせているよりは、潮風に吹かれている方が幾分かましだったので、このまま放っておいて欲しいのはやまやまだった。
 だが、リオたちも引き下がらない。
「着いたらそれこそ寝る暇もないくらい忙しくなるんですからね。寝れるの今のうちですよ」
「わかってるってば。もう少ししたら行くわよ」
「……セシリア」
 フェリクスが珍しく名を口にしたので、セシリアは思わず目を丸くした。フェリクスは少し不機嫌そうに言った。
「下町が心配なんだろ? 俺たちは、あんまり馴染みがないけど、あんたの気持ちがわからないわけじゃない。だから……」
「……一人で気を揉んでないで、もうちょっと俺たちにも頼ってくださいよ」
「……リオ……」
 言い淀んだフェリクスの言葉を引き継いで、リオが苦笑しながらそう結んだ。どうやら、二人にいらぬ気遣いをさせてしまったらしい。
 また、自分のことばかりで一杯になっていたな、とセシリアは自戒する。
「……うん、ありがと。……じゃあ、ちょっとだけ聞いてもらおうかな」
「なんなりと、どうぞ」
 セシリアは少し躊躇いながら口を開いたが、一度下町について語り出すと、思い出が胸の内に洪水のように溢れだし、止まらなくなった。

 自分の生まれ育った町。
 自分を育ててくれた町。
 大切な人たちのいる町。

 そこにあるのは、セシリアのすべてだ。今のセシリアを形作る、土台も、要素も、すべてが下町に由来している。
 大切だと口にするまでもない、存在のすべてである故郷。
「絶対――絶対、助けるから」
 空を見上げれば、赤い色が広がっている。――近づいているのだ。災厄の中心地に。
「待ってて、皆――」
 セシリアは、船の欄干を堅く握り締めた。

 *

「……ヘラクレスだ」
 見張り台から降りてきた副船長が、セシリアに苦々しく言った。セシリアは手渡された双眼鏡で、岸を見る。そこには、鉄の固まりをいくつもくっつけて固めたような不格好な山が接岸されていた。
「騎士団長――アレクセイがあそこにいるということ?」
 セシリアはリオを見上げる。リオはわかりません、と首を振った。
「俺は下っ端ですから……。評議会と騎士団が対立してるのは知っていたけど、まさか閣下がこんなことをするなんて思いもしませんでした」
「だが、ヘリオードでのことを指示したのは団長らしいじゃねえか。前から腹に一物ありそうだと思ってたぜ」
 フェリクスは吐き捨てるように言った。
「アレクセイか。きっと、フレンが言っていたのは、彼のことなのよね――」
 アレクセイが反乱を起こしたことを受けての、あの手紙だろう。こうなるなら、もっと詳しく書いておいてくれればいいものを。もちろん、書けない事情というものもあるだろうが。
 フレンも帝都にいるのだろうか。自分の不始末は自分で片を付けると言っていた。
「ヘラクレスは避けて、迂回して入り江に入るか」
 副船長はそう言って、大きく舵を切った。

 *

 すぐ側まで来てみると、空に淀んだ濃い赤は、絶望の証に他ならないように思えた。
 あまり危険なようであればすぐに引き返す、と決めて、セシリアは船を入り江の奥に進めた。
 川は不気味なほど静まり返っている。波が砕ける音と、駆動魔導器の機動音ばかりが響いていた。
「――帝都が見えたぞ!」
 見張り台から、声が降ってきた。霧に吸収されないよう、セシリアも大声で怒鳴り返す。
「様子は!?」
「やべえな! ありゃあ――いったいどうなってやがんだ?」
 見張りの男は興奮したように笑いながらやばいと繰り返すだけなので埒が空かないと、セシリアは身軽に見張り台へと登り、男から望遠鏡を借りると帝都を探した。
「……あれは……!?」
「何がどうなってるんだ、首領!」
 下からフェリクスが怒鳴ってきたが、すぐには答えられなかった。

 帝都の周囲はその輪郭を描くように、赤いエアルの霧がまとわりついていた。天高く聳える世界一巨大な結界魔導器は、その機能を停止させている。青いリングの代わりに赤いエアルが広がっており、家並みに目を落とせば――黒い屋根の間に、巨大な植物の根のようなものが畝っていた。
 その毒々しい色は、かつてリタが調査に赴いたケーブモック大森林のそれと似ている。あのときはエアルの異常が原因だった。今回は、あのとき以上のエアルが充満しているのか――。
 濃すぎるエアルが、魔物や植物にどう影響を及ぼすのか――それは、想像を絶する光景だった。

 セシリアは見張り台から降りると、全員にその光景を伝えた。
「結界がないから、魔物が大量に入り込んでいるはずだわ。それも、エアルの影響で凶暴化しているのが」
「それじゃ……!」
「結界がないなんて……」
 人々は青褪めて顔を見合わせ、口を噤んだ。誰もが、最悪の事態を思い浮かべ、打ち消そうと首を振り、だがきっと大丈夫だと空元気を出す根拠は微塵もなく、黙るしかなかった。
「……どれほど危険か、私にははっきりしたことは言えないわ。だから、ここから先に進むかどうかは、各で決めて」
 考えるために沈黙が続いた。やがて、集まって話していた三人の中から代表の一人が立ち上がり、告げた。
「俺たちは戦闘向きじゃない。残らせてもらうよ」
 セシリアが頷くか頷かないかのうちに、他の一人が勢いよく立ち上がった。
「目の前まで来て引き返すつもりはねえ! 俺は行くぞ!」
 彼と共に、二十数名が立ち上がった。他の数名は残ると言い、全員の意志はそれで決まった。
「人命が第一よ。誰も、絶対に離れないで。勝手な行動をしたら命を落とすと思いなさい。一体の魔物に対して必ず三人で対処すること。もしも住人がいたら、その人の救助を最優先に。以上のことを、しっかり胸に刻んでおいて」
 帝都突入隊に、セシリアは言い渡した。言い残したことがないか考え、起こりうる事態と、その対処法をいくつも、思いつく限り脳裏に描いた。
「……エアル」
 だが、エアルへの対処だけはどうにもならない。もし、許容以上のエアルがそこに淀んでいるなら。
「デューク、君がいてくれたら……」
 あの紫の剣なら。忌々しいエアルを消し飛ばしてくれるのではないか。今までも、セシリアが困っているときにはいつだって現れた。もしかしたら、今回も。
 否、わかっている。今までのことは、単なる偶然にすぎない。彼はセシリアを助けようとして現れていたわけではない。

 ――自分にできることを、やろう。やるしかない。

 頼れるのは己の身体と、魔導器と剣のみだ。
 エアルにより身動きが取れなくなることの恐ろしさは身に染みている。それだけは、避けなければならない。
 全員に、体調が悪くなったらすぐに申告するようにと念を押し、セシリアは帝国を臨んだ。
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