13:Confession and separation

 雲は緩やかな風に流されるまま、星空を泳いだ。薄い雲が半月の下に差し掛かり、黄色い光が朧にぼやける。大地に佇む二人の影も、ぼんやりと曖昧に草や小石の影と混じり合った。
「……じゃあ、言い直すわ」
 セシリアは言葉が失われたと錯覚してしまいそうな長い沈黙を経て、口を開いた。声は少し乾いていた。
「君がやったの?」
 雲が流れていくにつれ、地面にも明るさが戻った。セシリアの視線は、ひたとユーリを捉えていた。
 ユーリは身じろぎもせず、言った。
「ああ。俺がやった」
 鋭い拳が宙を切ったが、やはりユーリは動かなかった。
 受け身もろくに取らず、衝撃のまま仰け反る。なんとか踏みとどまり、転ばずに済んだ。
拳を振り被った格好のまま、セシリアは肩で息をしながらユーリを睨みつけた。
「……どうして!」
 小刻みに震える拳を押さえながら、セシリアは怒鳴った。それは問いかけではなく、取り返しのつかないことへの苛立ちと、やりきれなさだった。
「なんなのよそれは……! いい加減なこと言ってるんじゃないわよ! 馬鹿言ってるんじゃないわよ……!」
 たくさんの思いが一度に膨れ上がって、言葉にならなかった。
 ユーリは顔を背けたまま、立ち尽くしていた。
 弁解もなにもしようとしないユーリに、セシリアの怒りがますます募った。
「どうしてそんなこと言うのよ! 嘘なんかっ……!」
「俺がやったからそう言ったんだ」
 怒鳴り返そうとして、セシリアはおかしな音を立てて息を吸い込んだ。吐き出そうとした言葉は出口を見失って、体の中を巡って反響した。
 どうして、どうして、どうして!
「開き直ってんじゃないわよ……」
 頭に昇った血で目の前が真っ赤に染まったようだった。セシリアは額を押さえて、よろめく足をなんとか踏みとどまった。
「ちょっと待ってよ……。なんなのよ……」
 衝動を堪えるように奥歯を噛みしめ、セシリアはなんとか心を静めようとした。その程度の冷静さは残っていたが、うまくいかなかった。
「なに考えてるの?」
 セシリアは苦労してその言葉を発音した。歯の付け根まで震えているようだった。
「あの夜、逃げる途中だった奴を見つけた。それだけだ」
「それだけ?」
「見つけたのがたまたま俺だった。俺は、あいつを見逃すわけにはいかなかった」
「たまたま? 偶然?」
「そうだ」
 セシリアは馬鹿馬鹿しいと鼻で笑った。
「なんなのよ、なによそれ……。馬鹿だわ」
「他に方法はなかった」
 ユーリは半ばセシリアの独白を無視して言った。
 あくまでも淡々とした態度にとうとう堪忍袋の緒が切れ、セシリアは爆発したように叫んだ。
「だから殺したの!?」
「帝国は何もしやしない! 誰かがやらなきゃならなかった!」
 張りつめた糸が切れ、ユーリは燻らせていた感情を猛々しくぶつけた。
 抑えられていた感情が、堰を突き破った勢いのままに浴びせられた。
「誰もあいつに罰を下せない! 法を犯すな? あいつらが都合よくねじ曲げている法を? 力のないやつは黙って殺されろっていうのか! それを見過ごせっていうのか!」
 カプワ・トリムで出会った虐げられた家族、下町の優しい人々。正義が曲げられ、不正がまかり通るのを、何度目の前に突きつけられたことだろう。
 足を折って徴用に行けなかった人に彼らはなにをした。
 身体が弱く、税を納められなかった人に彼らはなにをした。
 力ないものを庇った人に、彼らはなにをした。
「俺は後悔しない! 俺が一人罪を被れば多くの人間が助かるなら、俺はやる」
 爪が食い込むほどに拳を握りしめ、ユーリは誓いを立てるように言った。
「……一人で?」
「ああ」
 セシリアは唇を戦慄かせて、ユーリの断固とした返事を聞いた。
 突き抜けた怒りと共に熱が通り過ぎていった。乾いた唇の隙間を呆れたような溜息が擦り抜けていった。
「私がどんな思いでいたか、考える気もないのね」
「お前は……」
「裏切り者」
 ユーリの言葉を遮って、セシリアは低く罵った。
 帝国に対する憤りを言葉にしたのは誰だ。その思いを共有した人はいなかったのか。今目の前にいる人間は誰だ。
「そこまで自分本位な奴だとは思わなかった」
「……もう、決めたことだ」
 ユーリは感情を押さえた声で言い、背を向けた。
「俺は俺の道を行く。お前はお前の信じるようにすればいい。俺を捕まえるならそうしろ」
 だが、とユーリは言った。
「俺もおとなしく捕まるつもりはねえ。まだやらなくちゃならねえことがある」
「大馬鹿ね」
 セシリアは心底軽蔑したように言った。
「私はギルドの一員よ」
 高らかに、宣言するようにその声は響いた。
 黒々とした背中から目を逸らす。空虚だった。怒りを吐き出したその後の心は、夜空のように虚空だった。
「君とはとっくに、道を違えていたみたいね」
 小さな声で呟くと、組んだ腕を解き、反対側を向いた。
「さようなら」
「……ああ」
 セシリアは駆けだした。一度も振り返らず、速度を落とすこともなかった。

