17: go off the deep end
天はいよいよ涙の様相を呈していた。
重苦しく陰鬱な雲が太陽の光を完全に遮り、吹きすさぶ風が泣いている。薄暗い空の下、執政官屋敷は不気味に静まり返っていた。
「どうやって入るの?」
「裏口はどうです?」
屋敷は見上げるほど高い壁で囲まれている。
エステルが案を述べたが、背後から投げられた声により却下された。
「残念。外壁に囲まれてて、あそこを通らにゃ入れんのよね」
振り返って、エステルは悲鳴を上げそうになる。すぐ後ろにいた男がすっと指を立てて、それを止めた。
「こんなところで叫んだら見つかっちゃうよ、お嬢さん」
黒い髪に無精髭を散らした顔に薄笑いを浮かべ、男はすっとエステルから離れた。濡れて黒くなっている紫の上着を羽織り、腰には短剣を刺している。三十代半ばの男だった。馴れ馴れしい態度に困惑しながらエステルは訊ねた。
「……えっと、失礼ですが、どちら様です?」
「なーに、そっちの格好良い兄ちゃんとちょっとした仲なのよ。な?」
「いや、違うから」
親しげな男に反して、ユーリの対応は素っ気ない。冷淡な態度にひどいじゃないの、と男は手を振った。
「お城の牢屋で仲良くしてたじゃない。ユーリ・ローウェル君よ」
「ん? 名乗った覚えはねぇぞ」
不審な顔をするユーリに、男は一枚の髪を取り出した。何度見てもひどい落書きだ。しかし少なくとも二人の人間がこれでユーリを識別しているのだから似顔絵としての役割はきちんと果たしているのだろう。
手配書を見て、カロルは納得した。
「ユーリは有名人だからね。で、おじさんの名前は?」
「ん? そうだな……。とりあえず、レイヴンで」
「とりあえずって……。どんだけふざけたやつなのよ!」
これにはリタも声を大きくした。
牢屋で仲良くしてという言葉から彼は牢に居たのだろう。とはいえ贔屓目でも看守には見えない。そんな人間がこの場で声を掛けてくる、しかもこちらの目的を知っているらしいということが不快であり、不審であった。
係わり合いになりたくないとばかりにユーリが立ち去ろうとしたところ、あ、とレイヴンが叫んだ。
「お嬢ちゃん、久しぶりじゃないの!」
「……ん?」
どうやら呼ばれたのは自分らしいと、セシリアは目を瞬いた。
「いやあね、忘れたのぉ? ほらほら、ケーブモック大森林でぇ」
「ケーブモック……ん、ああ! あのときのおっさん! ですか!」
セシリアは思い出した勢いでレイヴンを指差して笑った。おっさんなんてひどいーなどと言いながらもレイヴンも再会を喜んでいる風である。思いも寄らない繋がりに、ユーリは身体の向きをセシリアの方に改めた。
「どういうことだよ?」
「ええっとね。簡単に言えば単なる顔見知り」
「そんな浅い仲じゃないでしょー? 背中合わせて幾多の困難を二人っきりで乗り越えたじゃない! あの冒険を、俺は一日だって忘れたことはなかったぜ」
思い出すのにずいぶん時間掛かってたみたいだけど、と皮肉ったリタの声は黙殺された。調子の良い彼を困った人のように見てはいるけれど、もう二度と会うことはないだろうと思っていた相手との再会はセシリアにとってそれなりに嬉しいものだった。
レイヴンはセシリアと隣のユーリをしきりに見比べると、一人納得したようにふうんと顎を撫でた。
「どうやら、乙女の悩み事は解決したみたいねぇ」
「乙女?」
「いやっ、ええ、お陰さまで!」
乙女という単語に違和感を抱いて思い切り変な顔をしたユーリの頭を小突いて、セシリアは誤魔化すように続けた。
「それより、そろそろ私達行かないといけないのでっ」
「屋敷に入りたいんでしょ? ま、おっさんに任せときなって」
なんでもわかっている、という顔でレイヴンは頷いてみせる。そのまま駆け出すと屋敷の門前まで行ってしまった。見ていると、傭兵と交渉しているようである。正面突破か、と思いきや傭兵達がこちらを見た。のみならず剣を抜いている。レイヴンはその場で宙返りをしてみせると、ぐ、と親指を立てた。
やりやがった、とカロル以外の全員が眼を瞑った。レイヴンの企みにまんまと使われたわけである。
