02: It is the always same

「ユーリ・ローウェルゥー!」
 追いかけてくる声を巧みに交わしながら、白い煉瓦に高らかに靴音を響かせる。角を曲がると見せかけて踵を踏ん張ると白い塀に飛び乗り、細いその上を速度を落とさず駆け抜けた。
 子供の頃から通っている『近道』だから足を踏み外すなんて間抜けはしない。もっとも、近頃は使わずにすんでいたのだが。
「むっ、こっちか!」
 追いかける方もいい加減逃走者の常用する経路を把握しようというものである。一瞬遅れながらもフェイクを見抜き、先回りしようと向きを変える。
「今日こそは逃がさんぞ、ユーリ・ローウェル!」
「おーい、ルブラン!」
 ふいに呼び止められて、根が実直な彼は半ば反射的に足を止めた。
 通路の真ん中に足を開いて立っていた彼女は、にっこりと笑った。
「ユーリ・ローウェルがどうしたの?」

 *

 アトリアの裏。この下町でアトリアといえば質屋アトリアのことだ。とにかく少女の脳裏に咄嗟に浮かんだのはそれである。
 下町の中でも少々治安の悪いこの場所が本当に指定に沿っているか不安を抱きながら、少女は薄暗い通りを足早に、神経質に辺りを振り返りながら進んだ。
「シーラ!」
 少女は名前を呼ばれて一瞬ぎょっとしたが、相手が誰であるかを知るとすぐにほっとした表情になった。
「ほら、これでいいんだろ」
「ああ、でも、騎士は……」
 赤い宝石の嵌められたロケットを押し付けられて、少女はそれを受け取ると素早く懐にしまった。それでもまだ気を抜けないようで、今すぐにも逃げたがって踏み鳴らしている足に、ユーリは笑った。
「ちょっと遊んでればそのうち飽きるさ」
 前触れも無く後ろから肩を叩かれてシーラは臆面もなく悲鳴を上げた。ユーリは油断したか、と身構えたが、シーラの背後から覗いた顔に、ぽかんと口を開けた。
「――神妙にお縄に着きなさい、ユーリ・ローウェル」
 少し大人びた幼馴染は、そう言って記憶と寸分違わぬ得意げな笑みを浮かべてみせた。
「……セシリア!? お前、なんでここに」
「それはこっちの台詞よ! 一体これはどういうことなの?」
 悲鳴を上げたときのまま肩を怒らせていたシーラは肩に手を置いたのが騎士でなかったと知り胸を撫で下ろしたが、遠くから呼ばう声に飛び上がって、口論を始めた二人を急かした。
「やばいよ! こっちに来ちまう! どうするんだい!?」
「どうするもこうするも、どうして騎士が騎士に追われるのか聞きたいものだわ」
「ちょっと今は暇がないんだな、これが……」
 ずいっと迫ったセシリアに、ユーリは肩を竦めると、
「セシリア! シーラは任せた!」
「あっ、おい!」
 そう叫ぶや身を翻した。
 置いて行かれたシーラは焦った。おそるおそるセシリアを振り返ると、小さくなっていくユーリの背中を貫くような視線で睨んでいる。
 怒っているらしかった。
「とんだ馬鹿ね! 言い訳があるなら、後でじっくり聞かせてもらおうじゃないの」
 そう言ってじろ、と横目でシーラを睨む。シーラはひっと身体を竦めた。セシリアはすぐにふっと微笑んだ。
「じゃあ、逃げましょうか、シーラ」
「えっ」
 セシリアはシーラの手首を掴むとユーリとは反対方向に駆け出した。

