12:Darkness in eyes

 開かれた窓から、穏やかな風が吹き込んでいた。甘い花の香りがたっぷりと染み込んでいる。芳しい匂いに、脳が夢を見始め、ふわふわと曖昧で暖かなところに魂がいまにも飛んでいってしまいそうだった。
 それだけ、この地は穏やかだった。
 ベッドに横たわっていた最後の旅人は、周りの物音に起こされたのか、ゆっくりと目を開いた。
「おはよ、ユーリ」
 セシリアはその顔をのぞき込んで、気遣うように声をひそめた。嬉しさが、笑うように声を震わせていた。
「……なんで、お前が……」
 甘い香りにくらくらする頭を押さえて、ユーリはまだ夢の中にいるような気分で呟いた。
「俺、死んだんだっけ?」
「しっかりしてよ。私に会えて、天にも昇る気持ちってわけ?」
「ああ……」
 唸るように、曖昧な返事をしたユーリの頬を、セシリアは笑いながら軽く抓った。赤みの戻り始めた暖かな肌を掌で感じる。
「ようやく捕まえた」
 咎めるような、悪戯っぽい含みを持たせて言うと同時に、唇を押しつけた。温もりを目の前にして、求めないではいられなかった。ユーリは求められるままに応じていたが、呻くように身じろぎをすると身体を起こして部屋を見渡した。
「ここはどこだ? 他の奴らは……」
「とっくに目覚めて、外にいるわよ」
 ベッドから降りようとするユーリにセシリアは手を差し出したが、ユーリは自力で立ち上がった。心配したほど衰弱はなく、すぐに本調子に戻れそうだった。
 外に出て、ユーリは目を細めた。街全体が、金に輝いているように見えた。砂漠の太陽よりは柔らかく、暖かい日差しが降り注いでいた。
「あ、ユーリ!」
 カロルが真っ先に気づいて手を挙げた。彼の側には仲間たちが揃っていた。
「お前ら、無事だったか」
 彼らはひとしきり喜び合うと、セシリアに聞いた説明をユーリに伝えた。
「ヨームゲン、か」
「ちょっと散歩でもしてきたら? なかなかいい街よ」
「ん? ああ」
「ほら、行こう、ユーリ」
 レイヴンに勧められて、生返事をしたユーリを、セシリアは引っ張って行った。仲間たちは話が先じゃないのかと言いたげに振り返ったユーリに、笑顔で手を振った。
 セシリアはユーリと並んでゆったりと歩きながら街を横切り、海に面した場所まで連れていった。
「小さな街だな」
「そうね。でもここには全てがあるわ」
「結界はないんだな」
 ユーリは空を見上げてぽつりと言った。そして、どうも来たばかりとは思えない様子のセシリアに、思いついたことを訊ねた。
「お前、ここに来たことあるのか?」
「前に、ちょっとだけね。なんとなく、もう来れないと思ってた」
 海の上に組まれた木のテラスの、柵に背を預けて振り返り、セシリアは街を見渡した。
「まるで夢みたいな場所だから」
「……どうしたんだよ、乙女みたいなこと言って」
 思い切りいぶかしんで言ってやると、セシリアは思ったとおり当て付けて渋い顔をした。反面、その詩的な言い種にユーリ自身、らしくなく共感していた。穏やかで、時間の流れすらゆったりしていると感じられるこの場所は、どこか現実味に欠けていた。陽炎でも見ているようだ。
「運がいいわよね。砂漠に突っ込んで、無事で済むなんて」
「まあ、あんなところで倒れりゃ、さすがに死んだと思うよな。どういう気まぐれなんだ?」
 セシリアは肩を竦めた。
「試されたんじゃない?」
「何に? この結果は合か否か……」
「合格よ」
 生きてるんだから。
 セシリアはユーリの胸元を叩く真似をした。
「それで、わざわざどうして砂漠に?」
「依頼を受けたんだよ」
 ヨームゲンに運ばれていたのはユーリたちだけでなく、一組の夫婦も一緒だった。彼らは騎士団に駆り出されて砂漠に踏み入り、迷って餓死寸前だった。
「お前こそ、まさか一人で来たんじゃないだろうな」
「心強い連れと一緒よ。君ほど命知らずじゃないわ」
「お前にそんな口を利かれる日が来るとはな」
 ユーリは反論せず肩を竦めた。セシリアはその真意を探るようにユーリの横顔を眺めた。久しぶりだからだろうか、どうも調子が戻っていない。
「……君たちが街を出て、次の日にすぐ追いかけたのよ」
「へえ、そうか」
 淡泊な相づちに、そうよ、とセシリアは責めるように力を込めて頷いた。怒っているのを強調するように腕を組み、胸を張る。
「こっちは必死で追いかけたのに、そっちはちっともじっとしてないんだもの。いつまで追いかけっこすればいいのかと思ったわ」
「ははっ。悪かったな」
 ユーリは浮かべた笑顔をすぐに引っ込ませた。セシリアはその態度を注意深く見守る。
「ヘリオードでも、ノードポリカでも、厄介ごとを起こして。どうしたらそこまで事件に恵まれるのか知りたいくらいよ」
「そんなこと、今更だろ」
「そうね。下町のときからトラブルメーカーに変わりないか。規模が大きくなっただけね」
「原因俺かよ」
「違った?」
 ユーリは笑うだけで、否定しなかった。
「そろそろ戻ろうぜ。腹減った」
 そう言いながら、セシリアを待たずユーリは歩きだした。

