05: Like to like

「ごめんねぇ、セシリア」
 ドアが開けられ、甘い声が聞こえて来てセシリアは放心していたことに気づいた。ベッドの方へ移動するマーサの方に顔を向け、ううん、と笑ってみせる。
「あの子達、さんざん暴れまわってようやく遊び疲れたみたいよ。ベッドに入った途端鼾を掻き出したの」
「あはは、相変わらず元気な兄弟だね」
「今日は特別よ。大好きなセシリアが泊まりにきたんだもの!」
 三人の相手は疲れたでしょ、ごめんねぇと繰り返すマーサに、そんなことない、楽しかったと首を振る。貧乏ながら両親と優しい姉を持つ子供達は、純粋で、腕白で、とても愛らしい。
 止むことのない明るい笑い声を聞いているだけでこちらまで楽しくなれた。
 うんざりするどころか満悦気味なセシリアに対して、マーサは頬を膨らませてみせた。
「セシリアったら、あの子達とばかり遊ぶんだもの。ちょっと複雑だったわ」
「ごめんごめん。あのまま寝てくれなかったらどうしようと思ったから、よかった」
「放っておいたらいつまでも遊んでるからねぇ! 子供は暢気でいいわぁ」
 ベッドに腰掛け、クッションを膝に乗せ、そこに肘を突いて頬杖を着く。そのまま一つはあ、と芝居がかった溜息を吐いて、ぱっとこちらを振り向いたときには天真爛漫な笑顔を浮かべていた。
「あの子達も寝たことだし、今度は私が独り占めする番なんだからね。今日は寝かせないわよ!」
「えー、私ももう眠いわよ」
「いいじゃない。灯り消すわね」
 部屋を暗くすると、マーサはベッドに潜り込んだ。セシリアも枕に頭を乗せる。さあ、お話しましょ、とマーサは布団の中から浮き浮きと言った。
「結界の外はどう? 素敵な人とは出会えた?」
「マーサってばそんなことばっかりなんだから! 素敵な人は……うーん、どうかなあ」
「ふふふ。でも、帰ってきたってことはユーリ以上に素敵な人は見つけられなかったってことよねぇ」
「はあ? どうしてそこにあいつが出てくるのよ」
 思わず起き上がりそうになりながら、セシリアは慌てて口元を押さえた。つい大きい声を出してしまった。過剰な程の彼女の反応がマーサを喜ばせたようで、部屋の向こう側からくすぐったくなるような笑い声が聞こえた。
「でも、ユーリもよくセシリア一人で旅に行かせたわよねぇ。あたしてっきりユーリは振られたんだって思って母さんと話してたんだけど」
「ちょっと、私達の関係を勝手にそういうものにしないで。ただの腐れ縁、悪友みたいなもんじゃない」
 身体を反転させて、腹ばいになって枕に顎を押し付ける。
 彼との関係をそんなふうに見られるなんて心外だ。不愉快と言ってもいい。あんな馬鹿とそういう関係になるなんて、天地がひっくり返ってもありえない。……それくらい反論したいところだったが、言ったところで彼女は聞きはしないだろう。
「……ありえないわよ」
「えー、どうしてよぉ。だってねぇ、あの後ユーリ、酒場で知り合った女と付き合ったりしてたのよぉ」
「は?」
 そんなこと初耳だ。枕から顔を上げてマーサのいる方へ顔を向ける。
 ユーリが色恋沙汰に嵌るなんて、想像もできなかった。
「なによそれ。どんな相手なの?」
「うふふ、気になるのねぇ」
「興味があるだけよ!」
「はいはい。でもねぇ、数週間で別れちゃったのよねぇ」
「うわ」
「その後も、二人くらいと付き合ったらしいけど、やっぱり長続きしなかったんだってぇ」
「……そうだったんだ。とんだ軟派男ね」
 開いた口が塞がらない。
「セシリアに振られて、騎士団でも上手くいかなかったから自棄になってたんじゃないかってあたし達は噂してたんだけど」
「だから振ってない……つーか、自棄になって女の子をとっかえひっかえするなんて最低じゃない」
「とっかえひっかえはしてないよー! 彼、優しいし」
「数週間で別れたんでしょ?」
「全部、振られたらしいよ」
「うわ、駄目男!」
 どちらにしろ誇れるものでもない。話を聞いただけだと、駄目男の典型にさえ見えてくる。デリカシーもないから、おおかた顔で引っ掛けた女の子を幻滅させるようなことをしたのだろう。嫌悪感が湧き上がってくる。そんなことをする人だとは、思わなかった。
「……やだ、最低」
「可愛いじゃなーい」
「何が!?」
「ユーリって世話好きだからねぇ。その上あの顔でしょ? もてるのよねぇ」
「……そうね」
 苛々していたせいか、自分でも驚くくらい低い声が出た。
 確かに彼は女性に好かれるタイプだ。フレンと二人、どちらが好きかなんて女の子達が盛んに話題にしていたことも知っている。その頃は特になんとも思わなかったけれど、今彼が女性の気を引くという事実がなんだか気に食わなかった。最低男。
 今までは女性に感心がある素振なんて見せなかったのに。
「でも、フレンもユーリも硬派気取ってたじゃない」
「フレンは、まあ、そうね」
「ユーリもよ。振られたっていう子たくさんいるんだから」
「……そう」
「それがああなるんだから、相当参ってたのかしら、なんて思うわよねぇ」
「どうかしらね。単に成長したっていうだけじゃないの」
 彼ももうそういう年齢になったのだ。
 別段不思議なことじゃない。そうは思うけれど、不快感は拭えなかった。心の中でどうして、という声がした。それはなんに対する疑問なのか。
 どうして。どうして。
 自分の中にはその問いに対する答えはなかった。ただ問いだけが繰り返し響いて、それを黙らせる返答がないことに腹が立つ。
「で、セシリアの方はどうなの?」
「もう、マーサはもうちょっと違うことに感心を持ってよ!」
「だって気になるじゃないー!」
 セシリアが今ここにいるのはマーサの恋愛で起きた問題のためだというのに、一向に反省した様子がない。悪意はないのだろう。
 マーサの部屋から忍び笑いがしなくなったのは、夜も更けたころだった。


