03: Gear are beginning to turn


 ザーフィアスの北に位置するデイドン砦は、帝都を魔物から守るために設置された、南イリキア大陸と北イキリア大陸を分断する強固な壁だ。
 また、両大陸を結ぶ中継地点でもあるため、旅人の休息場になっていた。
 季節関係なく巨大で頑丈な門の下は引っ切りなしに人が行き交うのだが、見ていると門から中に入る流れしかない。
「ユーリ」
「ああ、話を聞いてみるか」
 ユーリも気付いていたようで、エステルに少し待ってろ、と声を掛けようとした。
 エステルは店を開いていた馬車の側で、古びた本を読んでいた。
「……聞いてない、と」
「……。えっ? 何か言いました?」
「話聞いてくるから待っとけって言ったの」
「あ、待って下さい! 私も行きます!」
 エステルは慌ててこちらに来ようとしたが、本を持ったままなことに気付いて店主に返そうとした。店主はそんな古い本でもいいならもらってやってくれ、と手を振った。
「あ、ありがとうございます!」
 丁寧に頭を下げたエステルを連れて、三人と一匹は近くに居た門番に声を掛けようとした。その時、甲高い鐘の音が砦に響いた。
「魔物だ! 門を閉めろ!」
 地平線を埋め尽くすほどの砂煙を舞い上がらせ、地鳴りが砦目指して近付いて来た。猪の群れだ。
 その中に、一際大きい姿を見付けて、セシリアは眉を寄せる。
「まさか、主? この時期に……」
 旅人たちは必死に砦を目指した。
 我先にと人々は門を潜る。
 大きくなる砂煙と地鳴りに焦って、兵隊の一人が退避完了と叫ぶ。鎖で持ち上げられた門が降ろされ始める。
「閉門待って! まだいるわ!」
 誰かが叫んだ。一番に動いたのはエステルだった。足を挫いて動けない青年を治療し、中へ導く。ユーリは恐怖で動けない少女を抱き抱えた。
 砂埃の中から、ユーリの間近に魔物、サイノッサスが飛び出した。猪の数倍はあるだろう巨体が脇目も振らず突進してくる。セシリアが刀を抜いてユーリとサイノッサスの間に割って入り、正面から魔物に切り込んだ。
僅かに反り返った刀身は細く、サイノッサスの突進には無力に見えたが、その鋭い刃は突進の勢いさえ利用し肉を切裂き、その重量が刀をへし折る前に、エアルへと霧散させてしまった。吹き付けた血飛沫がキラキラと輝く光の粒に変わっていく。
 しかし全ての衝撃を拡散できたわけではなく、セシリアはバランスを崩す。
「セシリア!」
 ユーリが注意を飛ばす。
 セシリアは横合いから二体目の影が迫っていることに気付いた。
 ――間に合わない!

 ユーリは声さえあげられず、まるで時間が止まったかのように、それを見ていた。

 体勢を崩したセシリアは、しかし倒れなかった。どこからか現れた人が腕を差し出し、彼女の背を支えた。
 ユーリが見たのはそこまでだった。
 他の魔物達が間近に迫り、門は閉まり掛けている。セシリアを振り返る余裕はなく、ユーリは一心に門を目指して駆け、閉まる寸前に身体を滑り込ませた。
 ユーリの頭が門を潜ったすぐ後に、門は重々しい音を立ててぴったりと閉まった。
「セシリア!」
 少女を離し、身を翻して門を叩く。
 拳に、魔物達が反対側からぶつかってくる振動が伝わって来た。
 もう門を開くことはできない。
「……くそっ!」
 背を向ける前に一瞬見えた、セシリアを助けるように現れた人間。彼に託すしかないと、ユーリは門から離れ、頭を垂れた。

 *

 ふと気付いたら、セシリアは森の中にいた。
 地響きが膝を着いた地面から直に伝わって来る。どうやら砦からそう遠くない場所のようだ。
 セシリアは自分をここまで引っ張り、猪の群れから救出してくれた人物を振り返った。
「……ありがとう。おかげで助かったわ」
 男は無言でセシリアを見返した。
 白銀の長い髪、前髪から覗く赤い瞳。どこか浮世離れした雰囲気の男だった。
 ふいと背を向けようとした男の手を、セシリアは咄嗟に掴んだ。
「待って、私まだ君の名前を知らないわ。私はセシリア。セシリア・アークライトよ」
「なぜ、名を知りたがる」
 そう言われるとは思わず、セシリアは面食らった。男は警戒している、というよりは、この会話自体を疎んじているように感じた。
 これ以上、近づくな。無言の拒絶。
 しかし、セシリアは臆さなかった。ここで手を離せば、もう二度とこの人に会えないだろう。そんな予感が胸の内にはじけた。セシリアはもう一歩踏み出した。
「君は命の恩人だもの。恩人の名前を知ろうとするのは変?」
 男は何かを探るようにセシリアの目を覗き込んだ。中性的な、美しい顔立ちだった。癖の着いた前髪が、風に揺れ、赤い瞳をちらちらと隠す。男はすと視線を外した。
「デューク」
 そして、短く名乗った。
「デューク? ありがとう。本当に助かったわ」
「……私が勝手にやったことだ」
「それでも、何かお礼をしなくちゃ。デイドン砦からどこかへ向かう途中だった? 私達はハルルへ向かうところなんだけれど、もし向かう方向が同じなら、一緒に来ない? 魔物に立ち向かうのに、人数が多いに越したことはないでしょう」
「……よく喋る」
 畳み掛けるように言うセシリアに、デュークは閉口したように呟いた。
「ごめんなさい。会話が途切れたらデュークは行ってしまう気がしたから」
「……それでなんの不都合がある?」
「だから、お礼がしたいから」
 セシリアが迫ると、デュークは一歩離れた。
 セシリアは彫刻のように表情を変えないデュークを見上げる。
「……人は愚かだ」
「え?」
「お前もまた、その中の一人……。私はお前を助けたが、見返りを求めてのことではない。だから礼など要らない」
「じゃあ、どうして助けてくれたわけ? 愚かな人に対する哀れみ?」
 人を愚かと断言するデュークの言葉が貴族を連想させて、セシリアは腰に手を当てデュークをねめつけた。
「貧民にだってね、恩に報いようと思う気持ちくらいあるのよ。金銭的なお礼を求められたって払えないけれどね」
 この反撃に、デュークは目を瞬たいた。
「私は金銭など求めない。愚かな者を哀れむ必要もない。そう……どうしても礼がしたいと言うなら」
 デュークの視線がふいにきつくなり、セシリアの腕を掴んだ。咄嗟に身を引いたが、それよりデュークの方が早かった。

「魔導器を破壊しろ」

 セシリアの腕輪に嵌められた魔核が、光を反射して煌めいた。
 視線が絡む。
 沈黙が降りた。
 セシリアは訊ねる。
「……どうして」
「それは世界の毒だからだ」
 デュークはそう言い残すと、さっと背を向けて木々の作る闇の奥へと消えた。
 セシリアは追うこともできずにその背を見送って、地鳴りを頼りに砦を目指した。
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