03:A great shadow

 帆船は細い入り江に入っていった。そこは、ギルドの港であり、宿場町である。三方を絶壁に囲まれた天然の要塞だった。
 ギルド紺碇の航路<ネイビーライン>と別れてから、背シリアはすぐに組合所へ向かった。そこには仕事を求めてギルドが集まる。だがその日は、黒っぽい木の板で建てられた部屋の中は閑散としていた。
 並べられた長椅子の中央を陣取るようにしていた二人組に見覚えのある顔を見つけて、セシリアは足を止める。
「ハリー」
「ん?」
 腕を組んで、むっつりとしていた金髪の少年は顔を上げてセシリアを見ると、おお、と応えた。
「あんたか。えっと……」
「セシリアよ。セシリア・アークライト」
「ああ、久しぶりだな」
 ハリーは名前を思い出せなかったことを少し後ろめたそうにしながら、笑って誤魔化した。
「知り合いか」
 ハリーの隣に座っていた男がハリーに訊ねた。灰色の髪を後ろにまとめてぎゅっと一つに縛っている。狭い額には幾筋も皺が刻まれ、樹木の皮を思わせた。五十代くらいだろうか、まっすぐに伸びた背筋と慎重そうに寄せられた眉根が落とす陰が、ますますその印象を強めていた。
 ハリーははい、と彼に頷いた。
「一度、会ったことがあるだけですが。なんだってこんなとこにいるんだ?」
 続けて訊ねてきたハリーに、セシリアは目を戻した。
「デズエール大陸の方からね。そっちは?」
「護衛だ」
 ハリーはにっと意味ありげに笑った。
「どっかの誰かが紅の傭兵団をぶっ壊しちまったからな。人手不足なんだよ」
「ああ、そう。それは大変」
 とくに心を動かされた風もない返答は他人事でも話すようだ。ハリーはそんなセシリアを訝みながら、男に告げ口する体で教えた。
「この人ですよ。バルボスを倒した一味の一人」
「そうなのか」
 垂れた瞼の下で眼球が動き、セシリアを見上げた。その一瞬の視線に、セシリアはすべて見透かされたような気がした。
 この人は――並じゃない。
「本来ならばユニオンが片づけるべき問題だったが、おれは騎士団を警戒する奴らを押さえるので手一杯だった。礼を言わせてもらおう」
「いえ。あれは仲間がしたことですから」
「仲間か。こちらからも、一人向かわせたな。あの男は役に立ったかい」
「レイヴンですか? ええ。彼の案内でガスファロストに行けましたから。あなたは……」
「ああ、そうだな」
 問うようなセシリアの眼に、男は顎を引いた。
「クルジだ。天を射る矢の古株、というところかな」
「ドンの快刀クルジ? あなたが!」
 セシリアは目を見開いて胸に手を当てた。
「天を射る矢一の剣士でしょう。ダングレスト建設当時からドンの主戦力として陰に日向に剣を振るったって」
 クルジはうんとも否とも言わず、小さな笑みを浮かべると首を掻いた。ふと、入り口に人影が立ち、クルジはそちらを見上げた。
「待たせてすまん」
 ギルドの仲介人が、薄汚れた男を二人引き連れて入ってきた。
「この人たちが護衛のギルドだぜ。あんたらはラッキーだ。こんなときでもなきゃ、頼めねえような人たちだぞ」
「無事につけるんならなんでもいいです」
 陽気に喧伝する仲介人に不愛想に鼻を鳴らして、男は潰れた帽子を脱ぐとクルジにちょっと頭を下げた。
「ダングレストまで、お願いしますよ」
「わかった。すぐに出発するかね」
「ああ」
「待って」
 立ち上がったクルジを、セシリアは呼び止めた。
「ダングレストまでなら、私も同行させてください」
「今すぐ準備できるのか?」
「荷物ならこれで全部」
 肩に掛けた荷を示してみせる。クルジはちらりとそれを見た。それから腰に差した剣に眼を移した。
「いいだろう。来なさい」