 ***

 キイ、と蝶番が軋む音で目を覚ました。開かれたドアの隙間から、早朝の涼やかな風が吹き込んでくる。
「ワン」
「……ラピード、早いな。おはよ」
 軽い足取りで部屋に入ってきたラピードに挨拶をして、一度目を閉じるとよし、と気合を入れて一息に起き上がった。
 服を着替えて階下に向かう。外に設えられた水道の蛇口を捻って冷水で顔を洗った。肌がピリッとして、寝ぼけていた頭が冴える。
「ふう」
「おやユーリ。今朝は早いじゃないか」
「ああ、女将。ちょっと出掛けるから今日は手伝えないぜ」
「なんだい、近頃はずっと出掛けてるじゃないか。セシリアも友達のところだろう? ああ、なんだかマーサが困ってるって言ってたねぇ、その手伝いかい」
「いーや、別件」
 持ってきたタオルで顔を拭うと肩に掛けて、宿屋のドアを開ける。
 背中を女将の声が追いかけてきた。
「目玉焼きが置いてあるよ」
「ありがとさん、いただくよ」
 パン一切れと目玉焼きで朝食を済ませると、ユーリは下町へ降りた。足元にはラピードもいた。
「さーてと。今日は見つかるかね」
「クゥン」
「……なんだよ。行くぞ」
 何かを言いたげなラピードを無視して歩き出す。昨日の時点でだいたい情報は集め終わったから、後は一つ一つ当たっていくだけだ。大股で歩くユーリをラピードはまだ見上げている。
 ユーリはその視線に気づいて、もう一度なんだよ、と言うように見るとラピードは呆れたように目を逸らした。表情豊かな犬である。
「あー、ったく。どうせ俺は意地っ張りだよ」
「ワフ」
「同意とばかりに勢いよく鳴くな」
「フン」
 鼻を鳴らされてしまった。
 先に見つけさえすれば結果オーライだろ、と呟いたのは誰に対する言い訳だったか。


