10:Duce of the coliseum

 船主から一番最初に確認できるのは、その街最大の特色である闘技場だ。その円形の建築物を右手に、船はゆっくりとノードポリカの港に侵入し、碇を降ろした。
「とうとう着いた」
 新たな土地に胸を躍らせながら、セシリアは船を降りた。続いて降りたデュークを振り返り今後の予定を訪ねると、淡泊な答えが返ってきた。
「統領(ドゥーチェ)に挨拶をしてからカドスの喉笛に向かう」
「統領って……まさかベリウス?」
「そうだ」
「デュークってベリウスの知り合いなの!?」
「……それがどうした」
 大きく目を見張って叫んだセシリアに、デュークは面くらった。セシリアは興奮を隠せず、すごい、とか嘘、と騒ぎ、デュークに詰め寄った。
「ちょ、ちょっと、デューク! 私を紹介してもらえない!?」
「……なぜだ」
「ギルドの有力者の一人よ!? ドン・ホワイトホースの盟友の一人よ! もう一つのギルドの街、ノードポリカの統領なのよ! ぜひご挨拶に伺わなきゃ!」
「そ、そうか……」
 情熱に拳を震わせて熱弁するセシリアの勢いに押されて、デュークはなしくずしにベリウスへの仲介を承諾した。

「……なんだか騒がしいみたい?」
 闘技場へ伸びた道を歩いていると、慌ただしく行き交うギルドと何度もすれ違った。街の様子も、なにやら騒然としているといった雰囲気だ。なにかあったのだろうか。セシリアは背伸びをして、闘技場を見上げた。
「なにかあったのかなぁ」
「ちょっとおもしろいことがあったのよ」
「ぬわぎやぅわぁっ!」
 ひどい悲鳴だった。
 背後から声を掛けられて飛びす去りながら叫んだセシリアに、声を掛けた人も、デュークも鼓膜に響いたとばかりに眉をしかめた。その人は眼鏡を人差し指で押し上げ、腰に手を当てた。
「なぁに、ちょっと声を掛けただけなのに、ずいぶん喜んでくれるのねえ。セシリア?」
「カウフマンさんっ!」
 セシリアは気味が悪いくらい笑顔の彼女の前に急いで戻ると、笑顔を取り繕った。
「あは、突然だったから驚いちゃって!」
「そうー?」
 カウフマンは少し腰が引けているセシリアをねめつけたが、まあいいわ、と肩を揺らした。
「彼らの後、追いかけてるんでしょ」
「あれ、あいつらにでも会いましたか?」
「トリムで会ったわ。船を探していたから、提供したの」
「あいつ……私が追っかけてるの知ってて海を渡るとか……」
「あら、そうだったの?」
 カウフマンは腹立たしそうなセシリアの発言を聞き咎めて片眉を上げた。セシリアはその微妙な反応に気づかず、急き込んで訊ねた。
「それで、どこに行ったか知ってます?」
「それよ。今、ノードポリカが浮き足立ってるわけ」
「……なんか、聞かなくても想像つきますね」
 セシリアは意味ありげに人差し指を立てたカウフマンを見て身体から力が抜けていく思いがした。彼らにはおとなしく街を素通りするということは願うべくもないことなのだろう。追いかける側としては、向こうから足跡を残してくれているようなものだ。
「でも一応聞きます。ノードポリカでなにがあったんですか?」
「問題が起きたのは闘技場よ。ここノードポリカの最大の目玉であり、収入源のコロシアム。最近、チャンピオンに珍しい人間が立ってね」
「チャンピオン?」
 その言葉の響きに目を輝かせたセシリアを見て、カウフマンは笑いながら説明してやった。
「強さに覚えのある猛者が名乗りを上げて、互いに腕を競い合うのよ。その死闘に勝ち抜いたものはチャンピオンになり、次の挑戦者を待つの」
「勝ち抜き戦ね! 面白そう!」
「好きそうよね。それで、そのチャンピオンなんだけど」
「どんな強敵なの!?」
 食いついてきたセシリアに、カウフマンは思わず身体を仰け反らせて身を引いた。
「もう挑むつもりなの!? 滅法強いって話よ、その騎士」
「強いの大歓迎! ……って、騎士? どういうことよ、ここはギルドの街よ!?」
 拳を振り上げて力こぶを作り掛けたセシリアは、騎士という単語に憤慨してカウフマンに詰め寄った。
 カウフマンは煩そうに眉を顰めて、セシリアを押し返す。
「あたしに言わないでよ。だから騒ぎになってるんじゃない」
