02:A chase in the darkness

 カプワ・ノールの執政官として長年市民を虐げてきた、人を人とも思わない、悪人。
 トリム港で見たあのいやらしい、傲岸な顔つきを思い出す度に胃が燃え上がる思いがした。狡猾に法の裁きを掻い潜り、自らの満足を得るためだけに、人間として許されざる行いを続ける。まるでそれしか楽しみを知らないというように。
 そうするだけの特権を持っていると勘違いし、市民を奴隷に見立て、魔物の生臭い匂いが染み込んだ城で狂ったように権力を振るう。
 今度こそ、その尻尾を捕まえたと思った。トリム港で無碍に踏み潰された道理が、今こそ通されるのだと思った。それが、あの男はまた、セシリアの目の前で道理を捻じ曲げ、汚濁に塗れた力を頼りに、格子の隙間から逃げ出そうとしている。
 こんな馬鹿なことがあっていいのか。
 そう、何度愕然としたことだろう。
 下町に住む健気だけれど明るくて暖かかった人々、ノール港で出会った、傷つき、倦み疲れた人々。彼らの顔が次々浮かんで赤く膨らみ破裂しそうな胸に染みる。
 あの男はまた、あの港に戻るつもりなのか。
 全てを絞り上げられて絶望しか残されていないあの港で、あの少年を今度こそ自らの恐ろしい楽しみの犠牲にするつもりなのか。
 そう。あの男は必ずそうするだろう。
 自分の保身のためならいくらでも権力を乱用し、腐った椅子に居座って愉悦を貪るだろう。ラゴウが執政官としてノール港に戻ってきたと知った人々は、身体から血を流し、子供を奪われても、彼の寿命が尽きることをただ祈るしかないのだろうか。
 そんな酷い話が――あっていいはずがない。

 セシリアは闇を凝視しながら、唇を噛み締めた。

 *

「セシリア、探すならユーリやリタにも手伝ってもらおうよ」
 セシリアはとっさに首を振ろうとしたが、カロルのしょぼついた目を見て少し心を落ち着けた。
「そうね、一旦宿に戻りましょう」
 セシリアらが動くまでもなく、騎士団たちもラゴウ執政官の行方を追っていたが、ダングレストの中では思うように捜索ができないらしく、難航しているようだった。宿に向かう途中、数人の騎士と擦れ違い、騎士団とギルドが揉めているのが目に入った。
 宿に戻ってみるとユーリのベッドはもぬけの殻だった。
「どこ行ったんだろ?」
「ユーリにラゴウのこと話した?」
「うん、一番に……」
「……そう」
 セシリアは考え込みながら相槌を打った。
「じゃあ、フレンのところに行ったんだわ。私も行ってみよう」
「僕も……」
 すぐさま着いていくと言おうとしたカロルのおでこを突いて、ベッドに座らせた。驚いて丸くなった目が、抗議するようにセシリアを見上げる。セシリアはそれを制して言った。
「カロルは先に休んでて。これからどうするかは、フレンが決めてくれるから」
「……ごめん。ラゴウのこと、頼むよ」
「ええ、お休み」
 疲労を自覚したのだろう、カロルはそれ以上抵抗せず、ベッドに入った。セシリアはドア越しに声を掛けて、静かにドアを閉めると宿を飛び出した。

 *

 騎士が出入りして落ち着きのない駐屯地に近づこうとすると、たちまち騎士に止められてしまった。セシリアはフレンの名前を出して通してもらおうとしたが、向こうも一連の騒ぎで気が立っているらしく埒が明かない。
「隊長はお忙しいんだ。お前などの相手をしている暇はない」
「融通が利かないわね! そんなだからギルドに煙たがられるのよ」
「なんだと!?」
「もういいわ。これだけ伝えておいて。セシリアが来たって」
 今は騎士とお喋りしている時間はない。セシリアは見切りをつけるとそれだけ言い残してダングレストに踝を返した。
 この状況で、二人に会えないというのは痛手だったが、こうしている間にもラゴウは騎士団を撒いて逃亡中のはずだ。ダングレストから逃がしてしまったら、もう一度檻に入れるのは困難になってしまう。その前に手を打たなければならない。
 帝国騎士団はもう、当てにならない。
「……今度こそ観念してもらわなくちゃね」
 地の底から通達されたかのような響きを持ったその声は、セシリアの唇から離れ、闇に消えた。

 *

 ダングレストの街は結界を中心に、蜘蛛の巣のように広がっている。確かな計画はなされず、必要に応じて個々が勝手に家や通りを造っていったために、行き止まりになった道や子供がやっと通れるくらいの幅しかない通路、袋小路が多数存在していた。
 日の光が差さない薄暗いその通りには、ダングレストの闇が拭き溜まっている。
 セシリアはそういった小路を丹念に調べていった。
 時折遠くから騎士の鎧が擦れる音が聞こえた。
 一つ一つ、小路を通り過ぎるたびに、足の裏を焦がすような焦燥感が強くなっていく。暗闇に何度もあの嫌味な笑みを見た気がして、苛立ちが募り、次第に歩幅が大きく、速くなった。
 外へ通じる道の一つの中ほどまで来て、セシリアは出口の傍に何人か集まっていることに気づいた。淡い光に浮かぶシルエットはどうやら騎士だ。向こうの情報を得られればいい、とセシリアは忍ぶのを止めて駆け足に通りを抜けた。
「誰だ!」
 鋭い声が上がり、斜めの方向から槍が突き出される。セシリアは間合いを詰めるようにしてこれを避けて、攻撃の意思がないことを示すために両手を肩の高さに広げて見せた。
「ただの一般市民よ」
「ここで何をしていた。怪しい人影を見なかったか」
「私も人捜し。残念ながら収穫ゼロだけど」
「……セシリア!」
 朝靄の中から現れたのは小さな眼鏡の少年を引き連れたフレンだった。セシリアはフレンを振り返って、目を細める。
 白い鎧が清らかな光を反射して輝いていた。フレンの背後に見える空の裾野が青白く熔け始めているのを見つけて、もう朝を迎えたことを知った。
 フレンが合図をすると、兵士達は槍を下げた。
「……君も、ラゴウのことを聞いたのかい」
「ええ。ユーリに会ったのね」
「……ああ。依然、執政官の足取りは掴めていない」
「そう。騎士は外を固めているの?」
「中にはおいそれと入れない。代わりに鼠一匹逃がさないよう、見張らせている」
「なら、鼠は溝にでも潜伏中かしら……」
 語尾を潜めて独り言のように呟いて、背を向けたセシリアをフレンは呼び止めた。
「セシリア。もう宿屋に戻ってくれ」
「無理」
 セシリアは鋭く振り返ったが、思わずそのまま静止してしまった。
 朝日に浮かぶフレンの顔は厳しく、甘えも柔らかさも欠片もない、騎士団隊長のものだった。まるで別人のようなその目つきに、セシリアは目を奪われた。
「……これは私たち騎士団の問題だ。無関係の君に、首を突っ込まれるのは困る」
 だがその威厳の前にもセシリアは怯まず、渦巻く憤りを持て余しながら荒んだ目でフレンを睨み返した。
「誰が無関係よ。……私が駆け回ってるのはその騎士団が頼りないからに他ならない」
「無礼者!」
 咄嗟に剣を抜こうとした女性騎士を、片腕をわずかに上げて止め、 フレンは何かを伝えるようとするような沈黙を置いて、静かに言った。
「明日、エステリーゼ様は帝都にお帰りだ。見送ってあげて欲しい」
「……わかってる。それまでには戻る」
 セシリアは短く答えると、髪を翻して路地に戻って行った。
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