 *

「はあ、生き返りました」
 シャワーを一番最後に終えて、エステルは血色のよくなった頬を至福にたゆませて、嘆息した。
「本当、あと一日遅かったら死んでたわ」
 髪を拭きながら、ジュディスは冗談には聞こえない口調でエステルに同意した。セシリアはベッドに倒れ込もうとしたリタの濡れ髪に気づいた。
「リタ、髪乾いてないよ」
「ほっとけば乾くわよ……って、ちょっと!」
「シーツが濡れたら気持ち悪いでしょ」
 タオルで頭を包んでぐしゃぐしゃと遠慮なくかき回し始めたセシリアに、リタは手足をばたつかせて逃げようとした。
「風邪引いちゃうわよ」
 ジュディスも面白がってリタを押さえつける。
「やーもう、自分でやるってば!」
「はいはい、しっかり拭ける?」
「赤ん坊じゃないっつーの!」
 リタは顔を真っ赤にしてセシリアからタオルを取り上げると、乱暴に自分の髪を拭った。
「リタ、ぐちゃぐちゃです」
 短い髪が普段以上に好き勝手な方向に跳ねるのを見て、エステルは思わず笑った。
「後で梳いてあげるからね」
「自、分、で、やる」
 すでに櫛をスタンバイしているセシリアに、リタは自分で、を強調してお節介を断った。
はいはい、とセシリアはあっさり諦めると、ジュディスに標的を変えた。
「こんなに髪長かったのね」
「ええ。ずいぶん伸びたわ」
 背中に流した青い髪を、ジュディスは一房手に取った。とんがった耳の後ろに生えている、薄青の毛が生えた器官が髪に隠れた。
「それはなんなの?」
 セシリアは屈託なく訊ねた。これ? とジュディスは手で触れた。
「ナギーグというの。感覚器官よ」
「ふうん。じゃあ、私たちと違うものを感じ取れるの?」
「さあ。人間になったことはないから」
「あはは。そりゃそうね」
 当たり前のことを言うジュディスに、セシリアは笑った。エステルは会話に加わらず、笑みを浮かべながら耳を傾けていた。
「どうしたの、エステル」
「あ、いいえ。なんだか、懐かしいなって」
「あなたたちは以前一緒に旅をしていたのよね」
 ジュディスはセシリアとエステル、リタを見比べた。エステルは嬉しそうにはい、と頷いた。
「またセシリアとこうして会えて嬉しいです。ね、リタ」
「ん、まあ、別に」
 リタはどうということもなさそうに言葉を濁したが、何かを期待しているエステルの瞳が向けられたまま動かないので、とうとう根負けして顔を背けながら、怒ったように付け加えた。
「わ、悪くはないわよ」
「本当に! セシリア、元気にしてましたか?」
「まあね。皆も無事でよかったよ」
 すでに再会を喜び合った後だったが、エステルはまだ感激が収まらないらしかった。
「よりによって砂漠に向かったって聞いたときは、正気の沙汰じゃないと思ったわ」
「……心配掛けてごめんなさい」
 エステルは罰が悪そうに身を縮めた。セシリアは気にしないでと肩に手を置いて微笑んだ。
「あいつの判断はいつも甘いのよ。それで周りの人を巻き込んで……」
「そんなことないです。ユーリはいつも私たちを助けてくれます」
「その通り」
 ユーリを庇うエステルの目の前に、セシリアは人差し指を立てた。
「何かを起こすときは、決まって誰かのため。でしょ?」
「……はい!」
 エステルは自分のことのように嬉しそうに笑った。
「彼のこと、よくわかってるのね」
 ジュディスはセシリアをのぞき込むように小首を傾げた。セシリアはつまらないことだけど、というように笑ったが、その後ろには誇りのようなものが隠されていた。
「セシリア、どうやってここまで来たんです? 聞かせてください」
「いいけど……、また明日ね」
 セシリアは唇に指を当てて、目でリタを示した。リタは顔を壁に向けて、ベッドにうつ伏せになってすでに寝息を立てていた。
「今日はもう寝よう。お互い、まだ休息が必要だわ」
「はい……。それじゃあ、また明日に」
 エステルも小さく笑って、リタの隣のベッドに入った。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 ジュディスも横になったが、ベッドに座ったままのセシリアを見て小さく声を掛けた。
「眠らないの?」
「……うん。先に寝てて」
 セシリアはそう言うと灯りを消し、音を立てないようにして部屋を出ていった。ジュディスはしばらく闇を見つめていたが、感覚を研ぎ済ますのを止め、目を閉じた。

