09:A route of the dawn

 カプワ・トリムに着いたのはすっかり明るくなってからだった。セシリアは念のため正門を避けて、幸福の市場が搬入に使っている通用門を通った。幸い、門番はすんなりと通してくれた。中へ入っていくと、活気に溢れた騒音が聞こえてきた。
「懐かしい風だ」
 ヒースは目を細め、独白した。港の方へ向かおうとしたセシリアに気づいて、呼び止める。
「俺の家は高台の方にあるんだ。よかったら来ないか?」
「ありがとう。でも、急いでるから」
「そうか。俺で役に立てることはないか?」
 セシリアは笑って首を振った。
「早く家族に会ってあげて。遅くとも明日には引っ越しなさいよ」
「わかってる」
 二人は朝日の中で、互いの顔を見つめ合った。ヒースはセシリアが思っていたより若く見えた。
「……じゃあ、ね。健闘を祈るわ」
「あんたも、元気でな」
 固く交わした握手を解く。セシリアは坂の下へ、ヒースはその道をまっすぐに歩き、二人は別れた。

 セシリアはまず武器屋に剣を預けて、途中狩った魔物の毛皮や採取した薬草などを換金し、前回利用した宿屋に出向いてみることにした。もし彼らがここに来たなら、そこを利用する可能性が高い。宿屋の店主に聞いてみると、どうやら読みは当たっていた。

「ユーリ・ローウェルさんね、泊まってましたよ」
「よかった! いつ出ていったの?」
「三日前です。もしかして、お嬢さんはセシリアさんですかね?」
「ええ、そうよ」
 店主はユーリさんにお名前を聞いたんですよ、と人の良い顔で言った。
「伝言を残そうとしてらっしゃったのですが」
「なんて?」
「おそらくノード・ポリカへ向かうと言いたかったんだと思いますよ」
「ふうん? そう。ありがと!」
 伝言を直接残したわけではないことに釈然としなかったが、セシリアは宿を出て、港に向かった。
「ノード・ポリカまで何しに行くっていうのよ。本当、じっとしてないんだから」
 すぐに行き先がわかったことは幸先が良い。セシリアは白い石の敷き詰められた通りの向こうに見えてきた海面を見て、笑みをこぼした。真っ青な空と白い雲。冷たい潮風が気持ちいい。
 港には一隻の船が停泊しているだけだった。船の出航予定を聞こうと受付に向かう。
 そこには先客がいた。
 彼はちょうど用が済むところだったらしく、その場を離れようと振り返って、セシリアを見つけると僅かに渋い顔をして言った。
「……向こう一週間は船が出ないそうだ」
 腰まで届く長い銀の髪、どこか気品のある服装、その振る舞い。
 陽気な港町と、その人物があまりにも似合っていなくて、セシリアは吹き出した。はばからずに声を上げて笑うセシリアから、デュークは眉を寄せて顔を背けた。
「あっはっはっはっは。あー、もう。やっぱりこれって運命じゃない?」
「……単なる偶然だろうが、そう思いたければ思えばいい」
「そうじゃないなら……、もしかして、私のあと付けてたの?」
「…………」
 デュークは蔑むようにセシリアを見下ろしたが、気まずそうな色が頬の辺りに漂っていてセシリアの笑いを誘うだけだった。笑いを堪えようとしながら、セシリアはからかいを含んだ声で言った。
「あなたも船に乗ったりするのね」
「どういう意味だ」
「出航する船がないって、あれは?」
「ギルドの漁船らしい」
 セシリアは停泊している船を振り返って観察し、その帆に記された紋章を確認した。
「ああ、有明の蒼路ね。どこに行くのか聞いてみよう」
 そう言うが早いか、セシリアは船のそばで作業をしているギルドに声を掛けた。デュークはその背を見送っていたが、ゆっくりと後を追った。
「デューク!」
 船員と話し込んでいたセシリアは片手をあげてデュークを呼んだ。
「ノード・ポリカまで乗せてくれるって! どうする?」
 デュークはセシリアの笑顔を注視していたが、気持ちを切り替えるように目を伏せると、船員に改めて航海の日数を訊ねた。


