11:Weasand of Cados

 カドスの喉笛は、カドス山脈を縦横に伸びる洞窟だ。光の届かない山肌の奥深くには、強い魔物が生息している。デュークも今度はセシリアに魔導器を使うなとは言わなかった。
魔物を倒しながら奥へと進み、デュークはある場所で立ち止まった。
「ここなの?」
「ああ。だがすでに鎮められている」
 デュークが辺りを見回すのを追いかけるようにセシリアも岩肌に目をやり、水晶のような透き通った岩を眺め、暗闇に目を向けてぎょっとした。セシリアが剣の柄に手を掛けたとき、デュークもその気配に気づいた。
「クロームか」
 暗闇に二つ光る光は、天井に届くほどの高さから二人を見下ろしていた。デュークに呼びかけられ、彼女は暗闇の中から姿を現した。
「……ここのエアルは、先ほど私が吸収しました」
「そうか。周期がずれてると聞いたが」
 クロームは重々しく頷いた。彼女もエンテレケイアなのか、と興味と好奇心を隠しきれない瞳でセシリアはクロームを見上げた。クロームはセシリアに一瞥をくれた後は、デュークだけに意識を向けた。
「ええ。……満月の子が、ここを通って行きました」
「そうか」
「エステルが? 彼らがどこに行ったか、知ってるの?」
 身を乗り出したセシリアを、クロームはゆっくりと見下ろした。
「砂漠へ抜けるつもりでしょう」
「砂漠って、コゴール砂漠?」
 一体何をしに行くつもりだろう。セシリアノードポリカの一件で騎士に追いかけられでもしたのだろうか。逃げ込む先として砂漠が適しているとは思えないが。
 目印は星だけの、延々と続く黄砂の海原に乗り込めば追うものも追われるものもなくなる。オアシスに辿り着けるか、力尽きるか、そのどちらかだ。死の予感に満ちた、砂の世界。そこが目的地だと言うのなら。
「行くしかないか」
 デュークは一人苦渋の表情で意を決したセシリアに何か含んだ目を走らせてから、クロームを見上げた。
「フェローはどうしている」
「岩場に戻っていますよ」
「そうか」
「行きますか?」
「ああ」
 言葉は少ないが、二人は互いの考えをよくわかっているようだった。セシリアは、どうやら同行するらしいクロームを見て、デュークと見比べた。
「砂漠に行くの?」
「もう遭難したくはないか」
「こ、今度はしないわよ」
 僅かに歪められた目がからかっているようで、セシリアは顔を赤らめた。だが、空が見えないほどの砂嵐を思い出しただけで気分が沈むのはどうしようもない。できれば二度と行きたくない場所だった。
「砂漠の手前に、マンタイクというオアシスがあります」
「オアシス?」
「あなたのお仲間は、そこに滞在しているでしょう」
 クロームは感情の遠い、静かな声で言った。セシリアはクロームから声を掛けられたことに面食らい、返事をするのが一拍遅れた。長い睫に縁取られた目は、草食動物を彷彿とさせるような穏やかさがあった。姿形はかなり違うが、どこかベリウスを思い出させる雰囲気だった。
「そうだといいけど」
 セシリアは幾分か打ち解けた気分で、肩を竦めてみせた。クロームは少し抑えた声で告げた。
「洞窟を抜けるなら案内しましょう」
「ああ。今は一刻も惜しい」
 デュークはそう言って、さっと歩きだした。

 *

 クロームは出口の手前まで来ると、そこで別れを告げた。クロームは人の気配のする正道を避けて、人間には知られていない道を教えた。洞窟にいるのは、どうやら騎士団のようだった。
 オアシスのある街、マンタイクは砂漠の入り口でもあった。カドスの喉笛を抜けてしまうと、オアシスほど多量の水を湛えた場所はない。人々はその周りに生える植物を頼りに、この劣悪な環境で暮らしていた。街に入ると、騎士団の姿が目に付いた。槍を持った兵士は、街の要所要所に配置され、まるで監視しているようだった。デュークは彼らにまったく興味を示さず、まっすぐに宿屋に入ると砂漠へ向かうための準備を始めた。
 セシリアは宿屋の主人に話しかけた。
「一昨日か昨日か、ここに旅人が来なかった? 犬を連れた、四人くらいの団体」
「ああ、それならこの宿に泊まりましたよ。六人でしたけど」
「六人? そう……。それで、今は?」
「今朝方、砂漠に発ちました。私は止めたんですけども」
 砂漠を知らないようでしたし、無茶だと思いますがねえ、と主人は人の良さそうな顔をしかめて、彼らの道行きを案じた。セシリアは呆れながら苦笑した。
「やってみなくちゃわからないのよ、それがどんなに危険か」
 向こう見ずで無計画で、無鉄砲だ。彼一人ならどこに行こうが勝手だが、彼と一緒にいるはずの仲間はまだ幼い。大人でさえ過酷なのに、まして身体が小さく、まだ体力のない子供を連れていくのはどうなのだろう。底無しの砂に足を取られていないように、と無事を祈った。
 デュークはどこかへ出かけていた。セシリアも街の中を散策することにした。だが、どこに行っても騎士の目があって、ゆっくり観光しようという気分に水を差す。
 彼らが着ている鎧の色は、見覚えがあるものだった。下町にいたころ、遠目からその行進を何度か見送った。先頭に立っていたのは、やけに目立つ、派手な鎧を身につけた男。
騎士の他には、ほとんど人を見かけなかった。大抵の人は地面に目を落として、足早に通り過ぎていった。セシリアにもまったく注意を払わない。
 セシリアは街の北にあるオアシスへ足を向けた。砂漠の真ん中に、驚くほど澄んだ水を湛えた窪みが出来ていた。その中央には、この街の結界魔導器が半分水に身を沈めて立っていた。水辺には、涼を求めてか人影が散見された。騎士は遠くの建物の陰に一人立っているだけだ。ここなら肩の力が抜ける、とセシリアは深呼吸して水辺のぎりぎりまで降りていった。
 オアシスの周りは鮮やかな緑が生い茂っていた。ここにいると、暑さも和らぎ、砂漠にいることを忘れられそうだった。柔らかな緑は暗い洞窟や、眩しい砂地に痛んだ目に優しい。セシリアは過酷な環境のことや心を煩わせるものをしばし忘れて、しっとりとした草の上に腰を下ろした。
 次第に青かった空は赤みを帯び、たなびく雲が赤紫を映して燃え上がるようだった。夕焼けは他のどの場所で見るものよりも鮮やかで、生々しかった。明日は砂漠を通ることになる。大陸の南に広がるコゴール砂漠は、セシリアが迷った北の砂漠の何倍も大きい。
 どこまでも無慈悲に熱く、全ての水を蒸発させ、生き物のほとんどを排除する、死の地帯。体中から水分が奪われ、乾いていくあの恐怖は、忘れられるようなものではなかった。出口のない、無限の地獄の前には、一滴の希望も抱けなかった。ただただ歩いて、歩いても歩いても、まったく進まない悪夢の中にいるように、もどかしく、狂おしくさまよい、死から逃れることだけを考えて。
 あの頃は何もわかっていなかった。砂漠の広大さも、自身の矮小さも。今もまだ正しく理解できていないかもしれない。だが、心の中にくすぶって未だ鎮火していない恐怖は、足を竦ませるほどではなかった。今はデュークが一緒にいる。
 セシリアは空が赤いうちに、宿に戻った。

