02:Discipline those people

 『悪事は長くは続かない』――
 誰が言ったか知らないが、日和見主義的であまりに無責任極まりない言葉だ。口には出さずとも、誰だって知っているはずだ。真の悪こそ、正義の名を振りかざし、のうのうと醜悪な面を晒して栄えているということを。
 刃をためらいなく振るい、足下が血の池になろうとも、自分の靴が汚れさえしなければ気にも止めない、そんな悪を前にして、”お前たちはいつか滅びる””正義は必ず勝つ”などと宣言できるのはよほどのバカだ。人を騙し、人を盾にすることを当然としている人間に、真っ当な道を説いて正論を振りかざしてなんになる。”参りました””私が悪かった”と反省するだけの良心が奴らにあると、信じているというのだろうか。素朴で善良なお人好し。はっきりいって害悪だ。悪がのさばっているのを助長しているのと同じことだ。
 力を頼む相手にはそれ以上の武力を持って制圧しなければならない。
 権力を傘に着るやつは、それ以上の権力を持って征服しなければならない。
 敵の排除を持って安穏を得る奴は、奴自身を排除しなければ。
 禍根の元を絶つことはできない。


 ***


「……ユーリ」
 声を掛けられたとき、すでに背後に待ち合わせた相手がいたことを知った。足音を忍んで来たのは警戒ゆえか、もしくは。すでに囲まれているのだろうか。
 尖った神経をさらに鋭利に研ぎすまし探ってみるが、今のところ、立派な鎧に身を包んだ男の息づかい以外に気配はない。
「……なぜ、キュモールを殺した」
 フレンは静かに問いを発した。
 懸命に冷静さを強いているが、熱に浮かされているような荒い吐息は覆い隠せていない。
「人が人を裁くなど許されない! それでは法が立ちゆかなくなる!」
「立ちゆかなくなる? 悪党を肥え太らせて、市民の血までも搾り取るような法がか? 結構じゃねえか」
 泉の方を向いたまま、吐き捨てた。フレンは興奮し舌がうまく回らないまま早口にまくし立てる。
「法制度そのものが揺らいでしまう! それこそ敵の思う壷じゃないか! 無法の元、混乱が支配する社会がいかに悲惨か、君はわからないのか!?」
「法の元、黒を白と言ってはばからねえ連中が大きな顔して好き放題やってんのが息苦しくってかなわねえんだよ!」
 厳しく突き出された血を吐くような叫びに、フレンは吐き出し掛けた息を飲み込んだ。
「キュモールのせいで、何十、何百って人間が、血の一滴まで絞り尽くされて、ゴミのように捨てられてきたんだぞ……! それを、法が整備されるまで待てっていうのか、今砂漠に放り出されようとしている奴の目の前で!」
「そうじゃない、僕は……!」
 握りしめた拳を振り上げ、何かを堪えるように止める。
 細く息を絞り出しながら、落胆の色濃い低い声で言った。
「……セシリアは、きっと許さないだろうね」
 その名前が耳に入ったとたん、殴られたばかりのように、頬が熱を持った。口を開き掛けたとき、鎧のぶつかり合う音が近づいてきた。
「フレン隊長!」
 フレンの部下であるソディアが、フレンを呼びに戻ってきた。悟られないように身構えたユーリを、目障りだとばかりに睨みつける。できることなら、隊長の前から消えろと怒鳴りつけてたまらない、と唇がぴくりと震えた。
 ソディアは知らないのだ。ユーリを永久に追い払う絶好の機会が今まさにあることを。
 ユーリは愕然としてフレンを見た。フレンは振り返りざまユーリを一瞥しただけで、ソディアを伴ってどこかへ行ってしまった。

