13: he must bite the bullet

 潮の香が肌に張り付く。慣れない濃度に肺が息苦しさを感じることもあるかもしれない。初めて嗅ぐ潮風は、彼にどんな感慨を抱かせただろう。
「これが海か」
「気持ちいいでしょ?」
 髪に遊ぶ風を感じながら、セシリアは目を細めて遥か水平線まで埋め尽くす大量の水が波立ち光を乱反射している様を一望した。
見渡す限りの海。空の青さを飲み込んでなお深く、澄んだ色を湛えている。
 カプワ・ノール港への中継地点、エフミドの丘でも特に眺めのよい場所だった。
「お前もあいつも、こんな世界を見てたんだな」
 水面から視線を転じる。黒い髪がいつになく騒がしく、肩の上を踊っていた。
「ようやく同じモノ、見れるようになったね」
「お前らはこの先も知ってるんだろ? あいつも、追いついて来いなんて、簡単に言ってくれるぜ」
「そんなの、すぐだよ」
 情けないことを、と笑って、軽く背中を叩いてやる。
「だってもう、一歩を踏み出したんだから」
「お、洒落たこと言うじゃねぇか」
「いい言葉でしょう。胸に刻んどきなさい」
「心の中の名台詞全集に載せとくぜ。で、出典はどこだ?」
「私!」
 セシリアが手を上げて一歩踏み出す前に、ユーリは坂を駆け下り始めた。ハルルの街を襲ったという魔物の生き残りと戦ったばかりだというのに、元気なものだ。行き場をなくして頭の横で固定されていた手を、風を切って振り下ろす。
「ユーリ、早いよ!」
 突然駆け出したユーリに釣られてカロルは武器を抱え直した。海に見惚れていたエステルも方向転換する。慌しい様子にバカっぽいと呟いてリタは首を振った。
 斜面の上からそんな様子を見下ろし笑って、セシリアはふと足を止める。斜面の途中、少し崩れれば崖下に落ちてしまいそうな場所に、石碑のようなものが建てられていた。
「お墓?」
「墓?」
 リタは振り返って、並んでその石碑を眺めた。
「こんなところに?」
「こんなところだからこそじゃないの?」
 きょとんと瞬きをするエステルに、リタは教えてやる。
「帝国によからぬこと企んで、追放されたヤツの墓、とかね」
 落ちていた石をそこに立てただけ、という言われなければ墓とは気づかない簡素なそれを一瞥して、ユーリは素っ気なく言う。
「じゃ、オレもたぶんそうなるかな」
「え? な、何で?」
 縁起でもない台詞にカロルは驚いてユーリを見る。その表情が今にもユーリが死ぬのでないかという切羽詰ったものに見えて、ユーリはつい笑った。
「現に下町の連中の中には葬儀も出せない、ちゃんと葬ってもらえないのがいるんだ」
「じゃあどうしてるの?」
「そうだな。燃やして灰を川にまいたり、燃やして畑に灰をまいたりかな」
 まるで他人事だ。自分の死後の話だと言うのに。セシリアは目を閉じて、後ろで手を組む。
「大丈夫よ。私がちゃーんと、弔ってあげるから。こんな辺鄙な場所じゃなくてね」
「へえ? お前の方が長生きする予定?」
「もちろんよ。君ほど無茶な人生送ってないし」
「ガットゥーゾに意気揚々と突っ込んで危うくビリハリハに当たりそうになってたが、まあ長生きしそうではあるな」
「調子に乗った攻撃をスカって背後を取られた間抜けさんよりはマシでしょう」
「はあん。まあ、それならそういうことにしておこう」
「……あんたら仲良いわね」
 突っ込みのような独り言に、ユーリとセシリアは揃ってリタを振り返った。なぜかエステルが頬を赤くした。
「さて、思わぬ回り道をすることになったわけだし、そろそろ急ごうか」
「ああ、魔導器壊した奴に間違われたり、騎士の奴らに追っかけられたりして進路を逸れちまったからな。急ごうぜ」
 そう話を切り上げて、セシリアとユーリは揚々と歩き出す。それって嫌味? と渋い顔をしてリタが従った。
「うん、行こう! ノール港はすぐそこだよ!」
「カロルー、慌てると崖から落ちるぞ」
 途端に元気になったカロルは弾むように転がり出て、斜面を駆けた。ユーリの注意に案の定、前方不注意だったカロルは道を逸れて崖の淵ぎりぎりに飛び出した。きゃあきゃあと悲鳴を上げて腕を一杯に振り回し、なんとか事なきを得る。
「バカっぽい」
 リタの冷たい一言が安堵に満ちたカロルの背を一つ殴った。