 *

 海はほど近かったが、潮騒は静かだった。半分欠けた月が照らす黒い海を眺めながら、セシリアはゆっくりと歩いた。数歩先を進んでいたラピードは、鼻の先で闇の向こうを示すと、すっと向きを変えてセシリアの方へ戻ってきた。セシリアがお礼を込めてその背を撫でると、ラピードは掌に押しつけるように背を丸め、するりと抜けて宿の方へ取って返した。
 セシリアはラピードが教えてくれた方に向かった。
「夜更かし?」
 答えは返ってこなかった。闇より黒い人影が、海の方を向いて座っていた。セシリアは一歩離れたところで立ち止まった。
「皆寝た?」
「……そっちは?」
 寝たよ、とセシリアは答えた。
「リタなんか、もうぐっすり」
「そうか」
「眠くないの?」
「……お前は?」
 セシリアはユーリの後頭部を一瞥して、海面に目を戻した。
「目が冴えてる」
「らしいな」
 空気が震え、ユーリが微かに笑ったのがわかった。
「夜は寒いくらいだな」
「うん」
 それからしばらく、お互いに口を開こうとしないので、夜の静寂がしんみりと耳に沁みた。少し耳を傾けると、海が穏やかに砕ける音や、遠くで木々が風に揺れる音が聞き分けられた。
 闇に半分溶け込んでいるユーリの後ろ姿を見分けようとするかのように、セシリアはじっとその影を見つめた。ほとんど動かないからともすれば見失ってしまいそうだった。
 これ以上、黙っていても仕方がない。セシリアはそう悟って、重い口を開いた。
「……見つかったわよ、あいつ」
 誰が、とユーリは聞いた。
「ラゴウよ」
 答えた声音は自分で思ったよりも素っ気なかった。もう、その名自体にどんな感慨も沸きはしない。
「ダングレストを流れる川の川下に流れ着いていたの。背中を斬られていた。致命傷だった」
 一太刀でしとめた、見事なものだったわ、とセシリアは無感動に付け足す。
「犯人は捕まってないけど、恐らくは左利きの手練」
 それ以外に手がかりはなかった。目撃者もいない、深夜の暗殺劇。
 ふいに影が立ち上がった。地面に目を落としていたセシリアは、その動きを追いかけて目を上げた。
「はっきり言ったらどうだ?」
 月の青白い光が、その輪郭を際立たせた。

「お前がやったんじゃないかって」

 振り返ったユーリの瞳は、底なしの闇だった。
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