「え? でも、騒ぎの元って」
「そうよ。ユーリくんたち」
 カウフマンは襟を掴んだセシリアの手を払って、皺をぴしっと伸ばした。
「その騎士に勝負を挑むために、勝ち抜き戦に参加したのよ、ユーリくんが」
「あいつまた楽しそうなことしてるのね……! それで、どうして騒ぎになるのよ。ユーリとその騎士が知り合いだったの?」
「そこまでは知らないけど。二人の試合中に、乱入者があったのよ」
 カウフマンは闘技場の建物を見上げた。セシリアもつられてそちらへ顔を向ける。円筒型の見慣れない造形をしていた。
「それで決勝戦はめちゃくちゃ。檻に入れられてた魔物も騒ぎに乗じて放たれて、一時期は大混乱だったのよ」
 セシリアは周囲の雑踏を聞き流しながら、目を細めた。
「試合を邪魔するなんて……。そもそも騎士がギルドの闘技場でチャンピオンになるなんて。忌々しい話だわ」
「騎士団がノードポリカに駐屯しているのもあって、どうも空気が悪いのよね。いちいちギスギスしないで欲しいんだけど」
 カウフマンは困ったものだと首を傾げてため息を吐いた。セシリアは振り返って話を戻した。
「それで、あいつらが今どこにいるか知ってますか?」
「ああ、内陸の方へ行くのを見たって話よ」
「いつ?」
「あなたに会う前」
「それじゃ……!」
 すぐ追いかければ間に合う、と今にも走り出しそうに内陸の方へ首を伸ばしたセシリアに、カウフマンは落ち着いた態度で言ってやった。
「向こうにはカドスの喉笛と、砂漠しかないわ。なんの用意もせずに飛び出していったみたいだもの、そのうち戻ってくるわよ」
「あ、そうですか……」
 肩を押さえるように叩かれた。カウフマンの眼鏡の奥の、冷静に冴えた瞳が、セシリアに落ち着きを取り戻させた。もしそう言われなければ、勢いに任せて飛び出していたかもしれない。セシリアは焦って判断力を失い掛けたことを恥じた。
 それを誤魔化すように軽く咳払いをして姿勢を正す。
「情報、ありがとうございます」
「いいわよ、600ガルドね。特別に安くしてあげる」
「う、承知してます」
 にこやかに手のひらを見せてきたカウフマンに、セシリアは大人しく対価を払った。こういう商人根性を見せられると、敵わないと再確認する。
「ありがとうございました」
「いいえ。ほら、もう行きなさい。そちらの御仁を待たせちゃだめよ」
「あ、はい。それじゃ」
「またね、セシリア」
 ウインクしてみせたカウフマンに、セシリアは苦笑して手を振り返した。
「ええ、また!」
 最初こそ身に染み付いた習慣のごとく身構えていたが、蟠りはずいぶん薄れていた。銀髪の男に謝って、連れだって歩きだしたセシリアを、見違えるような思いでカウフマンは見送った。

 ***

 デュークはまっすぐに闘技場の中へ入っていった。迷いのない、素早い足運びに、セシリアは懸命に着いていく。ついあちらこちらに目移りして、何度か人混みに紛れたデュークを見失いそうになった。闘技場の外側を囲むように伸びた通路には、店がずらりと並んでいた。特に武器屋が目立ち、店先には鍛え込まれた刀身が輝いていた。中には珍しいものや、人目で名工と分かるものがあって、セシリアの好奇心をくすぐった。
 デュークはそれらに目もくれず、円型の建物の内側に伸びる通路の一本へ入った。突き当たりには階段があり、それを上った先にある扉の前には、門番が立ちふさがっていた。
門番は眼帯をしていない右目をデュークとセシリアに向けた。デュークの顔を見ると、はっとしたように組んでいた腕を解き、敬意を表した。
「お久しぶりです、よくおいでくださいました」
「統領殿に挨拶をしたいのだが」
 デュークは短く切り出した。門番はもちろんです、ベリウス様も喜びます、と早速扉を開けて中へ引き入れた。まるで領主と同等の客人に対する扱いだ。本当にすごい人なんだ、とセシリアは感心してデュークの涼しげな横顔をまじまじと見上げた。
「ベリウス様、お客をお連れしました」
 門番は扉の奥にあった階段をさらに昇り、建物の一番上に設えられた部屋の前まで来ると、うやうやしく告げた。中から低く答えが返ってきて、門番は扉を開けた。