 *

 早々から、ユニオンの上層部と接触できたことは堯倖だった。顔見知りであるハリーがいてくれたことも大きい。この機会を是非とも最大限に生かさなければならないと、セシリアは奮い立った。
 依頼人たちは寡黙で、クルジも無駄口を叩く人間ではなかった。ハリーも彼に倣って必要以上は口を開かない。ハリーの他に六人のメンバーがいたが、彼らもまたひっそりとしていた。
 魔物が現れると、彼らは的確に行動した。一人一人が、自分の持ち場を心得ている。セシリアはその列を乱さない、だが、彼女自身の腕を振るえる場を与えられた。
 この辺りの魔物は比較的手強い。セシリアはギルドの戦い方を見たかったが、今のところその余裕がなかった。
 クルジは魔物と対峙しているメンバーを見て常に戦況を把握しながら指示を出し、不測の事態に備えているため、ほとんど剣を抜かなかった。
 港町を出て五時間ほど経ったころ、依頼人の足に合わせて休息を取った。
 セシリアは手頃な長さの棒切れを拾う。軽く振ってその重さに手を馴染ませながら、武器の手入れをしているハリーの近くに腰を下ろした。短刀を取り出して、棒を削りながら話しかける。
「護衛の仕事、こなれてるのね。皆」
「ああ。あの三人は、元々傭兵団のメンバーだからな」
「え? バルボスの?」
 セシリアは驚きを込めて聞き返した。ハリーは複雑な表情で肯定した。
「といっても、下っ端だよ。ドンを目の敵にするバルボスを不審に思ってたような連中だ」
「でも……大丈夫なの?」
 ハリーが示した三人に注意を払いながら、声を潜める。ギルドの総崩れを狙い、貴族と手を組むような男のギルドメンバーだ。ハリー自身も納得できていない様子で、曖昧に首を振った。
「なにせ、人手が足りない。傭兵団全部処刑したら、流通が止まっちまうとさ」
「そう……。腐っても、五大ギルドの一、だもんね……」
 セシリアは改めて、倒したものの大きさを感じた。ドンに取って代わろうと慢心するだけの力が、確かにあの男にはあったのだ。
「つくづく、残念だわ」
「バルボスが?」
 ハリーは片眉を上げてセシリアの横顔を見つめた。
「彼も、クルジのようにドンを支えてきた一人だっただろうに。二番手では、我慢できなかったのかしら」
「……さあな。一番を取りたいなんて、俺には理解できねえけど」
 ハリーは顔を伏せて、独り言ともなく言った。
「そこがどれだけ重くて、苦しい場所か。わかんねえんだろ」
 ぎゅ、と眉を寄せて、苦々しく呟いたハリーの拳は、きつく握られていた。押さえきれない苦渋の色を、セシリアは見つめる。
「あんな場所にいて、平気でいられんのは――じいさんみたいなバケモンくらいだよ」
「ははっ。自分のおじいさんを化け物呼ばわり?」
「ぴったりだろ。あれで70越えてんだぜ? 刺されたって死なねえよ」
「ええ。誰もあの人を傷つけるなんて、できないでしょうね」
 セシリアは眼を細めて平原を眺め、地平線の向こうにあるダングレストを思った。どっしりと構えた体格。その場にいるだけで、雰囲気がぐっと引き締まる。それだけの存在感を持った、唯一にして頂点に立つ、すべてのギルドの長のいる街。
 誰もが彼を尊敬し、彼を目指し、彼を仰ぐ。
 その存在は圧倒的すぎて、妬みというちっぽけな感情などおおよそ届かないところにいる。
 彼を妬むことができるのは――それだけ彼に近いということだ。そういう意味ではバルボスが羨ましいといえるかもしれない、とセシリアは一人思う。
 だが、彼でさえ結局――追いつめるところまではいったが、ドンを排するには至らなかった。
「ダングレストはいいわね。ドンがいて」
「……そうか?」
「彼がいてくれるってだけで、安心するもの。あそこにいけば、何も怖いものなんてない。魔物も、帝国も、彼の敵じゃない。ドン自身が――結界魔導器みたい」
「ふん。そんなこと言ったの、あんたが初めてだろうよ」
 ハリーはつまらなそうに言った。セシリアはなんだか気恥ずかしくなって頬を掻いた。
「へんなこと言ったかなぁ。なんか、今の私にとって、まさしくそんな人だなぁ、と思ってさ」
「なんで」
「んー……。ちょっとさ。わからなくなることがあったんだ。私は、どこを目指せばいいのか……。何を、すればいいのか」
 セシリアはためらいながらも、ぽつりぽつりと心情を語り始めた。 言葉の途切れる合間に、棒の皮を削ぐ音が聞こえる。
「私、一度ギルドから離れたの。上手くいかなくて、何をしたかったのかも、わからなくなって。そのあと、信じてた仲間が、私とは違う道を選んでしまって……。もう一度見え始めていたはずの道筋を見失ってしまった」
 ハリーは相槌も打たず、あらぬ方向を見ている。だがセシリアは、構わずに話し続けた。
「でも、ダングレストに戻ろうって決めたら、ドンの顔が浮かんだの。そうだ、私は、ドンに誇れる人間になろうって決めたんだって、思い出したんだ。そうしたら……暗闇の中で、灯台の光を見つけたみたいな気持ちになって、さ。今は、一刻も早く、ドンと言う名の結界魔導器に入りたい気分」
 茶化すように早口に言い切ってから、照れたのを誤魔化すように笑い声を立てる。
「まだ、それから何するか考えてないんだけどね。どういうギルドに入りたいのかも、まだよくわかんないしさ。ハリー、どこかいいところ知らない?」
「さぁな。知らねえよ」
 ハリーの返事は素っ気なかった。しゃべりすぎたかな、とセシリアは内省する。だが、心に溜まっていた澱を少し吐き出せたことは確かだ。
 セシリアは短刀を手のひらで一回転させると、削ぎ終わった棒を掲げて、自分の仕事の成果を眺めた。
「それ、どうするんだよ」
「ふふ。もう一本作るわ」
「打ち合いでもすんのか?」
「そう」
 セシリアが立ち上がって、もう一本を探しに行こうとしたとき、出立が告げられた。セシリアは荷物を担いで隊列に加わった。ハリーが先頭に立ち、クルジはセシリアと並んで殿についた。残りの者が中央の依頼人を挟む形で取り囲んだ。