 *

 宿にはすでに出立の準備を整えたデュークがセシリアを待っていた。
「どこに行っていた」
「オアシスに……まさか今から出るつもり? もう日が」
「その方がむしろいい」
 多くは語らず、デュークは今にも出て行こうという素振りを見せた。セシリアは慌てて少ない荷物を纏めた。デュークは騎士の目を避けるようにして真っ直ぐに街の外れを目指した。見る間に太陽が地平線に近づき、大気の色が濁った。人目を忍ぶのには格好の時間帯だ。
「このまま砂漠に入るの?」
 セシリアは自分の声に僅かに不安が混じってしまったことに気づいた。デュークはこれが答えだと言わんばかりに歩いた。とうとう街の結界から出てしまい、セシリアはオアシスを振り返る。水はしばらく見納めだ。家々の赤い屋根も、茂る緑も。
「クローム、待たせた」
 前触れもなしに立ち止まったと思うと、デュークは暗闇に呼びかけた。前方から微かな羽ばたきの音が聞こえ、セシリアは頬に風を感じた。クロームは砂を巻き上げてデュークの前に降り立った。デュークはようやくセシリアを振り返った。
「お前の仲間はヨームゲンにいる」
「ヨームゲン……」
 懐かしく、感慨深い名だった。永遠の安寧を約束されたユートピア。あの街を出たあと、そこで過ごした時間を幾度となく思い出したが、まるで平穏な夢の中の出来事のように儚く感じた。あの場所が本当にあったのか、探してみたいと考えたこともある。けれど、デュークに再会するまでは、恐らく辿り着けないだろうと諦観していた。
 幸福な夢の景色を、目が覚めた後どうしても思い出せないように。
「どうして知ってるの?」
「私が運びました」
「え? 運んだって」
 顔色を変えたセシリアに、クロームはゆるやかに首を振った。
「心配は入りません。一晩も眠れば回復するでしょう」
「そう……。呆れるくらい悪運強いなぁ」
 安堵が過ぎると悪態が口を付いた。髪を掻き揚げたセシリアに、クロームは首を下げた。
「私の背にお乗りなさい。一晩で着きます」
「え、ありがとう」
 クロームは微笑んだようだった。膝を折ったクロームの背に身軽に飛び乗ったデュークに続いて、セシリアもその後ろに跨った。
「二人も乗って大丈夫?」
「少し飛ばします、しっかり捕まってください」
 クロームはそう答えると、力強く翼を打った。
 月光の飛行に、セシリアはすぐに慣れた。余裕が出きると、空を見上げたり足元を見下ろしてみた。覆い尽くすほどの星の海、そして見渡す限りの砂の海。強い風と共にそれらが後ろへと流れていく。
 デュークの銀の髪が、天の川を映したように見えた。

 *

 街はまだ眠りの底にたゆたっていた。遮るもののない、清澄な漆黒の天蓋は冴え冴えと煌き、地上に淡い光を投げかけていた。街は突然の来訪者も拒まなかった。ただ穏やかな静けさを壊さないことだけを要求するようだった。
 呼吸を殺し忍んでみても、木の床を踏みしめる自分の足音がひどく大きく聞こえる。気をつけながら扉を開けると、何人かの寝息が足音を掻き消した。よほど消耗していたのだろう、特に敏感な者すら身じろぎもしなかった。
 セシリアは青い月光に照らされた寝顔を見て、頬を緩めた。
 そっと手を伸ばし、顔に掛かった髪を払ってやる。
「……ユーリ、追いついた」
 まるで答えるように、眠る人の唇が僅かに開いて、名前を呼んだようだった。
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