06:Death of the great
ユーリはふいにセシリアの腕を掴んだ。そして、無言のまま歩き出す。
「ちょ……、ちょっと、どこ行くのよ」
ユーリは何も言わず、通りを突き進む。リタとエステルも戸惑いながら、彼らを追いかけた。レイヴンは深い思慮に沈みながら、最後尾を歩いた。
通りは広場に繋がっていた。広場の周りを取り囲む人間は増えていたが、その中央は開けていた。
「――ドン。おたくの可愛い孫にゃ、ずいぶん世話になった」
ふいに聞こえた声に、セシリアは広場の方へ機械的に首を曲げた。
前には広場に膝を着いたドンの広い背中があり、その向こうには眼帯の男――ベリウスの側近、ナッツがいた。
「すまねえことをした」
ドンは深い怒りに燃える男たちに向かって、頭を下げた。
「あのバカ孫もれっきとしたユニオンの一員だ。部下が犯した失態の責任は頭が取る。それがギルドの掟だ」
ナッツの後ろに並んだ男たちを一望して、謝罪を述べる。
「ベリウスの仇、俺の首で許してくれや」
誰かが息を飲んだ。場の空気が、重苦しく張り詰める。
ユーリはドンの表情を見つめながら、静かに言った。
「見えるか――あの、顔が」
堅い皺と、赤い入れ墨が厳めしい陰を与えているその顔に、老いは感じられない。何人もなしえぬ経験を幾重にも重ねたそこには、不動の山のごとき風格がある。
「あの覚悟が――見えるか」
眉の下に鋭く輝く目。引き結ばれた唇。長い年月、風雨に耐えた巌の厳しさと円さが、如実に現れていた。
ギルドを作り、街を造り、幾万の人々を従えてきた男の魂が、そこにあった。
「お前は俺に、あれを台無しにしろって、言うのか」
ドンが儀式めいた仕草で短刀を手に取った。それを右手に持ち変え、すう、と横に引いた。鞘から、銀に輝く刃が、静かに引き抜かれる。
「すまんが、誰か介錯頼む」
ドンに目を向けられたものは、誰もが俯き、身を引いた。名乗り出るものは誰もいなかった。
ユーリは瞬きも忘れてドンを見つめているセシリアの横顔を見てから、手を離して広場に一歩踏み出した。
「――俺がやろう」
どこのギルドかもわからない男が剣を構えるのを、誰も何も言わずに見守っていた。戦士の殿堂の男たちすら、息を飲んで儀式の行方を見ていた。
セシリアは一度も目を閉じることなく、ドンの刃が彼の腹部を裂き、鋭く降り下ろされた剣がその首を、一縷の未練もなくすっぱりと、胴体から切り落とす場面を看取った。
転がり落ちた首が敷石に血の後を付け、止まり、胴体がゆっくりと前に傾ぎ、首から大量の血を流し、それが細くなるころ、誰かが嘆いた。
「――ドン!」
それが合図だった。広場にいたものは敵も味方もなく、獣のように声を上げ、惜しみもなく涙を流した。
あまりにも偉大で、厳粛な儀式だった。
アルトスクの首領、百のギルドの長、誰もが認める強い男、誰もが恐れる天下無双の傑物、その男の死を持って、天を射る矢と戦士の殿堂の諍いは収束した。
*
リタは赤い目を眇め、ユーリを見上げた。
「……大丈夫なの」
主語はない。確認するような調子の台詞に答える前に、ユーリは顔を上げて、口の端に微かな笑みを浮かべた。
「どうやら、俺の出番はないな」
ドンの遺体と共に人々は広場から移動し、打って変わって閑散となった広場に、リオとフェリクスが息急ききって飛び込んできた。遠目から広場に駆けつけるセシリアを見つけたものの、その鬼気迫る様子にずっと気を揉んでいたのだ。
ユーリは二人がセシリアの元に辿り着いたのを見届けると、背を向けた。
「カロルが心配だな。ちょっと見てくる」
「え、ちょっと……」
リタは走り出してしまったユーリに手を伸ばし掛けて、彼の足の速さを見て諦めた。もう通りの向こうへ行ってしまっている。
ぐっと眉を寄せて、首を背後へ戻した。
受け答えはしているが、魂の抜けたようなセシリアと、彼女を囲む見知らぬ男二人。
……気に入らない。
気に入らないことばかりだ。
ベリウスの死、その後生成された聖核という物質、魔核を壊していたバカドラ、その正体がジュディスであったこと、まんまと逃げ仰せたイエガー、短絡で血の気の多いギルドの男たち。そしてドンの自刃。
いくら戦争を止めるためとはいえ、自分の腹を切るものがあるだろうか。ばかばかしくて見ていられなかった。どうしてこんなことで、命を投げ出すことができるのか。
ギルドなんて――とんだ馬鹿の集まりじゃないか。
「……行きましょ、エステル」
「……はい」
ここにいつまでも残っている方が精神的に不衛生だ。
リタはエステルを連れて、足早に宿へ向かった。
*
ユニオン本部の周辺にはギルドが押し寄せていた。ギルドに加入していない、この街の住人も、同様である。
誰もが仕事を一時中断し、本部の周りを囲み、その中に納められたドンを思って、涙を流し、黙祷した。
ダングレストは、結界魔導器の一つを失った。
「俺、ドンとは少ししか話したことないですけど……」
遠い目をして、リオが口を開いた。
「すごい人だって、思いましたよ。騎士団長と同じ、押し潰されそうな威圧感を感じた」
「だが、それだけじゃない。騎士団長とは、違う」
フェリクスが短く、だが決然とした声音で訂正する。
「この街は――、失ってはならないものを、失ってしまったんだな」