 置いて行かれてしまった。
 一人で立っていると、身の置き場がない焦燥感に駆られる。いますぐ追いかけていって、キュモールの行方を、大声で呼ばわりたい欲求に肺が焦げてしまいそうだった。
 だが、同時に安堵している自分がいることにも気づいてしまった。
「……捕まえないのか」
 セシリアも、フレンも。なぜ捕まえない。罵倒して、軽蔑して、そのまま法に従って縄に掛けてしまえばいい。なぜそれをしない。
「まだ、……終わってねえんだ」
か つて語り合った理想。世界は目も眩むほど広大で、まるで砂漠に剣を突き立てているような、はなはだ心許ない不足感に襲われる。
 それでも、確かに踏み出した。コゴール砂漠を越えたように、乗り越えなければならない。踏み出した歩みを止めてはいけない。
まだなにも、終わってはいないのだから。
 かさ、と草が揺れるまで、ユーリはそこにもう一人の人間がいることに気がつけなかった。それだけ気が散漫になっていた。
 ユーリが息を飲んだ気配を察して、ようやく気がついたか、とばかりにラピードが飛び出してきた。
「あ、だめです!」
 青い尻尾を追うように続いて顔を出したエステルは、目の前に立ったユーリを見上げて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「聞いてたのか」
「ごめんなさい」
何 の気なく一歩を踏み出すと、エステルは僅かに身を引いた。緊張した身体を見て、ユーリの口から重い吐息が漏れる。
「……俺が怖いか」
 答えはなくとも、態度が如実に物語っている。わかりきったことをなに聞いてんだ、とユーリは自嘲した。
「いやならここまでにすればいい。フレンと帰れ」
 それが一番いい道だった。今までも。その道を阻んでいたのは他でもない。
 ユーリはエステルに背を向けた。だが、一歩踏みだそうとしたとき、微かな声がそれを引き留めた。
「……帰りません」
 思わず振り返ったユーリの目に入ったのは、精一杯の笑顔だった。す、と差し出された手の意図がわからず――笑顔が向けられた意味もわからず、ユーリは呆然とそれを見つめた。
「これからも、よろしくって意味です」
 白い手袋に包まれた手は、ユーリを待って緩く開かれている。その白さに砂の反射する陽光が眩しく映えて、目眩がした。
「……ありがとな」
 小さな手を握り締めて、初めて自分が立っていた砂の上がどれほど脆いかを知った。どこまでも落ち込み、なにもかもを飲み込む流砂の餌食になっていたのは、自分だったかもしれない。



 誰よりも愛した女を裏切り、掛け替えのない親友を失望させたその道を、それでも歩いていかなければならないと決意したのは誰でもない、己だ。
 共に歩んでいたはずの道が、いつのまにこんなにも離れたものかわからない。はじめから、同じものを見ていたつもりで、てんでばらばらなことを考えていたのかもしれなかった。
 彼女がギルドに行くと言った、その前から。
 進もうと決めた道は、違っていたのだろう。
 それでも、たどり着く場所は、目指している目的地は、同じはずだ。それだけは、なにを踏み外したとしても変わらない。そう信じている。いや、なによりも信じたい。
 きれいごとだけで渡っていけない世の中であったとしても、決して汚れてはいけない人間がいる。彼らを守るためならばと、望んで泥を被ったのだ。誰が仕向けたわけでもない。自らが見出した結論だ。
 そう強く決めたはずなのに、まさにこの手で明らかにした互いの道の断絶を、かえって相手に突きつけられると、断崖絶壁の上に置き去りにされたような狂おしい孤独感が募った。守りたいと願った対象に、眼前できっぱりと否定されてしまうことが、こんなにも苦しいことだとは思わなかった。他でもない、長らく辛さを分けあった、家族同然の二人に。
 彼らの敵となった今、己と己の敵とする奴らとの違いは、どこにあるというのだろう。
 法を犯し、武力でもって蹂躙する行為の、どこに差があるというだろう。
 その答えを――この、小さな手が教えてくれた。
 この繋がりこそが、己と己の敵とを分かつ、唯一の証明だった。
 人を律するのは法律ではない。法律の束縛は、人の手段を狭めはしても、人の意志を押さえ込む力にはなりえない。ユーリを律し、この無頼の男をユーリという人格たらしめているものは、仲間の存在だった。彼らとの関係の中でのみ、ユーリはまっすぐに歩いていける。ともすれば狂わせようと口を開ける奈落の底に落ちてしまいたくなる衝動を、抑えつける気力の源だ。

 まだ、やらなければならないことがある。
 そのためにならば、この手を汚すことも辞さないと決めた。
 だから、それまでは――どうかこの手を離さないで欲しいと、切実な願いを心に秘めて、ユーリは仲間たちの元へ戻っていった。
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