* * *


 翌朝、セシリアは買い物をするというマーサに付き合って商店街を歩いていた。この辺りは下町の住人が集まるから、例の男達とも出会う可能性が高いと危惧したのだが、友人と買い物ができると浮かれているマーサは大丈夫大丈夫、と気楽なものだ。
「ほら、この生地似合うわよ。これでワンピース作るわ」
「いいわよ。マーサが作るとレースたっぷりになるし」
「可愛いじゃなーい。できあがったら着てね」
「えー」
 胃に脂っこい何かが沈殿しているような不愉快さが朝起きてから治らない。バタートーストのせいではなさそうだ。眠い目を瞬いて、通りのあちらこちらに気を配る。昼のこの時間は人通りが特に多い。あまりきょろきょろしているとマーサとはぐれてしまいそうだった。
 ふと、向こうからこちらへ歩いてくる女性に目を奪われた。艶やかな印象の化粧をしていた。腰を振るような歩き方がいかにも男の目を引く。……付き合ったというのは、こういう女性だろうか。
「セシリアー」
「えっ」
 はっとして視線をマーサの方へ引き戻し、人込みに流されそうになっていることに気づいて掻き分けるようにして彼女の元に走った。
「やあだ、セシリア。はぐれないでよー」
「ごめん。今日は特に人が多いね」
「んー、そう?」
 マーサは首を傾げながらセシリアの右手を握り、今度はあっち行きましょ、と人の波へ入っていった。


* * *


「だからさぁ。今金ないって言ってんの」
「金がないならなんでサンドイッチ頼んだのさ! 初めから食い逃げする気だったんだろ!」
「おい、人をケチなコソ泥と一緒にすんじゃねぇよ」
 三つ目の心当たりへ向かった矢先にそんな遣り取りが耳に飛び込んできた。店の出口に、仁王立ちしている少女の後姿にユーリは声を掛ける。
「よお、シーラ。繁盛してっか」
「ユーリ!」
 シーラが驚いて背後を振り返った隙を狙って、栗毛の男が店内から飛び出した。出口を塞いでいたシーラは脇に突き飛ばされる。
 栗毛の男はシーラを気遣う素振もみせず、足早に立ち去ろうとしたところ目の前に立ちはだかった黒髪の少年を見下ろした。栗毛の男の後ろにはまだ数人の男がいた。仲間を従えて、男はぞんざいに言った。
「邪魔なんだけど」
「あんた、カールっていう人?」
「は? お前は……ユーリか」
「あれ、なんで知ってんだ?」
「はん、あれだけ暴れてりゃ聞きたくなくても耳に入ってくるさ。ずいぶん好き勝手してるらしいじゃねぇか」
「あんたに比べりゃ、大人しいもんだぜ」
「そう思ってるなら相応の態度を取れよ」
 カールは背筋を逸らしてユーリを見下すようにした。ユーリは彼の意図がまるでわからないような薄ら笑いを浮かべている。シーラは騎士を呼びに行こうかどうしようか、二人を見比べて迷っていた。
 周囲には騒ぎが起きてると野次馬が集まり始めていたが、止めようとする人間は居ない。
 吊り上げられていたカールの方眉が、痺れを切らしたようにぴくっと動く。
「そういう態度が生意気なんだよ!」
 どっとざわめきが上がった。蹴り飛ばされて床に転がったユーリに手を差し伸べるものは誰もいない。
 シーラは溜まらずにユーリに駆け寄った。
「大丈夫かいっ……!」
「シーラ」
 ユーリは彼女にだけ聞こえるように声を絞った。
「先に手を出したのはどっちか、ばっちり見たな?」
「え? うん」
「じゃ、証言よろしく」
 ユーリはぱっと反動を着けて立ち上がると、笑みを浮かべたままカールを見据えた。まるでダメージを受けていないように見える。
「まったく目障りな奴だ。一度その鼻っ柱をぶん殴ってやろうと思ってたんだよ!」
 カールは凶悪な笑みを浮かべてそう言い放つと、重い拳をユーリに放った。それをユーリはぎりぎりで躱す。
 喧嘩の始まりだ。わっ、と囃す声が上がった。