悲嘆に暮れた街に、朝日が射し込む。結界魔導器を通して、赤く変色した光は、人々の陰を長く濃く映し、悲しみに濡れた石畳に、冷めた血潮を流した。
セシリアは茫とした両眼で、それらの光景を見下ろしていた。
風が吹き、人々の嘆きを紡いでいく。低く、忍ばれた声は家家の壁に反響し、哀悼の旋律を生み出した。
旋律は風に乗り、黎明の草原へと吹き流されていった。
*
葬儀の手はずは速やかに行われた。セシリアたちもクルジの指示に従い、手伝いをした。
街の女たちを引き連れて、花を集めていたセシリアの元に、リタが一人で現れた。
リタは短く告げた。
「今日、出立するわ」
「葬儀は参加しないの」
「ええ。すぐにも捕まえて問いただしてやらなくちゃならない奴がいてね」
「そう」
セシリアの瞳は揺れなかった。誰のこと? と丸くなりも、お手柔らかにね、と細められもしない。リタは苛立ちが徐々に募ってくるのをつま先で石畳を叩くことで誤魔化しながら、続けた。
「だから、来てよ」
どこに? とセシリアの目は言っていた。鈍い反応だ。そんなこと言わなくたってわかるでしょう、とリタは心の中で憤る。
「あいつ、待ってるわよ!」
我慢できなくなって言い捨てると、リタは身を翻して石畳を蹴り飛ばしながら来た道を戻って行った。セシリアは花の詰まった籠を両手に持って、小さな背中が見えなくなるまで突っ立っていた。用事があるなら行ってきてください、と言ったのは元用兵団の女性だった。セシリアが預かったギルドで唯一の女性である。年はセシリアより少し上だ。
セシリアが何も答えないうちに、用事のために一時仕事から外れることになってしまった。セシリアは花籠を奪われた軽い両手を持て余し、通りをぶらついた。
昨日から眠っていないが、眠気はない。ほとんどの人間がそうだった。食事もそこそこに、葬儀の準備に忙しくしている。道端を急いでいる男たちが、進行方向から来た男に、しょっちゅうぶつかる。男たちは互いにちょっと謝り、少しだけゆっくりと、注意深くまた走り出した。
いつもなら殴り合いに発展してもおかしくない場面。いがみ合っていたギルドが、肩を並べて仕事をしている。メンバーを叱りつけるしか脳のない首領の覇気がない。ギルドが街民を気遣い、世間話をしている。
どれもこれも、この街に似つかわしくない光景だった。
ドンがいないからだ。彼の死が、すっかりこの街を陰気臭くしてしまった。肩で風を切って大威張りだった男たちの、あの情けない姿はなんだろう。時折激高した言い争いが聞こえても、たちまち子供っぽい涙声に変わるのはどうしたわけだろう。
街の荒くれ者たちが、まるで知らない顔に変わってしまった。
ドンがいないと彼らは嘆く。これからどうすりゃいいんだと彼らは泣く。
セシリアは彼らを見るともなしに見ながら、街をふらりふらりと移動する。あてどなく足を動かし、気まぐれに通りの角を曲がる。
ドンとは何者であったのか。
この街は、いったい何を失ったのか。
セシリアは妙に浮ついた気持ちで、人々の泣き暮れる声を聞く。
ドンが死んだ――なんて実体のない、薄っぺらい言葉だろう。
ドンが死んだ。
それはどういう意味なのか?
セシリアは泣かなかった。涙が出なかった。泣く理由がわからなかった。
ドンは死んでいない。
ドンは生きている。
あの赤い血――どくどくと吹き出した赤い血を見ただろう。激しく、火山のように噴出するその熱い血潮を、見ただろう。
街のために、人のために、己が命を賭した壮絶な覚悟を、見ただろう。
あれほど荘厳な死があるか。
あれほど神聖な死があるか。
なにを泣く必要がある――彼はこの街に、言い尽くせないほどのものを残していった。それは永久にありつづける。
その覚悟を、受け継ぐものがある限り。
*
ユーリは意外な人の訪問に、心を揺らした。リタが朝早くどこかへ行っていたが、まさか今日出立することを伝えていたとは。
そして彼女は――ここに来たのか。
ユーリは宿を出て、人気のない路地裏へ彼女を伴った。
「今、準備をしてたところなんだ」
考えた末に出てきた言葉は追い立てるような響きを持った。
セシリアは顔に掛かった髪をかき上げた。徹夜明けで顔色は悪い。だが、広場で最後に見たときの、生気のなさは心なしかよくなっていた。
目は腫れていない。泣かなかったのか。
セシリアがドンに対して、どれほど尊敬の念を抱き、大切に思っていたのか、知っている。その最期を見せつけるのは酷だとわかっていたが、セシリアならそれを正しく受け止め、糧にしていけると信じていた。
今の顔を見れば、その確信が外れていなかったことがわかる。
「私は、ダングレストに残るわ」
セシリアは腹に力の籠もった声で言った。
「これから、ここは大変よ。少しでも、力になりたいの」
「……そうか」
そうだな、とユーリは自分に言い聞かせるように呟いた。
「俺は、俺のギルドでけじめをつける」
「ええ。力を尽くしましょう、お互いに」
「――ああ」
セシリアはそう言い残して、ユーリに背を向けた。手を伸ばせば、まだ届く。まだ届く、と思っているうちにその背は後ろ髪引かれる風もなく、路地裏を出て光の下へ降りていく。
もう、届かない。
ユーリはもたれ掛かっていた壁から体を起こすと、宿に戻った。
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