 *

 その日は道沿いで野営しなければならなかった。ギルドは交代で見張りを立てながら眠った。
 セシリアは自ら望んで、夜明け前の時間を受け持った。前の見張りに声を掛けられて眼を覚ますと、静かに立ち上がった。払暁前の空は夜のうちで一番闇が深い。たき火も消えてしまって、星明かりも弱いからほとんど視界がきかないが、この時間はまた、魔物がもっとも深い眠りについているときだ。あと一時間は静寂が続くだろう。セシリアは広大な草原でたった一人覚醒して、昨日作った木刀を振った。
「熱心だな」
 地平線が赤く染まり始めたころ、声を掛けられてセシリアは手を止めた。
「疲れは取れたかね」
「はい。クルジ、もしよかったら」
 セシリアはもう一本の木刀を差し出した。
「相手をしてもらえませんか」
 クルジはすぐにはそれを受け取らなかった。腕を組んでしばし地平線の向こうを見つめて、背後に眠る仲間を一瞥してから、「日が出るまでなら」と言って木刀を取った。
 セシリアは喜びをかみ殺しながら、クルジと向かい合った。ダングレスト一の剣士と呼び声高いかの人と、手合わせをする機会を得たのだ。震えずにはいられない。
 クルジは木刀を構えたまま腰を落とした。打ち掛かってくるのを待っている。セシリアは木刀を握り直して、切り込む隙を伺った。
 彼は特別構えているわけではない。だが、セシリアは今一歩、踏み込みきれずにいた。打ち込むイメージが沸かない。とにかく打って出てみなければ、と思うのだが、少しでも動いたら、たちまち打ち倒されてしまいそうな幻影が払拭しきれない。剣を持って、これだけの時間睨み合うことなど、普通しない。あのアレクセイを前にしたときは、破れかぶれとはいえ、特攻できたのに。
 このままでは、無為に時間が過ぎてしまう。押さえきれない焦りが、じり、とセシリアの足を前に滑らせた。
 ふと、クルジは動いた。どういうわけか、中断に構えていた剣を、右手を返して、後ろに向ける。
「……はぁっ!」
 たまらずに、セシリアは踏み込んだ。それがわざと作られた隙だとわかっていたが、そこを攻めるしかなかった。パン、と左肩を叩かれたあと、セシリアの木刀がクルジの脇に当たって止まった。
 クルジはすっと木刀を引くと、構えを解いた。
「朝日だ」
 黒々とした森の底から、神々しくも清廉な白い光が差し込んだ。地平線が焼かれたかのように赤々と輝く。クルジは木刀をセシリアに返すと、仲間たちを起こしに向かった。
 セシリアはクルジに切られた場所から一歩も動かず、長いこと突っ立っていた。頭の中では、先ほどの一本が、何度も何度も思い返される。
 向かい合う、睨み合う、クルジが一歩引く、セシリアが踏み込む、クルジの攻撃が、セシリアの肩を殴打する。
 勝負は一瞬でついてしまった。この一回で、百回やっても勝てないと、セシリアは思い知った。
「おい! 食わないのか?」
 不機嫌に声を掛けてきたのはハリーだった。セシリアは急いでギルドの元へ戻ると、携帯食料で腹ごしらえをした。

