06: After a storm comes a calm

 ふと顔を上げれば、空はすっかり茜色に移ろっていた。白い半透明の結界が、薄紫に染まっている。セシリアはのろのろと空を見上げ、またのろのろと地上に視線を落とした。
「……うん? なんじゃ、セシリアじゃないか」
 背後から名を呼ばれ、セシリアは億劫そうに顔だけをそちらに向けた。ハンクスが片手を挙げてこちらへ近づいてきた。仕事帰りのようだ。
「どうした、元気がないな」
「……そう?」
「……こりゃ重症じゃな」
 セシリアはまた重苦しく息を吐いた。ハンクスはそんなところに座ってたら冷えるぞ、と言って自分の家が近いから茶でも飲んで行けと言った。セシリアは立ち上がるのも大儀だったが、断るのも面倒だったので重い腰を上げてハンクスの後についていった。
 セシリアを居間に上げて、ハンクスはちょうど茶葉を買ったばかりだと言って湯を沸かした。
 熱いお茶を啜って一息ついてから、ハンクスは口を開いた。
「もう噂になっとったぞ、今日のこと」
「どっちが?」
「どっちもじゃ。軽食屋で起きた分と、商店街で起きた分」
「……そっか。早いね」
「下町の人間は噂好きじゃからなァ」
 ハンクスは染みるように目をぎゅっと瞑り、お茶を煽った。
「帰ってきたばかりだっちゅうのに、さっそくの活躍で疲れたか」
「ううん。私の方は、あいつが方をつけたようなもんだし」
「あいつも幼馴染が帰ったんだから、数日くらいは大人しくしたらいいものをなァ」
 あの厄介ごとを引き起こす体質は死んでも治らんだろうなァ、そうしみじみとハンクスは言って首を振った。本人は厄介ごとを引き寄せる星の元に生まれついてしまったと思っているのだろうが、端から見ればどちらでも同じことだ。
「私がいない間……ユーリってどうしてた?」
「なんじゃ、まだ話してないのか?」
「ううん。本人からは聞いた」
「そうか。そうじゃなぁ、騎士団を辞めたばかりのころは、そりゃひどいもんだったぞ」
 ハンクスは腕を組んで、その頃を思い出すように目を細めた。
「ああ見えて真面目なところがあるからなぁ。自分を傷つけるようなことばかり繰り返していたこともあった」
「……いろんな女の人と付き合うとか?」
「そんな噂もあったが……なんじゃ、ユーリはお前さんにそんなこと言いよったのか?」
「ううん。私も噂を聞いただけ」
 噂か、どこまで本当かは知らんがな、とハンクスは渋い顔をした。
「そのことで、あまりあいつを軽蔑してやらないでくれよ。同じ男だから庇うんじゃないがな。恐らくあいつには必要なことだったんじゃ」
「そんなの……知らないわよ」
 ぱっと頬を染めて、セシリアは顔を背けた。こんな話をしたかったんじゃないとでも言いたげに、苛々とコップを指で叩きながら口を開いた。
「ただ……私ってそんなに頼りなく見える?」
「うん?」
「一人じゃ何も出来ないような子供に、見えるかな」
「お前さん、もう子供って年じゃなかろう」
「そうよね。私だって……」
 あれくらい、切り抜けられた。それは驕りじゃないと、思う。
「でも、あの時……。あいつが現れたとき、私嬉しいって思った。もう駄目だ、なんて思ってなかったのに、そう思ったらすごく腹が立って」
「どうして?」
「だって、私もうずいぶん強くなったんだから、一人でどうにかできるはずなのに、結局、あいつの力に頼ってるんだって思ったら」
「いいじゃないか」
 ずぶずぶと底なし沼に沈んでいく心を一気に引き上げてくれるような、そんな明るい声音だった。
「いいじゃないか。どうして自分を責める」
「だって」
「頼ればいいんじゃ、そういうときは。いままでもそうじゃったろう?」
「……いままでは、三人で力を合わせてただけで」
「足りない部分を、相手が補ってくれる。それでいいじゃないか。何をそんなに怒ってるんだね?」
「……私……ただ」
 ぎゅ、とコップを握る両手に力を込めた。指の先が白くなる。ハンクスは優しい目でその指先を見つめた。
「泣きなさい。泣きたいんじゃろう?」
 抑えていた涙は、その一言で限界を越え、堰を切って溢れ出した。一度溢れてしまうと流れは止まることを知らず、セシリアは声を殺して頬を濡らした。
 昨夜からずっと抱いていたわけのわからない憤りが、涙に混じって流れていくような気がした。


* * *


 ハンクスが夕飯の準備を終える頃、ようやくしゃくりあげる声が小さくなっていた。フライパンの火を止めて振り返り、椅子の上で小さく丸まっている背中を見つめる。まだまだ子供だ。
 ふと、ドアの外を引っかくような音が聞こえて、ハンクスは調理を中断した。ワン、と一つ吼える声がし、ハンクスは玄関のドアを開けてやった。するとするりと青い毛皮の犬が滑り込んできた。
「なんじゃ、ラピードか」
 セシリアも顔を上げて薄ら赤くなった目でラピードを見つけた。ラピードはハンクスの家に上がりこむと、まっすぐにセシリアの下に来た。
「どうやら、お迎えじゃな」
「ラピード……」
「はよう下宿に戻れ。きっと女将が夕飯を用意しとるぞ」
「……うん」
 セシリアは目元を拭うと、席を立った。
 ラピードは尻尾を揺らしながら、先導するように玄関に鼻先を向ける。セシリアはドアに手を掛けて、台所に戻ったハンクスを振り返った。
「ハンクス、ありがとう」
「なあに、誰かと一緒に飲んだ方が茶は上手いからな。また来なさい」
「……うん。お邪魔しました」