 セシリアはハンクスと別れて、すぐに宿屋に向かった。その途中、知っている名前が大声で叫ばれているのが聞こえた。嫌な予感を覚えつつ進路を変えて、市民街まで登ってみた。そこではルブラン小隊長達が鬼気迫る形相で盗人を捕まえようと躍起になっていた。
 セシリアは追いかけられている盗人が、同名の別人であることを願った。ご丁寧にフルネームで呼びまわっていたが、それでも、そうであることを願わずにはいられなかった。
 しかし、騎士が貴族街で盗みを働いた盗人として『ユーリ・ローウェル』の名を呼んでいる事実は、困ったことにセシリアの心の中でなんの矛盾もなく受け入れられてしまったのだった。
 それでも騎士団に入った彼の名誉のために、きっと何か事情があるのだろうと、内心色々と言い訳を考えてやっていたが、伸ばし放題の長い髪を翻し、軽装で街中を縦横無尽に駆け回る幼馴染を見て、そこにかつて共に悪さをした悪友の面影を重ねて、ああ、これは駄目だ、と認識したセシリアだった。

 シーラの手を引き、彼女を気遣いながら、頭の中に地図を浮かべる。昔描いたそれは今も事細かに下町の入り組んだ路地を教えてくれた。
 そこには、三人が別れて逃げる場合の逃走経路もいくつか記されている。アトリアで別れた場合辿るべき道筋はどうだったかと思い起こしながら、セシリアは通り過ぎ掛けた細い路地に飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと」
 シーラは息を切らしながら、切羽詰った声を上げる。その暗い路地はどう見てもどん詰まりだ。
「行き止まりじゃない……!」
「そう?」
 セシリアは突然くるっとシーラを振り返ると、朗らかに笑った。
「道って、探せば案外どこにでも通じてるものよ?」
 少し気取った口調で言って、積まれた木箱を足がかりにセシリアは軽々と塀の向こうへ、つまり屋根の上まで駆け上がった。上から登れる? と訊ねられてシーラは慌てて木箱に攀じ登り屋根の上へ出た。
「あんた、いっつもこんなことしてるの?」
 屋根の上で気持ち良さそうに風を受けていたセシリアに、やっとの思いで屋根の上にあがったシーラは非常識だとでも言いたげな調子で言った。セシリアは目を丸くしてシーラを振り返ると、心外だというように肩を竦めた。
「まさか。五年ぶりくらいよ」
 シーラはこのとき、ようやくセシリアの表情をよく見る余裕を得て、いつの間にか彼女の機嫌が治っていることを、どころかむしろ楽しげでさえあることを知って、不可解に眉を顰めた。

 *

「取り逃がしたですって!?」
 ヒステリックに叫ぶ声を、ルブランは耳を塞ごうと思いつくことすらなく甘んじて受け止めた。
 貴族の女は腹立たしげにヒールを鳴らして地団駄を踏んだ。
「あなたたち、騎士でしょう!? ならば私達貴族の生活を守ってもらわねば困りますわ! あのようなコソ泥がうろついていては、安心して夜も眠れない」
「はっ、犯人を取り逃したことは我々の落ち度ではありますが、あの者が貴女様のお宅にまで忍び込むことはないかと存じます」
 真面目腐った顔で犯人を擁護するようなことを言ったルブランを、貴族の女はありえないものを見るような目つきで見上げた。
「まあ、あなた、あのコソ泥を庇うの? ……ははあ、あなた、平民の……道理で。溝臭い臭いは花の溢れる貴族街に身を置いても薄れるようなものではありませんのね」
「なっ!」
 ルブランを平民の出だと決め付けるや卑下し始めた女にいきり立った部下を止めたのはルブランではなく、彼の上司であった。
 一目で隊長とわかる鎧に身を包んだ彼はすっとルブランと女の間に入り込むと、穏やかに切り出した。
「マダム、そう眉間に皺を寄せると美しい肌が台無しになってしまいますよ」
「ま……。あなた、この方達の上司ですわね? 私のロケットを盗んだコソ泥を逃がした責任はあなたが取って下さるのかしら」
「お言葉ですが、あのロケットは……」
「お、お黙りなさい! 能無しは能無しらしく……!」
 彼にしては珍しく貴族の言葉に口を挟んだルブランに、女は目尻を吊り上げた。双方のやりとりを注意深く見守っていた隊長はふむ、と頷くと優雅な仕草で女に告げた。
「この男は曲がったことが大嫌いで、騎士団の中でも特に義に厚い男です。彼ならばたとえ地の果てまでも悪人を追いかけ、追い詰め、罪を償わせるでしょう。あなたに悪事を働いた者は、彼が必ず捕まえます」
「そうは言いますけれど、現に逃がしているではありませんか」
「その通りですね。有能な彼がどうして職務を遂行できなかったのか、その申し開きを聞いてみるのはどうでしょう? 寛大なマダムならば、彼の事情を考慮してくださると存じますが」
「……仕方ありませんわね」
 そこまで言われて、女はありありと嫌そうな顔をして早く、とルブランに促した。ルブランは隊長から許しを得たと感じ、盗人を追跡する前から抱いていた葛藤に決着を着けた。
「マダムのご厚意に感謝いたします。申し開きをさせていただきますと、あのロケットは、私の記憶に拠りますとある少女の持ち物とそっくりなのでございます」
「なっ、何を言い出すのです! あのロケットは私のっ」
 チークを塗った肌をはっきりとわかるほど赤くして唾を飛ばす女を隊長は手を翳すだけで制した。そしてルブランに告げる。
「それは興味深い話だ。さあ、続きを」