* * *


「マーサ、そろそろ決めてよ」
「だってぇ、これすっごく可愛いんだもん。でもなぁ、高いもんなぁ」
 露店に並べられたアクセサリーの一つの前にマーサがしゃがみこんでから、かれこれ20分は経っていた。隣の雑貨店や通りを行く人を眺めて待っていたが、そろそろ草臥れてきたので何度目かの催促をしたが、マーサはまだ迷いを断ち切れないらしい。
「ほら、もう行くわよ」
「えー、もう少し……」
「だーめ!」
 セシリアは強硬手段に出ることにした。マーサの手を掴み、ぐいと引っ張り上げて無理矢理立たせる。マーサは抵抗するように横へと逃げ、セシリアの後ろ側に回り込むように反転し、誰かにぶつかった。
「あ」
「ああ?」
 やってしまった。
 セシリアはぶつかった相手を一目見てそう悟った。目付きの悪い、いかにも柄の悪そうな男だった。しかも五人もいる。彼に背中からぶつかったマーサはまだ事態を把握しておらず、のんびりとごめんなさぁいと言いながら振り返った。
「おい、なんだそのふざけた謝罪は」
「え? ごめんなさいー」
「下町の貧乏娘は謝り方も知らねぇみてえだな」
「本当にごめんなさい。私達が不注意でした」
 セシリアは素早くマーサを引き寄せて背後に下がらせ、殊勝に頭を下げる。これで済むなら万々歳だが、生憎そうはいかないようだった。
「不注意でしたじゃすまねぇだろ。人込みで遊んどいてそりゃないだろう姉ちゃん」
「おのれらどれだけ危ないことしとったかわかってねえだろ」
「そっちの姉ちゃんは腰に危ないモン下げてるじゃねぇか」
 万が一のために携えていた剣に目を付けられて、セシリアは身構える。
「なによぅ、ちょっとぶつかっただけじゃないー。そんなにねちねち文句言わないでよ」
「マーサ!」
「ああん? 反省してないらしいなコラ」
 男達の目の色が変わってしまった。これはもう穏便に済ませることは無理そうだ。セシリアは早々に見切りを付けると、下手に出ていた態度をあっさり捨てた。
「まったくだわ。こんなに大人数で、そっちこそ人通りを遮断してるじゃない」
 気がつけばセシリアたちの周りには遠巻きに人だかりができていた。男達の醸す空気に触れないよう、だが好奇心を満たそうと、通行人が足を止めていく。
「態度がデカイなァ姉ちゃん。注意するだけで勘弁してやろうと思っていたが、どうやら一つお灸を据えてやった方が良さそうだなァ」
「やるんならさっさとしましょう。私早く帰りたいの」
「ほう! その腰のモンは飾りじゃねぇのか?」
「活きがいいじゃねぇか」
 先頭の、リーダー格の男がすらりと剣を抜く。幅広の刀身が反り返って光を反射した。遠巻きに囲んでいた住民達がはっと息を飲む。
「わあ! セシリア、やっちゃえー」
「マーサ、離れてて」
 セシリアも剣を抜いた。子供だからと侮られることにはいい加減慣れたが腹が立つことに変わりはない。
 見たところ、でかい図体と強面の顔が相手に与える威圧感に頼っているだけの印象だ。剣の腕前はたいしたことはない。
「ふんっ」男は余裕を見せながら大刀を振り上げ、力いっぱいセシリアに向かって振り下ろした。刀が振り切られる前に叩かれた手首は柄を取り落とし、大刀は吹っ飛んで石畳の上を転がった。
 男の咽喉下には、冷たい切っ先が突きつけられている。
「飾りかどうか、その身体に教えてあげようか?」
 わあっ、と歓声が上がった。反対に、男の脂ぎった額が赤く染まり、血管が浮き上がる。セシリアが身を引こうとしたときには一瞬遅く、背後に控えていた男達が一斉にセシリアを取り囲んだ。
「あー! 卑怯じゃない!」
 マーサの声に混じって何人かがブーイングを飛ばす。だがこれは競技ではない。セシリアは掴まれそうになった腕をぎりぎり躱して剣を振り回した。
 なんとか男達を引き離したが、四方を囲まれてしまった。吹き飛ばされた剣を拾って、リーダーが獲物を追い詰めた魔物のようににやりと笑った。
「く……」
 前方に集中すればたちまち背後から切られる。セシリアは相手を牽制しながら、包囲を抜ける術を考えた。
前の相手の注意を集め、残りの相手はフレンとユーリが……今までの習慣か、三人で実行する案ばかりが浮かんでは消えた。今は一人なのに。
 フレンには一人で大丈夫だと言った。実際、これくらいならどうにかなる。機敏さなら向こうよりこちらに分があった。
 セシリアは周囲の間合いを計ると、声を張り上げてリーダーに切りかかった。
 峰で受け止められそうになった剣を滑らせ、左右から襲ってくる刃を左に身を捻って躱す。回り様リーダーの腹に肘を入れ、両側から切り込んできた剣を弾き上げて二人の腹に回し蹴りを放った。
 よろめいた二人の後ろから、さらに二人が迫ってくる。攻撃が浅かったらしく、リーダーが剣を握りなおしたのを気配で察した。
 三方からの攻撃。
 一つは、防ぎきれない――。

