07: miracle is in bloom

 たとえば藤の天井。たとえば薔薇の生垣。たとえば芝桜の絨毯。
 色鮮やかな花々が織り成す眺めは、恐らく国を越え世界を越えても、人々に言葉では言い尽くせない感動を与えるだろう。
 芳しいその香りと太陽の光を細かな柔毛に蓄えた花びらが浮かび上がらせる情景はときに人の心を癒し、凍えた頬から笑みを引き出す。花々とは往々にしてそのような魅力で人々を惹きつける。
 ハルルの街を守る大木に咲いた花は、その中でも最も高い力を備えていると、セシリアは思った。色を燻ませ硬く閉じていた蕾が、淡い光に包まれ、ゆっくりと開花していくあの荘厳とさえ表現できそうな様を、セシリアは一生忘れない。

 *

 全てが終った後も、セシリアは声を発することができなかった。
 視界の端で花弁によく似た桃色が沈むのを捉えて、ようやく我に返る。
「だ、大丈夫? エステル」
「はい……。少し、眩暈が」
 エステルは大丈夫だと微笑んだが、余計に心配を誘うような弱弱しいものだった。
 それも無理もない。セシリアが見たものが現実であるなら、このハルルの街をすっぽり包んでしまうほどの巨木を、たった一人の力で治癒してみせたばかりなのだから。
「お姉ちゃん! すごい! すごいよ!」
「ありがとね! ハルルの樹を元気にしてくれて!」
 嬉しくてたまらないと全身で表現しながら、子供達がエステルに礼を言った。
 そのまま跳ねるように樹の傍へ行ってしまった子供達と入れ替えに、町長がエステルに頭を下げる。
「ありがとうございます。これでまだこの街もやっていけます」
 これにエステルは目を瞬いて、セシリアの顔を見た。
「わ、私、今何を……?」
 まだ呼吸も整っていない。微かに速い呼吸を繰り返しながら、エステルは戸惑っていた。自分が何をしたのか、理解できていないらしい。バナシーアボトルの効力では無理なのかと全員が諦めたとき、彼女だけは樹の生命力を信じた。その強い願いが通じたのか、彼女を包む光はやがて樹へと伝わり、白い輝きに促されるように蕾が開いた瞬間はまさしく奇跡だった。大きな瞳を見開いて、問うように唇を薄く開いているエステルにセシリアはぱっと微笑んでみせ、白い頬に口付けをするとぽんぽんと肩を叩くと両手を持って立ち上がらせた。
「えっ、え? セシリアっ!?」
 何をされたのか理解するまでやや長い一拍置いてから真赤になったエステルが面白くて、セシリアは笑う。エステルの頭は一瞬真っ白になって、それから釣られるように笑い出した。
 傍に来てエステルの無事を確認してから、ユーリは花を見上げて言った。
「フレンの奴、戻ってきたら花が咲いててびっくりだろうな。ざまあみろだ」
「そうだ。唖然とした顔、見てやらなくちゃ」
 真面目腐ってユーリの軽口に乗ったセシリアに、エステルは小首を傾げる。
「お二人とフレンの関係って不思議ですよね。友達じゃないんです?」
「友達だよ?」
「ただの昔馴染みってだけだよ」
 同時に答えた二人の顔を見比べて、エステルはそういうものだろうか、と納得しておくことにした。
 そこへラピードが割り込んでくる。黙って煙管で示した方角には、町人とは明らかに違う雰囲気の男たちが遠目に見えた。
「あれは……」
「どうしたの?」
「あの人たち、お城で会った……」
 エステルの呟きに、ユーリは頷く。そして簡潔にセシリアに説明した。
「フレンを狙ってる暗殺者だよ」
「ふうん。それで?」
「俺はそいつに間違いで殺されそうになった」
「あっそう。それで?」
「顔を合わせると厄介って事」
「なるほど理解。じゃあ逃げる?」
 この会話から、昔馴染みってこういうものなのか、とエステルはなんとなく感じた。
 何がどうなっているのかわからないのはカロルである。せっかくハルルの樹を治したところなのに、逃げるとは尋常ではない。
 坂を降りはじめた三人に、カロルは慌てて着いて行く。
「やっかいな連中が出てきたな」
「逃げる? とは聞いたけどさー。まだゆっくりしていきたいのに」
 一応ユーリと満開の花を見たいという願いは叶った形になるが、恐ろしく急ぎ足である。
 エステルも似たような心境なのか、そうですよね、と相槌を打つ。そんな二人に対してユーリは淡白だ。