 部屋の中は暗く、蝋燭だけがゆらゆらと淡い光を投げかけていた。ゆっくりと暗さに目が慣れてきて、セシリアはその部屋にいるものを見るや剣を抜いた。
「待て」
「魔物がどうしてここに!?」
 デュークが身構えるどころか制止を掛けてきたことを不可解に思いながら、セシリアは見上げるような大きさの魔物と対峙した。
「貴様、統領に向かって魔物呼ばわりしたあげく剣を向けるとは無礼極まる!」
「え!?」
「よい、ナッツ」
 背負った大刀を抜き放とうとした門番を、低い声が止めた。入れと言った声だ。セシリアは領主の姿を探したが、魔物の後ろにも、どこにも見当たらなかった。
「……そんな、だって……」
「わらわの本性を知らずにこの姿を目の当たりにすれば、そういう反応をするのも無理はない」
 腹の底に染みるような、深い声だった。セシリアはその声の出所をゆっくりと見上げ、信じられない思いで呟いた。
「……あなたが、統領ベリウス……!?」
 魔物――ベリウスは、笑うように目を細めた。
「さよう。こうして顔を見せてくれるのはいつぶりかな、デューク殿」
「お変わりないようでなによりだ、統領」
 セシリアはデュークとベリウスを見比べて、慌てて剣を鞘に納めた。そして、地面に頭をぶつける勢いで頭を下げた。
「すみません! 統領だなんて思わなくて、魔物なんて言って……!」
「ほ、ほ、ほ。かまわぬ。この男はどうも言葉が足りないところがあるからのう。それともわざと言い落としたのかの」
「……忘れていた」
「重要なことじゃないー!」
 セシリアは小声でデュークを責める。デュークは素知らぬ顔でベリウスを見上げた。
「意地悪な奴よ。しかし、わらわは驚いた。いや、それ以上に喜ばしい」
 目を細めて一人頷くベリウスの意が汲めず、デュークは瞬きをした。
「そなたが友人を連れてくるとはのう。紹介はしてくれぬのかえ」
「ああ、特に連れてくる気はなかったのだが……、彼女があなたに紹介しろと言うもので」
「い、いえ、騎士の殿堂<パレストラーレ>を束ねる統領に是非会いたいと思った次第で!」
 身も蓋もないデュークの紹介をかき消すように声を張り上げ、セシリアは言った。
「そうか。名はなんと」
「セシリアです。セシリア・アークライト」
「セシリアか。セシリア、このデュークという男だがな」
「はい!」
「無愛想で無感情に見えるかもしれぬが、人並み以上に繊細な心を持っておる。どうか、気にかけてやっておくれ」
「は、はい!」
「ベリウス」
 デュークは不愉快そうに僅かに眉をしかめたが、ベリウスは面白そうに笑うだけだった。セシリアは改めてベリウスの姿を眺めた。狐のような顔に、前足、四本足の胴体に、尻尾が二本生えている。魔物以外の何者でもない。だが、彼女は紛れもなく人間の言葉を話していた。
「ベリウス。……聞いてもいいですか?」
「なにかな」
「その姿はどうして?」
「ふむ。デュークは話しておらなんだのだな」
 デュークは無言を貫いた。ベリウスはふむ、ともう一度唸って顎を掻いた。その仕草は女性が物思いに耽る様にも似ている。
「では、始祖の隷長<エンテレケイア>についても知らぬだろう」
「エンテレケイア?」
 耳慣れない言葉に首を傾げたセシリアに、ベリウスはそうだろう、と言った。
「もう久しく人とエンテレケイアは関わりを避けてきた。自ら進んで姿を現す者は、わらわ以外にはおらぬだろうのう」
 その数もめっきり減ってしまったからのう、とベリウスは過去を振り返るように天井を仰いだ。
「わらわ自身も、滅多に人には会わぬ。そなたも知らなかったろう」
「はい……」
「人魔戦争は知っておるな」
「えーっと、名前だけなら」
 十年も前に起きた戦争だった。どこか遠くの大陸で起きたというから下町の住人にはあまり関係のないことだったが、武器を作るための働き手が一時期大量に集められたことがあり、そのとき女将が客がめっきり減ったことを嘆いていたことは覚えていた。
「それは、エンテレケイアと人との争いだったのじゃ」
「そうなんですか」
 セシリアにはなんとも答えようがなかった。ベリウスはかまわずに、遠い陰影を追いかけるように、宙に視線を漂わせた。