「おい、とんだ知り合いがいたもんだな」
「お、お互い様でしょ」
セシリアはユーリに言い返して、剣を抜く。こうなれば仕方ない。
そんなあと嘆いたエステルの隣で、身体を震わせていたリタはばっと顔を上げると、
「あいつ、バカにして! あたしは誰かに利用されるのが大っ嫌いなのよ!」
怒鳴り終える前に魔術発動の構えを取り、傭兵達の前に出る。怒りによりパワーが増大したファイヤーボールは、見事に傭兵達を一撃に下してしまった。
「あーあ、やっちゃったよ。どうすんの?」
歩いてきて伸び切った傭兵を見下ろして、カロルはリタを見る。
「行くに決まってんだろ」
見張りもいなくなったし、と少々自棄気味にユーリが決定した。
*
正門を抜け、裏へ回り込む。そこには人待ち顔の男が居た。
よう、と気楽に手を上げ無事で何よりと言うや、
「んじゃ」
と背を向け黒い柵で囲まれた小部屋に入った。それは昇降機だった。レイヴンが操作すると魔導器の動作音がして、レイヴンを乗せた昇降機は上の階へ上っていった。
「待て、こら!」
叫びながらリタが昇降機に乗る。全員が乗り込むのももどかしく、すぐにスイッチを入れた。昇降機はがたんと軋み、地下へ潜って行った。
「あれ、下?」
こちらの昇降機は降下専用だったらしく、怒り狂ったリタがどれだけ弄ろうとも均一な速度で地下フロアへ下りると、それきりうんともすんとも言わなくなった。下からでは操作できない仕様らしい。
地下にはだだっ広い伽藍とした部屋が開けていた。薄暗い魔導器の光がぼんやりと照らす部屋をユーリたちは進む。ラピードがふんと鼻を鳴らした。犬でなくとも鼻を覆いたくなる強烈な臭いが立ち込めていた。血と肉が腐ったような臭いだ。
眉を寄せ、セシリアは剣を構える。暗がりから魔物が二体現れた。
「魔物を飼う趣味でもあんのかね」
「かもね。リブガロもいたし」
ならばこれは魔物の臭いなのだろうか、とエステルが口元から手を離したとき、微かな声が聞こえた。子供の声。暗闇から届く声は弱く、助けを求めていた。
「行きましょう! 誰かいるみたいです!」
レイヴンという男が何を企みここへ誘い込んだのかは知らないが、あの弱弱しい声を無視することはできない。
広間の奥にある扉を開けることに迷いはなかった。
扉を開けた瞬間、セシリアは顔を顰めた。より濃くなった魔物の匂いと、生々しい、錆び付いた匂い。それらが交じり合い、鼻が曲がりそうな、醜悪な匂いとなって薄暗い部屋一杯に充満していた。
「――さあ、最後はその子供だけですよ」
声のした方へ顔を向けると、その先には目を逸らしたくなるような惨状が広がっていた。
低い唸り声が、高らかな咆哮に変わって赤黒く染まった四方の壁を震わせた。唾液を滴らせた獰猛な凶器が、いたいけな子供――逃げることもできず、寸刻前に起きた想像を絶する恐怖のせいで麻痺したように固まっている――の、柔らかな肉目掛けて突き出される。
残虐なショーを愉しんで細められていた目が、それを邪魔されたことを知り俄か見開かれた。
「何事ですか!」
「――ふざけるな!」
びちゃりと体液を撒き散らしたのは小さな肉体ではなく、ごわついた体毛を持った巨体だった。術技を受けた魔物は傷口からどろどろとした血液を噴出し、肉片の飛び散る床に崩れ落ちた。
エステルは果敢にもその中に足を踏み出し、放心している少年に駆け寄る。他の魔物を蹴散らしたユーリとカロル、ラピードが、鉄格子の前に佇むセシリアに並んだ。
生暖かい水に滑る柄を手が白くなるほど握り締めて、セシリアは鉄格子の向こうの見物人を睨む。
その男は青筋を立てるほどの怒りを押し隠し、胸を逸らしてセシリアを見返した。
「はて――これはどうしたことか。自ら檻に飛び込み、餌になりたがる者がいるとは」
見るからに豪奢な服装、もったいぶった口調。山羊髭を蓄えた白い顔を睨みながらユーリは眉間に皺を寄せて言った。
「あんたがラゴウさん? 随分と胸糞悪い趣味をお持ちじゃねえか」
「趣味? ああ、地下室のことですか」
一語一語間延びしたような喋り方は人の神経を逆なでするのに驚くほど適している。
「これは私のような高雅なものにしか理解できない楽しみなのですよ」