 一陣の、風が吹いた。
 それは黒い旋風だった。風はセシリアの後ろから吹き抜け、彼女の前に背を向けて立ち止まった。

 どさり、と三つ重たい音がして、セシリアは自分を取り囲んでいた殺気が消えたことを知る。
 黒い髪が揺れた。
 セシリアの唇が動く。風は振り向いて、子供の頃と変わらない、けれどどこか大人びた笑みを浮かべた。


* * *


「一日に二箇所で喧嘩なんて、まったく忙しいなぁ、あんたらって」
「ねぇ、ほんとよねぇ。さすが下町のお騒がせっ子たちよねぇ」
 マーサはシーラが運んできたサイダーを飲みながらおっとりと言った。野次馬の一人のつもりらしい友人にセシリアはさすがに呆れた。
「私は一箇所でしかしてないわよ」
「普通はどこでもしないわよぉ」
「……マーサ、自分が喧嘩吹っかけたこと忘れてるわね」
「えー? あたしそんなことしないわ」
 マーサは真面目にそう答えた。
 シーラは不本意そうな顔をして、ユーリに紙片を手渡した。ユーリはそれを開く前になんだよ、と訊ねる。
「弁償してほしいもののリストだってさ。結構暴れただろ」
「あー。悪い」
 店内の入り口付近のテーブル一つ、そこに乗っていたグラス四つ、皿八枚。それから喧嘩に乗じて食い逃げした客二組の支払いまで書かれていた。
「ごめんよ。あんたは悪くないって言ったんだけど、店長聞いてくれなくて」
「どうせ向こうは弁償しないだろうしな。騎士も当てになんねえし」
「この金額文働いて欲しいって。たぶん、また騒ぎが起きたらって怖がってる部分もあるんだと思うよ。あたしも、あんたがいてくれたら心強いし」
「わかったよ。暇だし、皿洗いでもさせてもらうさ」
「暇って、先約がどうとか言ってなかった?」
 セシリアが口を挟むと、ユーリはもう終ったよ、と左手をひらひらさせた。そしてマーサに目を移した。
「カールがあんたのこと、恋しがってたぜ。会いに行ってやれば?」
「え? カールに会ったの?」
「うちで食い逃げしようとした奴さ」
 シーラがそう教えると、マーサは椅子からひっくり返らんばかりに身を逸らしてえーっと叫んだ。しかし声が間延びしているからそれほど驚いているように見えない。
「どういうことよ? カールって、マーサに振られた男でしょ」
「結構な色男だったぜ? まあ、ちょいと歪んじまったかもしれねえが」
「その方が見れる顔になるってもんでしょお。あの人、ユーリが懲らしめてくれたのね。騎士団に捕まってよかったぁ」
「…………」
 きゃらきゃらと笑いながらマーサはそんなことを言ってのけた。セシリアは言葉を失ってなんだか嬉しそうな友人を眺めたが、何も聞かなかったことにしてユーリに顔を向けた。
「もしかして、カールのこと知ってたの?」
「偶然だよ偶然。散歩がてら歩いてたらちょうど食い逃げしようとしてるところに出くわしちまってな」
「ユーリにはまた助けられたよ」
 なんてことなさそうに言うユーリに、シーラは感謝に耐えない様子でそう言った。納得いかない顔をしているセシリアに、ユーリは言葉を続ける。
「悪かったな、お前の仕事取っちまって」
「……別に、構わないわよ。それよりシーラ、私もここで働くわ」
「え? あたしは嬉しいけど……どうしてだい?」
 ユーリも少し目を丸くしてセシリアを見た。マーサはそしたら忙しくなっちゃうじゃない、と不満げだ。