「地形が変わるほどの、激しい戦いだった。そのときの戦いでエンテレケイアの数はめっきり減ってしまった」
「そんな……人間が、そんな強力な力を持っているとは思えないけど」
 エンテレケイアがベリウスのような姿をしているなら、ギガントモンスターを一度に相手取るようなものだ。ベリウスはすぐには答えず、沈黙を守っているデュークに視線を走らせたが、セシリアに目を戻した。
「人間の側につくエンテレケイアもいたのだよ。彼らもまた、戦火により命を落としていった。……惨い戦いであった……。のう」
 最後のつぶやきはデュークに同意を求めるものだった。デュークは床に目を落とした。
「ずっと昔には、我らと人が共存していた時代もあったというのに。今、人とともにあるのはわらわくらいのものだのう」
「ベリウスは、ドンと盟友なんでしょう?」
「おお、そうじゃ。あれは面白い男じゃ。ずいぶん生きてきたが、あれほどの男は他にはおらぬ」
「どれくらい生きてるんでしょう」
「そうじゃの、闘技場を築いたのが今からだと……千二百年前になるか」
「せ、せんにひゃく」
 想像を絶する数字だった。ベリウスは目を白黒させているセシリアを見て面白そうに笑った。話が切れたと見て、デュークは一歩進み出ると用件を切り出した。
「ベリウス、大陸で変わったことはないか」
「大陸でか? そうよのう……。おお、バタンギという魚を知っておるかえ」
「魚……?」
「人間にはひどく不味いらしく食料には向かぬ魚だったのだが、近頃それが美味しくなったという話でのう。そなたらも一度食べていくとよいぞ」
「……他には」
 デュークは無表情に訊ねた。愛想のない態度にベリウスは閉口して、与太話を取りやめるとデュークをねめつけた。
「そなた、あれを鎮めに参ったのであろう?」
「そうだ」
「カドスの喉笛のあれはもう数年はもつと思っておったのだが、どうやらその周期に乱れがあったようじゃ」
「では、もうエアルが過剰に……」
「あとは、事件と言えば先ほどの決勝試合に乱入者があったことじゃが、これはもう片付いた。そなたもちょうどよいときに来てくれたものじゃ」
「一体どういう事件だったんですか?」
 セシリアは統領から事件の経緯を聞く機会を逃さなかった。ベリウスはふむ、と首を傾げてから、語り始めた。
「この闘技場の仕組みは知っておろうな。望むものなら誰でも試合に臨むことができる。負ければそこまでだが、最後まで勝ちあがりチャンピオンを倒すことができれば、次のチャンピオンになる。新たな挑戦者が現れぬ限りは、その者が闘技場のチャンピオンじゃ」
「騎士団の人間でも参加できるんですか」
 不満を隠しもせずに唇を尖らせながら聞いたセシリアに、ベリウスは笑いながら首を振った。
「まさか。騎士団に容易く敷居を跨がせるような輩はここには居らぬ。しかし、奴らは身分を偽ってまで大会に参加したかったようだのう。チャンピオンにまで成り上がりよった。フレン・シーフォという隊長じゃ」
「フレンが!? うそ」
「知り合いかえ?」
「はい。……じゃあ、ユーリとフレンが決勝戦を戦ったんだ……」
 何がどう間違えば、あのフレンが闘技場に身を投じるのかがわからない。ユーリはフレンがチャンピオンだと知っていて参加したのだろうか。
「それで、乱入者っていうのは?」
「惜しくも逃がした。檻から放たれた魔物を抑えるので手一杯でのう。どうやら挑戦者と面識のある者であったそうだが」
「ユーリと? じゃあどっちにしろ、混乱の元はあいつなのね」
「そなたもなかなか面白い友人を持っているようじゃの」
「そろそろ縁を切るべきかもしれませんね」
「そういう類の縁は、切ろうと足掻けばますます縺れるものよ」
 愉快そうに笑うベリウスに、セシリアは肩を竦めて見せた。一通り話が終わったことを見て取って、デュークは姿勢を改めた。
「セシリア、私はまだベリウスと話がある。先に帰れ」
「うん、わかった。武器屋を見てるから」
 セシリアはあっさりと頷くと、ベリウスに向き直った。
「ベリウス、あなたに会えてよかった」
「ほほ。ここでの滞在がそなたにとってよいひと時になることを願っておるよ」
「はい、堪能させていただきます」
 セシリアは闘技場や武器屋のことですでに心を一杯にしながら答えると、部屋を辞した。