 *

 耳の奥が痛んだ。耳の中で、ずっと何かが金切り声をあげているような不快感があった。立ち止まっても、激しく脈打つ鼓動は収まる気配を見せなかった。
 終わってしまった。分かれてしまった。もう二度と、交わらない。
 永遠の離別。
 心臓が押しつぶされるような苦しさが襲った。声すら出なかった。呼吸が止まるのではないかと思った。その前に心臓が破裂するかもしれない。
 あまりにも無力な自分が許しがたかった。狂おしいほどに悲しかった。どんなに謝っても足りない。言葉につくせない罪悪感。
 だめだった。私では、支えになれなかった。共に立てると、歩んでいけると思ったのは錯覚だった。こんなにも必要だったときに、ああも簡単に擦れ違ってしまった。
 運命というものがあるなら、初めから二人の道は分かたれると決められていた。どうしようもなかった。
 けれど、本当にそうだろうか――
 もしも、あのとき宿を出て酒場に行くなどしなければ。
 そうすればまだ私は――

 とめどない後悔が溢れて押し潰されそうになる。
 もしもやり直せるなら、なにを差し出してもいい。今度は間違えない、だからどうかやり直させてと、血を吐くような思いで祈った。
 誰がその祈りを聞いてくれるというのだろう。
 一番聞いてほしい人に、ひどいことを言ってしまった。感情のまま罵って、自らの非を省みず……なんということをしてしまったのだろう。
 彼はなにも悪くなかった。ただ己の正義に忠実だったにすぎない。彼を責める権利は誰にもない。
 心の底からそう思えても、許すことはできなかった。彼は過ちを犯したのだから――取り返しのつかない過ちを。
 どこまでも馬鹿な人。自分さえ罪を被ればそれで済むなんて。そんな愚かな考えが、誰を傷つけるかなんて考えもしない。目の前のことに気を取られると、他のなにも見えなくなる偏狭な人。
 結局はそうなのだ。彼はなんでも自分一人でこなしてしまう。助けを借りることなど思いつきもしない――彼は助ける側だから。一人でなんでもできると思っているし、一人で為さなければ意味がないとも思っている。傲慢な人。
 すぐ側に差し伸べる手を出しそびれている人がいることも気づかず、自分を傷つける。そんなことをされて、誰が喜ぶと思っているのか。自分勝手な自己犠牲などうっとうしいだけ。未だにそんなこともわからない。

 ――彼は、私を必要としていない。
 ――私は、彼のためになれない。

 思い知ってしまった。はっきりと、突きつけられた。
 私はもう、彼の隣に立っていない。
 彼は泥沼の底に落ちようとした私を止めた。そっちはお前の道じゃないと、力強く引き戻してくれた。なのに私は。

 彼らのように後に付き従うことももう、できない。
 彼は強い。憎らしいほどに強い。弱さを見せてくれないなら、私は存在意義を見失ってしまう。
 誰よりも強い、その心を、私は憎んでやまない。
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