 外はとっぷりと暮れていた。街灯が仄明るく照らす夜道を、ラピードの尻尾を追いかけながらセシリアは小走りに過ぎた。
 一つの街灯の下に、黒々とした人影が一つ、柱に寄りかかるようにして佇んでいた。
 ラピードが小さく吼えると、それに答えるように顔を上げる。
「……遅かったじゃねぇか」
「……ちょうど、夕飯時でしょ」
 ユーリはぱっと街灯から離れると、ラピードの隣に並んだ。二人と一匹分の足音が白い壁に反響する。
 しばらく無言で進んでいると、いい加減焦れたとでも言いたげにラピードがちらちらとユーリを見上げた。
 ユーリはそれにわかってるよ、と目で答えて、しばらく口の中で何事かを呟いた挙句、ぽつりと言った。
「悪かったよ」
「私こそ、ごめん」
 同じく謝る声は、ほとんど間を置かずに紡がれた。二人はそうして、ようやく肩の力を少しだけ抜く。
「……別に、お前のこと舐めてたわけじゃないんだぜ。ただ、ちょうどいい場面に居合わせたからだな……」
「うん。怒鳴ってごめん」
「いや、いいよ」
 反射的にそう答えてから、自分の口調に照れくさくなって飄々とした風を装った。
「お前がそんな殊勝だといっそ不気味だぜ。今回は俺も、怒ってもしょうがないことしたと思ってるし」
「そっちこそ、いやに素直じゃない……。でも、一言言って欲しかった」
「悪かったって。ああ言った手前、今更手伝うとか言えねえし……」
「意地っ張り」
「ははっ、ごもっとも」
「先約って、このことだったの?」
「いや、まあ、結果的にはそうなるかな」
 ユーリはもう誤魔化さず、素直に認めた。これ以上足掻いても仕方がない。シーラの口を塞いでおけばよかったと、少し後悔した。
「……私一人で大丈夫だって言ってるのに」
「そうは言うがな、やっぱり心配だろ。現に多数に囲まれてたし」
「あれは……。結局ユーリに助けられたのは事実か」
 セシリアはまだ一人でなんとかなったと主張しようとしたが、ユーリの素直な態度に引き摺られたのかそう独り言のように呟いた。
「……あの時、来てくれて嬉しかった」
 ありがと、と続く言葉は少し小さかった。ユーリの瞳に、こちらを向いて小さく笑ったセシリアの赤い唇が鮮やかに映った。ふい、と顔を正面に向けて、わざと一歩先に立ち、ユーリは答えた。
「惚れた女の窮地なんだ、助けるのが当然だろ?」
 どさっ、と物が落ちる音がして、ユーリは必要以上に驚いて肩を竦めながら背後を振り返った。セシリアが消えていた。と、視線を下に向けると地面にへたり込んでいるだけだった。
「ど、どうした?」
 ユーリとラピードは俯いて微動だにしないセシリアに慌てて駆け寄る。肩が小さく震えていた。
「セシリア?」
「……んで」
「え?」
「なんで、今、そういうこと、言うわけ?」
「え、あれ、タイミング間違えた?」
 外した、と思った途端予期せず耳まで熱くなった。言葉を失って目を泳がせていると、唐突に首に飛びつかれた。
 ふわりと鼻にかかった柔らかな髪から、花のような匂いが漂う。
「……なあ」
「…………」
「……セシリアさん?」
 煩いくらいに鳴っているのがどちらの心臓なのか判別がつかなかった。耳元で何か聞こえた気がして、え、と聞き返す。
 抱きついたときと同じように唐突にセシリアは身体を引き離し、ぱっと立ち上がった。
「おい」
「……私も!」
「はっ?」
 一瞬何の話かわからなくて間抜けな声が出る。振り返ったセシリアの瞳は艶やかに潤っていて、星の光を湛えているように見えた。
「好き」
「えっ」
「かもしれない」
「はあ?」
 ユーリの間抜けな顔を見てセシリアは弾けるように笑い出した。
 よくわからないがさっさと歩き出してしまったセシリアを、ユーリは慌てて追いかける。
「おい、こら」
「ラピード、早く帰ろう!」
「待てっておい、ラピードまでおま、裏切り者!」
「ワフン」
「うわー、黒ずくめの男が追ってくるー!」
「ワオン!」
「逃げろー」
「アオーン!」
「だから、なんなんだお前らは!」
 旧来の友のような顔をして並んで走る二人の背中を追いかけながら、ユーリは叫んだ。走りながら、苦笑が自然と綻んでいく。遊びかと思ったら全力で逃げようとするセシリアになんとか追いつき、しなやかな腕を捕まえ、笑いに弾む身体を両腕で押さえ込んだ。
 ふわりと花が香る。
 セシリアはしばらくもがいていたが、笑っているせいで上手くいかないらしかった。暴れるのを抑えるのに乗じて、額や頬にキスを降らしてやる。それがくすぐったくてセシリアは余計に笑い転げた。
「ほら捕まえたぜ。観念して大人しくしろよ」
「あー、笑いつかれた。走りつかれた」
「宿屋はもうすぐそこだ。だがその前に、俺の質問に答えろ」
「答えられそうなら答えようかな」
「一言で済むぜ。答えるまで離さねえからそのつもりでな」
「面倒な人ね! 早く済ませてよ」
 ユーリは答える代わりに、セシリアの頬を押さえて耳元に唇を近づけた。セシリアは肩を竦めてそれを聞く。今度はセシリアが顔を上げてユーリの耳元に囁き返した。
 空は雲ひとつない満天の星空。忍びやかで幸福に満ちた笑い声は、いつまでも止む様子がなかった。
 ラピードは尻尾を揺らして一つ欠伸を零した。
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