 *

 高地にある貴族街の影に隠れて、下町の中でも特に寂しいそこには、青い毛並みをした犬が一匹、鎮座していた。煙管を咥えているその犬を、セシリアは少しだけ不思議そうに見たが、すぐに一人の足音が近づいてくることに気づいて頭を上げた。
 ユーリの方も、二人が無事であることを知って唇の右端を引き、片手を挙げて悠々と歩いてきた。
「よお、迷子にはならなかったみてぇだな」
「そっちこそ、へまはしなかったみたいね」
 セシリアは腕を組んで斜めにユーリをねめつけてから、ふっと笑った。呼吸を整えていたシーラは、二人の間に進み出る。
「ユーリ、セシリア、世話掛けちまったね。悪かったよ」
 ユーリはこそばゆそうに手をひらひらさせて、それより、と逆に訊ねた。
「逃げてる途中でブツを落としたりしてねえかよ」
「しないさ! ほら、ここに」
 シーラは急いで懐からロケットを取り出すと、ボタンを押してぱちんと蓋を開けた。中を見るとあっ、と彼女は声を上げた。
「どうしたの?」
「……入ってた! 絶対捨てられたと思ったのに!」
 悪い方を想像していたセシリアは感激したように胸を押さえたシーラにほっとした。シーラは写真がしっかり収まっていることを注意深く確認すると、大事にまた蓋を閉じた。
「これ、ほんとに大事なものだったんだ。でももう戻ってこないだろうって諦めてたから、ほんと、なんて言えばいいか」
「そんなに大事なら、もう二度と手放すなよ」
 感極まっているシーラに、ユーリは少し格好をつけてそう言ってやった。シーラはもちろんだよ、と真面目に頷くと、ぱっとセシリアの手を握った。
「あんたにも礼を言うよ」
「いいよ、通りかかっただけだし」
「いい奴だね。あんたも彼も。ほんといい奴!」
 シーラはにこっと笑うと駆け出しかけて、思い出したように振り返った。
「今度うちの店に来てよ! 二人でさ!」
 サービスするから! と言い残すと、シーラは夕焼けに染まり始めた通りを軽やかに駆けて行った。
 セシリアとユーリは、満足そうに、その小さな背中を見送った。
 その姿が見えなくなって、たっぷり間を空けてから、セシリアは口を開いた。
「……で」
「ん?」
「今暇かな? お兄さん」
 ユーリはシーラを見送る格好のまま、固まった。
 騎士団を辞めて、騎士に追いかけられるようになった理由を、どう説明すれば彼女を呆れ返さずに済むだろう?
いっそあのままルブランに捕まって、牢屋に入っていた方がましだったかもしれない、なんて考えた自分を自嘲した。
prev * 3/72 * next