 ***


 海上は快晴だった。
 少々風が強く波が高いが、その分船足は早い。障害物もなにもない内海の水平線を眺めながら、セシリアは解放感を味わった。
 いつまでも、この風を感じていたい。どこまでも、進み続けていたい。そうして辿り着くのは、未知の土地だ。
 セシリアはこんなにも長い船旅を初めて経験する。
 デュークが船尾からこちらへやってきた。
「交代?」
「ああ」
「もうちょっとここにいるわ」
 セシリアはまた海の彼方へ視線を戻した。デュークは彼女の隣に立って、同じ方向を臨んだ。海上に出る魚人などの魔物や商船を襲うという海賊を警戒しているのだが、今のところそれらがいる気配などまったく感じさせなかった。
「ねえ、デューク。聞いてもいい?」
「なんだ」
 潮風に負けないように声を張りながら、セシリアは切り出した。
「ノード・ポリカへはなにしに行くの?」
 しばらく答えは返ってこなかった。
 セシリアが諦めかけたところ、ようやくデュークは重い口を開い
「あちらの大陸に用がある」
「ふうん? 大陸に」
 会話が途切れる。
 セシリアは潮風が吹くに任せていたが、やがてデュークが聞き返した。
「……お前は、なぜ行く」
「ユーリたちを追っかけてるの」
「なぜ別れた」
「ちょっと用事があったの」
 セシリアは縁に肘を置き、顎を支えた。
「……カプワ・ノールの執政官を知ってる?」
「……いや」
「すっごく、悪い奴だったのよ」
 セシリアはぶっきらぼうに語り始めた。
「税金が重いのは当たり前、払えない人は魔物を狩りに行かせて、その子供は自分の楽しみのために魔物の玩具に……。思い出すだに腹が立つ、最低の奴」
 デュークは黙って聞いていた。
「でも、悪事はいつまでも続けられるものじゃない……。今までの悪行は白日のもとに晒され、罰せられることになった。これでめでたしハッピーエンド、……とは、いかないのが今の帝国だった」
 沖合でカモメが鳴いていた。
 翼を広げた一羽のカモメが、水面ぎりぎりまで滑空して飛び上がる。獲物を見失ってしまったのだろうか。カモメはその場を旋回しながら、また鳴いた。
「評議会における、強い立場が彼を守った。たくさんの人の苦しみよりも……ちっぽけな男の地位が優先された。ほんと、腹立たしいよね」
 セシリアは僅かに目を伏せた。少し声が低くなった。
「絶対許せなかった。そいつが罰せられずに、また市民を虐げるんだと思うと。だから私、そいつを殺そうと思った」
 寄りかかっていた縁から身を起こし、身体を反転させて背中を預けた。空を仰いで、自嘲する。
「短絡よね。悪い奴を消せばいいなんて。あいつにも、怒られちゃったし」
 剣を抜いた手を押し止めた強い力。怒りと、思いやりに溢れ震えていた声。
「フレンは……騎士の友人は、もっと根本的に、悪を法で正せる、正義の世界を実現しようって頑張ってる。ラゴウみたいな奴がこれ以上現れないように。そういうのって……本当にすごいよね」
 デュークは僅かに目線を動かして、床を見つめた。
「騎士団の――帝国の腐敗は、すでに手の施しようがないところまで来ている。たった一人がどうにかしようと思ったところで、同じく腐るだけだ」
「……フレンは、そんなに弱くない」
「信じているのか」
 ふと、鋭い赤の視線がセシリアを射ぬいた。
 それは一瞬だったため、セシリアは思わず怯んだ心を落ち着ける。そして息を吸い込むと、きっぱりと答えた。
「信じてるよ。フレンだもん」
「……帝国に誠実さを求めるだけ無駄だ。彼らは己の役割を忘却し、権力に腐心する堕落した愚者だ」
「……やけに帝国につっかかるわね」
 そりゃ私も帝国は嫌いだけど、とセシリアはいぶかしみながらそっとデュークの表情をのぞき込む。デュークの横顔は頑なだった。少しは心を開いてくれたのだろうかと思ったのだが、それはまた固く閉ざされてしまっていた。
 セシリアはまた海の方へ身体の向きを変える。カモメは後方へ遠ざかっていた。
「……私はさ、ギルドが好きなんだ」
「ギルドが?」
「そう。帝国の庇護を抜けて、自分たちの足で立つ人たち。法がない代わりに厳しい掟で自分たちを律して、自由を持つ代わりに責任も負う。誰にも干渉されずに、自分自身の道を進む。そういう生き方が、性に合うんだ」
「中には荒くれ者や、無法者もいるようだが」
「そういう人ももちろんいるよ。そんな人、どこだっているじゃない」
「……そうか」