デュークはセシリアが出て行くのを見送って、その足音が遠のくのを注意深く聞いた。
「なかなか肝の据わっている娘よの」
 同意を求めるように言ったベリウスに、デュークはただ沈黙で返した。
「試すようなことをしおって。試験の合否はいかがかの?」
「なんの話かわからん」
 デュークは素っ気無く言うと、表情を変えた。本題を切り出そうとするデュークを見て、ベリウスも聞く体勢を取った。
「……エアルの乱れが最近になって激しくなっている」
「ふむ。……満月の子か」
 ベリウスは厳しい表情で答えた。エアルの流れには人であるデュークの何十倍も敏感である。
「恐らくは。フェローもそれに気づいたようだ」
「そうか、フェローがのう」
 あやつはやたらと気が短い、とベリウスは顎を指先で撫でた。
「しかしまだ明星はその輝きを失ってはおらぬ。急いて事を過るようでは……」
「だが現実に、エアルの過剰供給は始まっている。悠長に構えているときではない」
「ならばどうする。……再び戦争を起こすつもりか?」
 牽制するように低い声で唸り、ベリウスは鋭い瞳でデュークを見据えた。デュークは古傷に触られた痛みを堪えるように、苦い顔をした。額にはその苦渋を表すように深い皺が刻まれる。その赤い瞳には、深い悲しみと燃えるような怒りがありありと浮かんでいた。
「……戦争を仕掛けるまでもない」
「デューク」
 思いつめた様子のデュークを見かねてベリウスは彼の名を呼んだが、デュークは顔を背けた。
「煩わせてすまない。失礼する」
「待て、デューク」
 デュークは呼び止められるのも聞かず、足早にベリウスの前から去っていった。頑なな背が、暗い予感を抱かせる。
「もしや閉ざした心を少しは解かしたかと思うたが……。やはり絶望の根は深い、か」
 デュークとは人魔戦争以降に知り合った。彼の友人だったエンテレケイアの伝で、エアルクレーネの場所を訊ねに来たのが最初だ。昔はもっと頑なだった。世界の全てを呪い、ただ親友との約束にしがみ付いていた。ベリウスの目にもその姿は痛々しく見えたものだ。その頃に比べれば、表情は柔らかくなったと言える。
 その彼が人間の友人を連れているのだから驚きだった。心情の変化が起こりつつあることは確かだろう。それが、良い方向に向かえばいいと、願わずにはいられない。

 *

 一風変わった趣向を凝らした刀に見とれていたセシリアは、その磨き上げられた刀身に映った人影を見て慌てて振り返った。
「デューク!」
 デュークはセシリアの姿など見えなかったように通り過ぎていく。セシリアは刀への未練を捨ててデュークを追いかけた。
「もう話、終わったの?」
 真っ直ぐに前を向いたままのデュークの顔は何者をも拒絶するように頑強だった。
「早かったね。宿取っておいたわよ。そこの突き当たり」
 ふいに足を止めるので、セシリアはデュークを追い越してしまい、有り余った勢いによろけながらその前に回り込んだ。
「揺れないベッドの上で、一晩ゆっくり休まないとね。明日はカドスの喉笛に行くんでしょう?」
「…………」
 デュークの睨むような視線もまったく問題にしようとしないセシリアを、デュークはさらに睨んだ。セシリアは瞬きもせずデュークを見返した。デュークはふとばかばかしいとでも言うように目を閉じると、深く短い溜息を吐いた。
「ここで待っているのではなかったのか」
「今日中に戻って来るならね。でも戻ってこない気がするし、そのときはまた、同行よろしくね」
「……どうして戻ってこないと思う」
「なんとなく」
 あっけらかんと答えたセシリアに、デュークはまた呆れたような溜息を吐いた。そして進行方向にセシリアがいることも構わず歩き出す。セシリアは慌てて避けて、デュークの隣に並んだ。
「一つ言っておく」
「何?」
「彼女について今日見たことは誰にも言うな」
「了解」
 デュークはそれ以降ふっつりと黙り込んだ。セシリアも何も訊ねなかった。
 そしてその日、ユーリたちがノードポリカに戻ってくる気配は、微塵もなかった。
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