「フレンも、ここにいれば戻ってくるかもしれませんし……」
「住民を巻き込んだらやっかいだろ」
「その、フレンって誰?」
 話題に着いていこうと訊ねたカロルに、ユーリは主観的に答える。
「エステルが片想いしている帝国の騎士様だ」
「ええっ!?」
「そうなの? 付き合ってるんじゃないの?」
 驚愕のカロルの隣で、セシリアはさらに主観を事実のように話すものだからエステルはたまらない。
「ち、違いますっ!」
 声を大にして否定した。
「フレンはた、ただの友人で、そんなんじゃありませんっ!」
「えー、本当? それにしてはかなり必死じゃない?」
「も、もう! セシリア、意地悪です……」
 照れるエステルに面白がって調子に乗った一言が余計だった。エステルはすっかり不貞腐れて俯いてしまう。きゅっと顰められた眉と、俯いた顎に遅れる形で揺れる毛先がいかにも少女らしく、愛らしい。セシリアは緩む頬をなんとか押さえながらエステルの肩に縋るように手を置いた。
「ああ、ごめんねエステル。ちょっとからかってみただけなの。そんな顔しないで」
「からかうってなんですか。ひどいです。自分は恋人がいるからって……」
「セシリア、こここ恋人いるの!?」
 宥めようと猫なで声を出すセシリアに顔を背けてエステルが言った言葉に、カロルはひっくり返らんばかりに反応した。仰け反った勢いで肩から掛けていた鞄が背中に廻り、その反動に小さな身体が引っ張られそうになる。倒れまいとなんとか踏ん張っている姿を危なっかしいなあとユーリは暢気に見ていた。
「だっだあだだ、誰!?」
 ここまで食いつかれると思っていなかった二人は顔を見合わせて、ユーリを見た。
 ユーリは一つ瞬きをすると、脈絡なく歩き出し、いかにも話の続きのように言った。
「やっぱり、早くこの街を離れた方がいいな」
「えー、やっぱり離れなきゃだめ?」
「え?」
「ユーリ?」
「フレンは東に行ったんだったか? とりあえず追いかけるか。アスピオはどこだったかなー」
「ええ?」
「どうして誤魔化すんです?」
 明後日の方向を見ながらそんな相談を始めた二人に、カロルとエステルは目を点にした。
「皆さん! 待ってくだされ!」
「やあ、あなたは町長、でしたっけ」
「どうしたんですか?」
 タイミングよく現れた町長に、二人はわざとらしい口調で答えた。カロルとエステルのすっきりしない気分を他所に、町長は用件を述べる。
「樹を治してくださったお礼がしたいので、我が家へいらしてくださいませんか」
「そんな、お礼だなんて」
「遠慮なさらず。私は先に家へ戻っておりますので」
 町長はエステルの返答する暇も与えず、老体にしては軽い足取りで走って行ってしまった。街全体が結界を取り戻した喜びに沸いている。その雰囲気を無粋な金物の音で壊してしまいたくはなかった。
 町長の家へ行くと、ちょうど町長が玄関から出てくるところだった。
「お待ちしておりました。ささ、ごゆっくりと」
「ありがとうございます、でも、私達あまりゆっくりもできないので……」
 町長の顔を見ると断るのは心苦しかったが、エステルは丁寧にその招待を辞退した。町長は残念そうに眉を下げたが、ならばせめて、とユーリに袋を差し出した。セシリアは思わず目を奪われる。袋が揺れると誘惑するような良い音がした。ぎっしり金貨が詰まっているに違いない。
「俺? 何もやってないぜ」
「町長さん。それは受け取れません」
 ユーリはまったく誘惑を感じなかったようで受け取りをにべもなく拒否し、エステルもならばあなたにとこちらを見た町長に対してきっぱりと断った。
 感謝の気持ちの表現を軒並み拒否されてしまって、町長は困ったように言った。
「しかし、それでは気持ちの収まりがつきません」
「ならこうしよう」
 ユーリはいいこと思いついた、というように口角を上げる。
「今度遊びに来たら、特等席で花見させてくれ」
「あ! それいいですね」
 楽しみです、とエステルも手を合わせて微笑む。町長はその微笑みを見て、折れた。
 どうだ、とでも言うように視線を寄越したユーリに、セシリアも笑みを返す。
「……わかりました。そのときは腕によりをかけてお持て成しさせていただきます」