そうしていかにもくだらないと、ラゴウは評議会の愚痴を零す。
「退屈を平民で紛らわすのは、私のような選ばれた人間の特権というものでしょう?」
「そんな理由で……!」
ガン、と柵が甲高い音を立てて揺れた。魔物の血が乾いていない刀身を柵の隙間から伸ばし、山羊髭へ突きつける。一杯に伸ばしても、切っ先とラゴウの距離はまだ剣一本分開いていた。
「……柵がなければ」
セシリアは激しい憎悪を浮かべた瞳を見開いた。
「お前のような屑っ……!」
呪詛の言葉は途中で止められた。腕を掴まれ、柵のうちへ引き戻される。振り払おうとしたセシリアを、ユーリは目で制した。どこまでも深い黒色が、セシリアの胸中に渦巻いていたものを鎮まらせる。
「馬鹿な真似すんな」
「離して」
「ガキが見てる」
セシリアはさっと顔を赤くして剣を取り落とした。乾燥した音が響く。ラゴウは一つ咳払いをした。
「愚かなものだ。しかしなかなか楽しませてもらいましたよ。さて、リブガロを連れ帰ってくるとしますか」
そこでラゴウは目をいやらしく細め、柵の向こうに居る平民を眺めた。
「これだけ獲物が増えたなら面白い見世物になります。……まあ」
それまで生きていれば、ですがと愉悦たっぷりに付け加えた。
「リブガロなら探しても無駄だぜ」
俺らがやっちまったから、とユーリは不敵に言ってみせた。
ラゴウの表情が変わる。
「……なんですって?」
それまで曲がりなりにも丁寧で、品のある様子を保っていた雰囲気をかなぐり捨て、憤怒に腕を振るわせた。しかしすぐに怒りを押し込めると、平静を取り戻した。
「金さえ積めば、すぐ手に入ります」
「ラゴウ!」
つかつかとエステルが前に歩み出る。
「それでもあなたは帝国に仕える人間ですか!」
五月蝿そうに聞き流したラゴウは、柵の向こうにいる桃色の髪をした少女をまじまじと見つめると、驚いて身を引いた。
「あなたは、まさか……?」
素早く刀身から鞘を振り払うと、ユーリは蒼破刃を柵にぶつけ吹き飛ばした。ラゴウは後方に転び尻餅を着いたまま人を呼ぶ。リタが魔法を使おうとするとユーリが止めた。
「まずは証拠の確認だ」
ラゴウは奥の廊下へ駆け込んでいった。その先には地上に向かって階段が設えられていた。
それを確認すると、セシリアはエステルにしがみついている少年に顔を向けた。一瞬、少年の目が揺れる。セシリアは血の付いた右手を見て、苦く笑った。
「大丈夫ですよ」
エステルが優しい声を作って、少年に目線を合わせた。
「こいつはお前を助けたんだぜ?」
「あ……」
少年はおずおずとセシリアを見上げて、ありがとう、と呟くや声を上げて泣き始めた。
「何があったのか、話せる?」
しばらく落ち着くのを待って訊ねると、子供はしゃくりあげるのを止めて、エステルに答えた。
両親が税金を収められないために見知らぬ男に連れ去られてきたのだという。もしかしたらティグルの子か、とカロルが推察した。少年は肩を落として、力なく帰りたいよと零す。転がっている骨と、魔物の吐息、鼻が腐りそうな腐臭、これらをかの執政官好みの形に組み合わせれば、少年が日の当たらぬ屋敷の地下でどのような扱いを受けてきたのか、想像がつく。
どうしてこんなことが許されるだろう。込み上げてくるものに咽喉が詰まって、セシリアは少年を抱き寄せた。
「大丈夫よ」
「あ……」
「そうだよ、もう大丈夫」
エステルもそう請け負い、名を尋ねた。少年はポリーと名乗った。
ユーリはポリーの前にしゃがみ、励ます。
「ポリー、男だろ。めそめそすんな」
すぐに両親に合わせてやる、そう言えばポリーはしっかりとユーリと目を合わせて頷いた。
「ねえ、さっさとこんな場所出ましょうよ」
「天候を操る魔導器を探すんですね」
「そうだ。セシリア、行くぞ!」
ユーリに叱咤するように呼ばれて、セシリアは剣を広い鞘に納めた。僅かに手が震えている。ポリーがセシリアを見上げた。「行こう」と微笑んで、小さな手を握った。柔らかく、僅かに暖かかった。
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