06: A body without the place to go

 こちらの準備が出来ていようがそうでなかろうが、それはやってくる。向こうからしてみれば、テリトリーに入ってきたのは人間の方で、魔導器で武装しなければ己の身も守れないような弱い生き物に、容赦も情けもなく牙を剥く。
「魔物……!」
 セシリアは剣を抜く。魔導器なしで剣を握るのは初めて下町を出て以来だ。今の自分の力がどれほどのものか、焦燥を含んだ緊張感が下腹を焦がす。デュークはセシリアの前に立ち、言った。
「下がっていろ」
 デュークは独特な意匠の剣を構え、魔物に切り込んだ。
 白銀の髪が靡き、紫の軌跡が閃いては消えていく。デュークが通り過ぎた一拍後、糸が切れた人形のように魔物の肉体が地面に沈んだ。まるで魔法のような光景に、魔物がただの雑草に見えてしまう。その圧倒的な戦闘力の差に、セシリアは瞬きを忘れた。
「……あなた、何者なの」
 髪一本乱さず剣を仕舞ったデュークを、尊敬とも敬遠ともつかないまなざしで見上げながらセシリアは言った。デュークはデュークは感情の読めない瞳でセシリアを横睨みしただけで、歩きだしてしまった。
「詮索は無用だ」
 セシリアは黙って彼の後を追いかけた。



「急ぎましょう。風が湿ってきたわ」
「いや」
 雲行きが怪しくなってきた空を見上げながら足を早めたセシリアに、デュークは立ち止まった。
「恐らく豪雨になる。森に入ってやり過ごそう」
「そんな暇ないわよ!」
 デュークはゆっくりと振り返った。
「ヘリオードまでもうすぐでしょ。走れば間に合うわ」
 押さえきれない苛立ちに逆立っているセシリアを、デュークは無言で眺めていたが、ふと歩み寄るとその腕を掴み、有無を言わせず森の方へ引きずった。
「は、離してよ!」
 セシリアは渾身込めて振り払おうとしたがびくともせず、躓くように引っ張られた。ぽつん、と鼻の頭に冷たい滴が跳ね、あっと言う間に大振りになった。セシリアは大きく幾重にも重なった梢の下から外を振り返る。夕方だというのに夜のように暗くなった空から、土砂降りの雨が降り注ぎ、草原を煙らせていた。
「夜までこの調子だろう。今夜はここで野宿だ」
 草をかきわける足音は遠のいていったが、セシリアはしばらく、ぼんやりと雨一色になった草原を眺めていた。

 *

 ヘリオードにたどり着いたのは翌日の昼前だった。雨でぬかるんだ草原を強行軍で通り抜け、石畳を踏む頃にはブーツに着いた泥も乾き始めていた。
「では、私はここまでだ」
 デュークはヘリオードが視認できる距離に来ると、そう言って魔導器を差し出した。セシリアはそれを受け取って、すぐに腕に填める。冷たい腕輪は肌に馴染み、欠けていたものを取り戻したような充足感を得た。
「……ありがとう。あなたには感謝してもしたりないけど、今は……」
「見返りなど元より求めていないと言ったはずだ。早く行け」
 デュークは素っ気なかった。セシリアは駆け出し掛けて、デュークに軽く頭を下げるともう振り返らなかった。
 デュークは風に吹かれるまま佇んでいたが、ふと見切りを付けると広い草原を歩き始めた。

 ここを訪れたのはほんの数週間前だが、外観がどこか変わっているように思えた。木を切ったり、石を積んだりする音が、相変わらず絶え間なく聞こえてくる。
「すみません」
 セシリアは工事の手を止めて休んでいる二人組を見つけて、声を掛けた。
「最近、旅人が来ませんでしたか。男二人、女二人の四人組で、青い犬を連れているはずなんですけど」
「旅人? お前、みたか?」
「さあ。ここにはいろんな人間が来るからなあ」
「わからねえよな。悪いな」
「いえ。ありがとうございます」
 彼らのことだから目立つと思っていたのだが、なかなか有力な情報は得られなかった。行く先行く先なにかしら騒ぎを起こすのが彼らだ。
「ヘリオードには来てない……?」
 その可能性もあるにはあるが、ダングレスト付近にある街はここだし、ずっと街に入らないことは無理だろう。ふと先ほど別れたデュークの顔が浮かんだが、彼とはまた状況が違う。街に寄りつこうとしない彼がどうやって生活しているのか甚だ謎ではあるが、今はそれを考えている場合ではない。
「騎士を避けてカプワ・トリムに直行したのかしら……」
「そこのお嬢さん」
 セシリアを呼び止めたのは二人の騎士だった。
「人をお探しですか」
「ええ」
「私たちがお役に立てるかもしれません」
「どうぞ、本部の方にお越しください」
「騎士団の……本部?」
 騎士たちは兜で半分隠れた顔に、人の良さそうな笑みを浮かべた。