 *

 道は森の中へ入り、視界が悪くなると、三人が先に立って偵察を行った。行く手にいる魔物の数が手に負えないほど多ければ、迂回しなければならない。
「このまま行けば、今日中にはつけるだろう」
 クルジは依頼人にそう伝えた。だが、平坦な道のりはそうそう続かない。偵察の三人が取って返してくると、クルジに険しい表情で告げた。
「この先を、魔物の群が横断しています。迂回するにしてもかなり遠回りになるでしょう。通り過ぎるまでやりすごす方が得策かと」
「魔物の種類は?」
「トータスです。図体が大きくて足が鈍い。群がいたら半日は途切れないって話ですよ」
「ふん、半日か……」
 クルジは顎に手を添えた。セシリアは。
「トータスなら、そんなに待たなくてもいいわ。横断を止めましょう」
「どうやって」
 ハリーは疑わしげにセシリアの顔を見た。
「彼らはバジリスクが天敵なの。その死体でも道の両脇に置けば、進めなくなるわ」
 それはクリントが教えてくれた知恵だった。魔狩りの剣にいたのも無駄ではなかったか、と面白く思いながらセシリアは説明する。
「そうは言っても……バジリスクを見つけなきゃならないだろ」
「少し道をはずれれば、いくらでもいるわ。この辺りは生息地だし」
「よし。お前たちは彼女と、お前たちはハリーといって、バジリスクを捕まえて来い」
 クルジはすぐに決断すると、セシリアとハリーに二人ずつを付けた。
 ほどなくセシリアは二匹のバジリスクを見つけ、難なくしとめるとクルジの元へ戻った。ハリーはまだ戻っていない。しばらく待ったが、帰ってくる気配もなかった。何人かがクルジに呼んでこようと提案したが、クルジはもう少し待てと窘めた。
「バジリスク一匹捕まえられねえのか」
 待ちくたびれた一人が、苛立って同僚に呟いた。まったくな、と答えた方も期待していない様子である。セシリアはハリーが向かった方の森を見て、微動だにしないクルジを見た。
 仲間が痺れを切らす頃、ハリーは戻ってきた。
「向こうにはいなかった」
 獲物は担いでおらず、代わりにいくつかの傷を作っていた。
「そうか。なら、行くぞ」
 クルジは言葉少なに言って、歩き出した。ハリーは歯を食いしばって、後に続いた。むっつりとしたハリーに、手当はいいのかと聞く暇はなかった。
「本当にこれが効くのか?」
 トータスの大行列を前にして、男たちはセシリアを質した。行進を止めるには、死体を持って行列に近づかなければならない。
「昔、目の前で見たのよ。まあ、貸しなさい」
 セシリアは死体を括り付けた棒を受け取り、肩に担ぐと、ためらいも見せずに行列へと歩き出した。
「お前も行け」
 クルジはハリーにも死体を持たせると、セシリアの後へと押し出した。
 等間隔に進んでいた行列が、不意に乱れた。セシリアに気づいたのだ。トータスたちは落ちつかなく足を踏みならし、怯えて鳴き声を上げた。
「効いてるのか……?」
 男たちは不安げにその様子を見守る。こちらへ向かってきたときにすぐ反応できるよう、各武器に掛けた手に力を込めた。
 ハリーはトータスが統率を失い、列を乱しているを目の当たりにして警戒を強めたが、トータスはこちらに向かってくる気配はなく、むしろ後退しているようだった。
 本当に効いている、と関心したときだった。ぶつり、と耳元で音がして、肩に乗せていた枝が軽くなった。重さをなくした反動で、手前に跳ね上がる。獲物を結んでいた紐が切れたのだ。
「ハリー!」
 セシリアが叫ぶも、遅い。ハリーの目の前に、牙が迫った。
 矢の如く放たれたのは一閃の軌跡だった。ハリーに襲いかかっていたバジリスクは、大きく横にそれて、そのままどうっと倒れる。
トータスたちが大きく鳴いて散り散りに逃げていった。地響きが次第に遠のいていく。
 セシリアは剣の柄に手を掛けたまま、森の奥へ亀が走り込んで行くのを見送って、ハリーに目を戻した。