 アスピオの情報を貰って、一向は町長の家を後にした。
 日陰の街アスピオはハルルから向かって東の方向にある。学術都市という名のとおり、そこは帝都直属の研究施設だった。
 東ならばフレンも向かった方角である。行き先は決まった。
 街の入り口へと進み始めた中、エステルはふと立ち止まって少し躊躇ってから心情を吐露した。
「不謹慎かもしれませんが……。私、旅を続けられて少し嬉しいです」
 こんなに自由なのは初めてだ、と言うエステルに、ユーリは大げさだな、と笑う。それは決して大げさではなく、エステルは生まれてからずっと城の中で育った、まさしく深窓の令嬢であることを、彼はまだ知らない。
「で、カロルはどうすんだ?」
「港の街に出て、トルビキア大陸に渡りたいんだけど……」
「ならカプワ・ノールに行くのね。残念だけど、ここでお別れか」
「え!?」
 セシリアがしんみりと言い、ユーリとエステルも別れを告げた。
「カロル、ありがとな。楽しかったぜ」
「お気をつけて」
 エステルに丁寧に頭を下げられて、カロルは焦ったように目を白黒させたあと、それを塗り替えるように笑顔を作った。
「あ、いや、でも、もうちょっと一緒について行こうかなあ」
「なんで」
「やっぱ心細いでしょ? ボクがいないとさ!」
 セシリアなどもう会うこともないかもしれないとまで思っていたのに、こうなると拍子抜けである。ユーリは胸を張って人差し指を立ててみせるカロルに笑った。
「ま、カロル先生、意外と頼りになるもんな」
「では、皆で行きましょう」
 二人はあっさり許してしまったが、魔狩りの剣には戻らなくていいのだろうか。トルビキア大陸で仲間が待っているかもしれないのに? セシリアは心の中で首を傾げる。セシリアのいたころの魔狩りは、それほど甘くはない。魔物が暴れていると聞けば怪我を押してでも東奔西走し、魔物の前に来て逃げ出すような輩には容赦しなかった。
 カロルのような子供が加入を許されるのだから、事情が変わっているのかもしれない。しっくりしないものを感じながら、セシリアは隣を歩くラピードの背中を撫でるともなしに撫でた。セシリアの掌に合わせてラピードの背中が隆起する。そのままはたりと手が離れてしまうと、ラピードは少し不満げに尻尾を振った。
「どうした?」
 遅れ気味になっていたセシリアの傍まで下がって、ユーリは彼女の顔を覗き込んだ。セシリアはそんなユーリを恨めしげに見やる。
「なんだよ」
「私は、もうちょっと滞在したかったなー」
 覇気のない様子を見て、もしや疲れたのだろうかとユーリは思う。エステルでさえ旅が出来ると張り切っているのだから、この程度で疲れるわけもないだろうが、どうもそうではないらしい。
「じゃあ、残ればよかったじゃねぇか」
 そんな推察から出た言葉は、セシリアの何言ってるのこの人という蔑むような目付きに迎えられた。一人で残っても意味がない。そう言いたいセシリアの気持ちには、しかしユーリだって気づいていた。
「むくれんなよ。アスピオでモルディオさえとっ捕まえればいいんだ。その後、二人でまた来ようぜ」
「…………そうだね」
 セシリアはふう、と切りをつけるように息を吐き、上体を捻って名残惜しくハルルの樹を見上げた。来るときに見た景色とはまったく違う。これだけ見事な結界があれば、どんなに遠くからでもこの街に戻ってこられそうだ。
「ま、いっか」
 壮麗な絵画のごときその一枚を目に焼き付けて、未練を断ち切る。あの様子なら花見の期間は長いだろう。
「約束だからね」
「おう」
 ようやく笑みを取り戻したセシリアに、ユーリは触れるだけのキスをする。
 なんとなく微笑み合って顔を正面に向けた。口に手を当てたエステルと、顎が外れそうなカロルがこちらを見ていた。四人の間になんともいえない空気が流れる。
「……そういや、なんとなくはぐらかしたままだったな」
「そうだね。なんとなくはぐらかしたままだったね」
 なんとなくはぐらかした結果は成功、といったところか。二人が吹き出し、エステルが何してるんです! と叫んだ頃、ようやく石化から解けたカロルが言葉にならない何かを口走った。

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