 *

 目的地へ近づくにつれ、すっきりと晴れていた空に雲が目立ち始めた。それもだんだん分厚く、暗くなり、仕舞いには雨が降り始めてしっかりと濡れそぼってしまった。
 ようやく港に着いても雨は勢いも変わらず降り注ぎ、ひとまず宿を探そうと雨音に沈んだ港町を歩き始めた。
「……金の用意が出来ないときは、おまえらのガキがどうなるかよくわかっているよな?」
 ただでさえ陰鬱な天候の中、さらに気分が悪くなるような、いやに耳に障る声が嫌でも聞こえてきてエステルの足を止めさせた。雨の中やけに柄の悪い男らと、泥水につかった地面に膝をつく男と、それに寄り添う女という目立つ三人に目を向けるものは、他には居なかった。
「お役人様! どうか、それだけは! この数ヶ月の間、天候が悪くて船も出せません! 税金を払える状況でないことはお役人様もご存知でしょう?」
「ならば、早くリブガロって魔物を捕まえて来い」
「そうそう、あいつのツノを売れば一生分の税金を納められるぜ。前もそう言ったろう?」
 泥まみれになって嘆く両親らに慈悲を垂れるどころか、傭兵はさも滑稽だといわんばかりに愉悦を浮かべる。さらに縋る両親を嘲笑い、彼らは悠々とした足取りで立ち去って行った。
「なに、あの野蛮人」
 心底見下した声音でリタが吐き捨てる。
「あれが、今のノール港の厄介ごとだよ」
 どこか大人びた口調でカロルが語った。
「このカプワ・ノールは帝国の威光がものすごく強いんだ。特に最近来た執政官は帝国でも結構な地位らしくて、やりたい放題だって聞いたよ」
「その部下の役人が横暴な真似をしても、誰も文句が言えないってことね」
 リタとカロルのやりとりに、エステルが哀しそうな声で言う。
「港町なのに、活気がないのはそのせいです?」
「そうね、私が前に来たときはこんなにじめじめしてなかった」
 この雨、もうずいぶん止んでないみたい、とセシリアは石畳の敷かれていない剥き出しの土を見ながら言った。
服にずっしりと染み込んだ泥水に頓着せず、男は疲れた身体に鞭打って立ち上がる。女は泣くような声でその身体に縋りついた。
「もうやめて、ティグル! その怪我では……今度こそあなたが死んじゃう!」
「だからって、俺が行かないとうちの子はどうなるんだ、ケラス!」
 じっと黙っていたユーリがふいに確たる足取りで夫婦の方へ歩いていく。夫は妻を振り切り、街の外へ駆け出そうとして、ユーリの足に引っかかり盛大に転んだ。泥水が遠慮なく撥ねる。
「あ、悪ぃ、ひっかかっちまった」
 何をするんだと噛み付く勢いで振り返った夫に、ユーリは意味を知らないのではないかと疑いたくなる声音で謝った。
エステルが飛んで行って、転んだだけではない傷を抱えている夫に治癒術を施す。妻はそれに喜ぶでもなく、むしろ弱りきった顔でエステルに治療費が払えない、と伝えた。
「その前に、言うことあんだろ」
 ユーリのぶっきらぼうな言葉に、夫婦は余計恐縮する。
 セシリアがユーリの分まで愛想を浮かべ、言い添えた。
「子供でも言えること、ね」
「あ、……ご、ごめんなさい。ありがとうございます……」
 ケラスははっとしたような顔をして、頭を下げた。ティグルは軽くなった身体を妻に支えられながら起こす。エステルの治療術は優秀だ。
 ひとまずは安心だとほっとしていたカロルは、ふいに首を巡らせてさっきまですぐ傍にいたはずの人影を探した。
「あれ? ……ユーリは?」
「あ!」
 セシリアはユーリが姿を消したことに気づくとさっと怒気を上らせた。港町に入ってしばらくしてから感じていた視線、どうもユーリの方が先に気づいていたらしい。まだ様子を見ているようだと判断してお互い黙認していたが、やられた。一人で始末をつける気だ。
 カロルと一緒に一瞬とはいえ気を抜いた自分に歯噛みする。
「あの馬鹿!」
 唐突に怒り出したセシリアに、三人は驚いて言葉を失う。ラピードが先導するように尻尾を揺らした。共犯ってわけね、とちらりと睨んでみたがそれも詮無い。ラピードが鼻面を向けた先、絶え間ない銀糸の簾越しに金髪が煌いて、一瞬セシリアは怒りを忘れた。
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