 ハリーは地面に座り込んだまま、バジリスクの鎌がぴくぴくと痙攣しているのを凝視していた。
「ごめんなさい。とどめを差し切れていなかった」
「仮死状態になっていたらしいな」
 クルジは剣を鞘に納めながら、静かに言った。
「ハリー、大丈夫?」
「これくらい」
 ハリーはセシリアから顔を背けるようにして立ち上がった。
「手を出してくれっていつ頼んだ」
 そう言ってクルジを睨む。
「ハリー」
「うるさい!」
 セシリアが声を掛けると、ハリーは叩きつけるように怒鳴った。
「とどめもろくに刺さずに魔物を連れてくるなんてどういう神経してるんだよ!」
「それは謝るわ。ごめんなさい」
「おれも確認が甘かったな。すまなかった」
 率直に頭を下げたクルジを、ハリーは燃えるような瞳で見つめたが、唇を戦慄かせる憤りは言葉にはならず、思い切り首を背けることで態度に示した。
「クルジさんがいなかったらやられてたんだぞ、お前」
「そうだ。反応が遅れたことを反省しなけりゃならねえ。戦場に”次”はないんだからな」
 苦言を呈したのは仲間たちだった。ハリーは彼らを忌まわしそうに睨んだ。
「んなことわかってる! だが俺は、すげえ剣の使い手でもなけりゃ、ギルド一の首領でもねえ! ただのメンバーなんだよ!」
 ずっとため込んでいたものを盛大に吐き出して、ハリーは肩を大きく上下させながら息を吐いた。
「過剰に期待してんじゃねえよ……っ! 俺は、じいさんじゃねえ……!」
 誰も何も言わなかった。彼はどうするのだろう、とセシリアはクルジを見守った。クルジは眉間に深い皺を刻み、労しげに黒く沈んだ瞳でハリーを見つめていた。
「……おれがいつ、ドンになれと言ったんだ」
「んなこと……っ」
 しらばっくれるな、とハリーは言えなかった。クルジはただ、ハリーを見つめていた。その視線に耐えきれず、ハリーは目を逸らした。
「偵察にいけ。お前、ハリーと代われ」
 クルジは指示を出すと、隊列を組み直させて、すぐに移動を開始した。ハリーを含め、皆、黙って指示通りに動いた。
「首領、すんません」
 ハリーに苦言を呈した男たちが、クルジに小声で言った。
「おれに謝ってどうする」
 クルジの言葉に、男たちはますます身体を小さくした。
「劣等感……か」
 セシリアは、昨日のハリーの台詞を思い出していた。自分の祖父を化け物と呼んではばからなかったのは、自分はただの凡人だという主張だったのだろうか。
「卑屈になってるんだ」
 クルジは苦い顔をして言った。
「誰もが、あいつを”ドンの孫”として見るからな。それに見合わない行動をすると、誰もが落胆する。ドンならそんなこと、簡単にこなすぞと、笑う。あいつの努力は、見てもらえない」
「でも、全員ではないでしょう」
 先ほどメンバーからの苦言だって、単純にハリーの身を案じての発言に聞こえた。
「ハリー自身を、あなたも認めているはずです」
 クルジはセシリアから、正面に目を戻して、息を吐いた。
「こればっかりは、あいつ自身がドンの陰から抜けられなきゃあ、どうしようもないんだよ。あの人の影響は本当に強い。なかなか、抜けようとしても抜けられんものさ」
 そう言って、クルジはちょっと口の端を上げた。
「かくいうおれ自身が、どれほどあの人の影響を受けているか知れん」
 セシリアは不思議な思いをくすぶらせながら、クルジの自嘲する横顔を眺めていた。
 これほど腕が立つ人が、力及ばない自分を嘲っている。ハリーを思いやっての自虐だとしても、そこには幾ばくかの真実がある。
 それを素直に吐露した彼の実直さに、セシリアは打たれた。この人は力があるのに、それを振りかざそうとはしない。落ち着いた物腰で、周囲を慮り、適切なことを言い、無駄口は叩かない。
 そんな彼であっても、ドンの存在からは、顔を背けられないのか――。そのことが、殊更にセシリアに不可解な思いを募らせた。
大きすぎるドンの影は、彼らには魔物そのものに見えるのかもしれない。