「不本意だけど、こいつのお陰で仕事が早く終ったもの。だから暇だし」
「ここで実際暴れたのは俺だぜ? 請求が来てるのも俺」
「本当に払わなきゃいけないのはそのカールとか言う男でしょ。カールを懲らしめるのは私だったはずなんだから、請求くらい私にも半分回しなさいよ」
「なんだそれ。まあ、二人でやりゃすぐ済むからいいけどな」
 そんな言い合いをする二人をシーラはしばらく眺めていたが、ふいに閃いたように手を打つと、こう言った。
「そうだよ、初めからそのつもりだったんじゃないか、ユーリ」
「え?」
 三人は一斉にシーラに注目した。シーラは歯がゆそうに舌を縺れさせながら続けた。
「カールだよ! あんた、あいつにカールか? って聞いてたじゃないか。もともとあいつが狙いだったんだろ?」
「な、何の話だよ」
「わざわざ挑発して向こうから手を出すように仕向けてたしな。あれって、騎士団にあいつを捕まえさせる口実を作るためだろ?」
「いや、わけわかんねぇって」
「そっかあ!」
 少し口元を引き攣らせながらしらばっくれるユーリだったが、シーラの話を聞いて今度はマーサが嬉しそうに声を上げた。
「セシリアの代わりに、カールのこと捕まえてくれたのね! やっぱりセシリアのこと心配してたんだぁ。フレンのお陰かしら。ユーリはやっぱり優しいわね!」
「だっ、だからなんでそうなるんだって!」
「なにそれ!」
 信じられない、とばかりにセシリアはユーリを睨んだ。ユーリは思わず肩を揺らしてその視線を受け止める。
「あの時はあんなこと言っときながら、影でこそこそ動いてたっていうの!? そんなに私が頼りないわけ!」
「セシリア、だから偶然だって」
「馬鹿にしてるわ!」
「セシリア、落ち着いてよう」
 また騒ぎか、と店長がこちらを睨んでいるから三人は必死でセシリアを宥めた。
「ユーリだって、あんたを思ってそうしたんだろ? 想われてるじゃないか、セシリア」
 逆効果だった。シーラとしては今思いつく限り一番の、女心をくすぐる一言だったのだが。
「想われてる? 冗談じゃないわ!」
 頬を真っ赤にして椅子が倒れるのも構わず立ち上がる。
 持っていたカップをがん、とテーブルに叩きつけると中身が派手に飛び散った。
「助けなんていらないわよ、こんなだらしない男なんかの!」
 そう言い捨てるや、セシリアは足早に店を出て行ってしまった。
「セシリア!」シーラは出口まで追いかけたが、怒りに塗れた彼女の背中に尻込みしてその場に立ち尽くすしかなかった。代わりに、外で待っていたラピードが彼女の後を追うように駆け出したのを見送った。
「ど、どうしたっていうのよセシリア〜」
 涙を目に浮かべながらマーサはおろおろと嘆いた。とぼとぼとシーラは戻ってきて、物言いたげにユーリを見つめた。
 ユーリはセシリアを引きとめようと立ち上がった格好で固まっており、ふと目を床に落とすと倒した椅子を引き上げて投げ出すように腰を下ろした。
「……ユーリ」
「……ん」
「……なんか、……悪かったよ」
「……いや」
 ユーリは力なく首を振ると、右手で顔を覆ってテーブルに肘を突き、深々と溜息を吐いた。
 シーラとマーサは弱りきった顔をお互いに見合わせた。
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