「帝国にも、騎士団にも、下町にも。そういう人は……そりゃいるさ」
 セシリアは僅かに眉を寄せて、欄干の上に腕を組むとそこに顎を埋めた。
「そういう人に虐げられる弱い人たちも、たくさんいる。私は……そういう人たちを、助けられるようになりたい」
「弱き者にも卑劣なもの、怠惰なものがいる。助けを宛にして増長するようなものまで守るのか」
 辛辣な物言いに、セシリアは苦笑した。
「後ろ向きだなー。なんか人間に恨みでもあるみたい」
「…………」
「そんなの、助けてみなくちゃわかんないじゃない。卑劣とか、怠惰とか、私だってそういう部分はあるし。言っちゃえば、助ける価値のある、どっからどうみても助けるべき人間、なんていないじゃないの」
 セシリアは一語一語心の中で反芻しながら、考えを纏めるように続けた。
「でも、私は苦しんでる人見つけたら、放っておきたくない。できるだけ何かしたいって思う。それは、私が勝手にしたいことなの」
「…………」
「だから、勝手に助ける。相手がどんな人だろうが、なんだろうが関係ない。そう、それだけ」
 デュークに聞かせるというよりも、自分に説いて聞かせるような口調だった。セシリアはふいにはにかんで、
「なんて、今そんなこと唐突に思ったんだけど」
 と、弁解するように言った。デュークは表情を変えずセシリアを見つめていた。
「そういう風に、思えるようになれればいいかな」
「……そうか」
 セシリアは腕を突っ張って風に胸を張り、少し火照った頬を冷やそうとした。実になめらかに舌が動いたものだと、自分で思う。
「どうやら雰囲気が変わったのは気のせいではなかったようだ」
「え? そう?」
 セシリアが見上げると、僅かに彼の口角が上がっているのがわかった。本当に、僅かだけれど。
「ダングレストで会ったお前は、張りつめていて危うかった」
「あー、あんときは、精神状態最悪だったから」
「その後の経験が、お前を変えたのか」
「経験ってほどでもないけど……。まあ、きっかけにはなったな」
 セシリアは笑みを浮かべてデュークに言った。
「あのとき、あなたと会って幾分か頭が冷めたよ。余裕なくて言ってなかったと思うけど、改めて言っておくね。ありがとう」
「……いや」
 デュークはすっと顔を逸らした。
「……運命か」
 風に紛れながら聞こえた呟きに、セシリアは瞬きをする。
 こうして偶然に彼と再会するのはもう何度目だっただろう。
「なーんか、一生掛かっても返せないくらい借りを作っちゃった気がするんだけど、どうしよう!」
「借り?」
「そうそう。今はたいしたことできないかもしれないけどさ、何か困ったことがあればいつでも言ってよ。そういうのはいらない、なんて水くさいこと言わずにさ。これも運命だって」
「……ふん」
 デュークは微かに柳眉を寄せて、うねる波間へ視線を投じた。
「お前にできることなどない。……人間であるお前には」
「またそういうこと言う。魔導器を捨てられないから?」
「……そうだ」
 多くは語らず、デュークは何かを堪えるかのように目を閉じた。セシリアは腕を組んで、不愉快な顔を作ってみせた。
「そうやって、黙って不快感だけ示されてもわからないわね」
「話したところで通じまい」
「端から決めつけないで。私、そんなに頭悪そうに見える?」
「そうではない。お前はギルドが気に入っているのだろう」
「だからなによ」
 今度こそ一歩も引かない、とばかりにセシリアは喧嘩腰で言い返す。デュークの眉間の皺はそのたびに深さを増した。
「話し合いで解決するようなことではないということだ」
「諦めるのは話し合ってからにしたらどう? 少なくとも私は、聞く耳はあるわよ」
「……お前に話したところで変わるまい」
「デューク」
「中で休め。夜も見張りをするのだろう」
「デューク」
 セシリアはデュークの背中を睨み付けていたが、デュークは頑なに沈黙を守っていた。なおもセシリアは待ったが、我慢比べを続けても、彼が口を割ることはないと渋々判断して船内へ下りることにした。
 まだ、信頼が築けていないということだろう。セシリアが彼に一方的に恩を感じているだけのことだ。
 船旅はまだ長い。少しずつ打ち解けていければいい。
 船室に用意してもらったハンモックに身を委ねて、セシリアは目を閉じた。
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