 *

 無事にダングレストに到着し、依頼人から報酬を受け取ったクルジの元に、セシリアは向かった。
「世話になりました」
「いや。ところで、あんたはギルドに所属していないんだったか」
「はい。これから探すつもりです」
「宛はあるのかね」
「いえ」
 セシリアは正直に答えた。
「なら、傭兵団に入らないか。この通り、人手不足だ。君は結界の外を移動するのに慣れているようだし」
「傭兵団に……」
 うん、とクルジは頷く。
「ただ、まだ首領も決まっていない。天を射る矢で元傭兵を集めて、依頼を受けている状態だ。あんたには、そのうちの一つを束ねてもらうことになると思うが」
「それは……、天を射る矢に入る、ということですか? それとも……」
「傭兵団はまだできていないが、そちらに入りたいならそれでもいい」
 クルジは強制するでもなく、そう言った。
「もしその気があるなら、いつでも本部を訪ねてくれ」
 セシリアが考えあぐねているのを見て取ると、そう言い残して去っていった。
 セシリアはしばらくその背を見送っていたが、追いかけていって伝えるだけの答えが見つからなかった。

 *

 その日は宿を取り、ゆっくりと疲れを癒すことにした。結界の中に入ると、それだけで緊張感から解放される。熱い湯に浸かって旅の汚れを洗い流せば、今回も生きて帰れた喜びに深いため息が漏れるのだった。
「傭兵団、かぁ」
 ベッドに横になり、天井を見上げたまま呟く。天を射る矢への勧誘とも取れる言い方だった。
 入れるのだろうか、ドンのギルドに。
「入って、いいんだろうか……?」
 もう、ギルドを飛び出すということはしたくない。入るなら、そこで一生を過ごすくらいの覚悟がいる。
 今の時点では決定打足りうるものがセシリアの中になかった。もちろん、ドンの元で働けるのなら、それ以上のことはない。だが、自分にそれだけの力があるだろうか。
レイヴンやバルボス、ベリウス、そしてクルジ。ドンに近い人物は、いずれもセシリアより遙か高いところにいる。
 彼らのように、なれるだろうか。
 ふと、天を射る矢にいる人間は多種多様であることを思い出す。クルジの部下、そして。
「……ハリー」
 彼もセシリアと同じく、上を見上げ、追いつこうと必死に走っている側の人だ。今の自分に捕らわれて、二の足を踏んでいるだけでは先に進めない。
「やってみようか」
 声に出して言ってみた。やってみようという気になってきた。
「やってみよう」
 今度は断言する。それで心は定まった。明日一番に行く。と決めるとセシリアは目を閉じた。
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