 *

 騎士団に所属しているからといってその人を疑うようなことをするつもりはないが、しかしいかにもそれらしい人間というのはわかるものだ。以前通された部屋は、あれでも来客用に整えられていたのかと思いながら、セシリアはブーツの先を擦りあわせた。こびり付いた砂がぱらぱらと落ちる。殺風景な部屋を見渡して、目の前でふんぞり返った男から焦点をずらし、正面を向いたまま、視界から不愉快な顔だけを消せないかどうかを試した。
「こちらも暇ではないのでね。早いところ白状してもらいたいのだが」
 なにもない空中に焦点をあわせようとすると、少しずつ鎧の輪郭が滲み、色だけしか識別できなくなる。
「騎士に協力をするのは市民の勤めであることは承知だろうな。あえて黙っていてもいいことはないぞ」
 いい具合だ。あとはこの状態を維持できればいい。セシリアは目を眇める。ドン、とテーブルが叩かれた。
「聞いているのか!」
 たっぷりと蓄えた口ひげを振るわせた怒り顔が眼前に迫った。失敗だ。
「……だから、知らないっていってるじゃない。そっちこそ人の言い分聞かないんだから」
 当てつけるようにため息をこぼす。騎士は侮辱に耐えるように眉毛を痙攣させた。
 声を掛けられたときに逃げればよかった。彼らは捕まっていたのかと、一瞬考えてしまったのが間違いだった。彼らも学習したようで、そんなヘマはしなかったようだ。騒ぎを起こさない、という選択肢は相変わらず選ばれないようだが。
 ともあれ、それだけわかれば十分だが、セシリア自身がこの場から解放されなければ意味がない。
「あやつらの仲間だろう。大人しく行き先を吐けば解放してやると何度言ったらわかるんだ!」
「だーかーらー、私も探してるんだって言ってるでしょ。行き先知ってるなら教えてほしいくらいよわからない人ね。ここで空っぽの頭真っ赤にして私を問いつめるより、いくらか丈夫な足動かして探した方がよっぽど有意義よ」
「貴様っ、き、騎士に向かってなんたる侮辱!」
 泡を吹いて甲高い声を立てた騎士の顔を見て、セシリアは言い過ぎたと気づいた。騎士の右腕が動く予備動作を見て立ち上がり、腰の剣に手を掛ける。椅子が倒れて大きな音を立てた。
 入り口に控えていた騎士たちが身を乗り出そうとするのを、引き抜いた剣の切っ先を上官の顎に突きつけることによって制する。
「これ以上話しても無駄ね。失礼させてもらうわ」
「き、騎士に剣を向けたな! 逮捕だ、逮捕っ」
 髭を振るわせて喚いた上官は、肌にちくりと痛みが差してうっと黙った。
 セシリアは二人の騎士を牽制しながらじりじりと入り口に近づく。
「ドアを開けて」
 騎士は身構えたままどう動くべきか迷っていた。上官は顎に走った痛みに声に鳴らない悲鳴を上げる。
「あ、開けろ!」
 怒鳴られて騎士の一人が木戸を開いた。セシリアの気が戸に向いた一瞬を見逃さず、もう一人の騎士が飛び出す。セシリアはそれを間一髪で交わし、廊下に飛び出した。
「追え! そやつを捕まえろ! 隊長に剣を向けた逃亡者たちの仲間だ!」
 本部のあちこちから鎧の音が聞こえる。セシリアは出口一点を目指して疾走した。外に出てしまえば振り切れるはずだ。セシリアが案内されたのは特に奥まった部屋だ。出口が遠いなら窓はないかと目を走らせる。前方から重々しい足音が聞こえ、セシリアはそちらに注意を向けた。
「……ユーリ・ローウェルの仲間か」
「あ、あなたは……っ」
 堂々とした出で立ちで立ちはだかった男に、セシリアの勘が足を止めた。男はすぐに剣を抜くでもなく、落ち着いた声で問う。
「セシリア・アークライトといったかな。そんなに慌てて、どこへ行くつもりかね」
「アレクセイ騎士団長!」
 追いついた騎士たちが、男に向かって敬礼をする。男は手を翳してそれを解き、セシリアに目を戻した。
「急ぐ用事があるので。歓迎は嬉しいけど、気持ちだけいただくわ」
「強がりな女は可愛いが、あまり人の好意を無碍にするのは感心せんな」
「そこを通して!」
 アレクセイのただならぬ威圧に屈しそうになる足を励まして、セシリアは叫ぶ。
「通れると思うなら通ってみろ」
 すらりと両刃の剣を抜き、アレクセイは不敵に笑った。吹き付けるような闘気に空間を掌握されてしまう。まるで強固な壁を前にしているようなもので、抜け道が一筋も見あたらない。といって後ろへ逃げても袋の鼠だ。剣を降ろせと、アレクセイは目で言う。セシリアは剣を握り直すと、気合いを入れて飛び出した。
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