轟焦凍



 咄嗟に伸ばした手の先に一瞬見えた澄み渡る青空はどこまでも清々しく、私を突き放した。
 ガサっとビニールが押しつぶされ、中に入っていた紙くずやらなにやらが抗議するように音を立て、押し出された軽いものは飛び散り、重いものはさらに軽いものを追いやって、そこにできた空間に私はますます深く沈むことになったのだった。
 臭い。
 ゴミ捨て場に突っ込むなんて、ダサすぎる。
 身体のあちこちに何か尖ったものや硬いものが突き刺さってくるから痛みもある。
 しかしその痛みは身体の下半分だけはまぬかれていた。
「……大丈夫か」
 轟くんが、そこにいるから。
「……でええええああああごめんっ!!!」
「待て、動くな……っ」
 耳元に轟くんの吐息がかかり、私は飛び上がろうとした。
 しかし上手くいかない。どうやら服が引っかかっているみたいだ。
「ごめんっ! 今すぐどくから! 今すぐ!」
「待てって言ってんだろ」
 ばたばたする私の頭を轟くんが軽くはたいた。
 私がじたばたするほど、下敷きになっている轟くんがごみに埋もれていくことにようやく気づく。
「あああ、ごめん! わざとでは!」
「わかってる。それより落ち着いてくれ。まず、状況を見ろ」
「はい」
 私はまず、轟くんに全体重を預けているこの体勢を打開すべく、足がかり、手掛かりになる物を探る。下手に体重を掛けると、さきほどのように余計に沈む可能性があるから、慎重に。
 幸いというかなんというか、私と轟くんの身体の間には丸いゴムのようなものが挟まっていたので、密着はしていない。ただ、その空間は10センチしかないので吐息は直に耳に届くわけで。
「えっと、足場が不安定だから、轟くんの氷で一度凍らせてもらって、安定させてから起き上がるのがいいかな……?」
「俺もそれを考えてた。腕、動かすぞ」
「うん」
 轟くんが右腕を足元へ向けようとすると、私の袖も引っ張られた。
「ごめん、なんか引っかかってるみたい。気にせずやっちゃって」
「……悪い」
 轟くんが足元数十センチを凍らせて、踵で確かめる。
「よし。起き上がるぞ」
「えっ、うん、わっ!」
 轟くんの手が腰に回されたと驚く間もなく、轟くんは左腕と足の力で跳ね上がるようにして起き上がった。
「……っとと」
 そのまま後ろに倒れそうになったので、思わず轟くんのジャージを引っ張ってしまった。
 一刻も早く離れようと思ったのに、轟くんはそれを止めるように手に力を込めた。
 ぎゅっと抱きしめられる形になって、どきりとする。心臓の音が聞こえてしまいそうだ。この10センチの距離だから、ぎりぎり聞こえないかな……!?
「待てって行ってるだろ」
 また耳元で囁かれて足から力が抜けそうになる。
 甘さの欠片もない、いつもの淡々とした声だけど、どうして……? こ、このままの体勢でいたいって思ってるのは、私だけではなかったり……!?
「このままじゃ、離れられない」
 想像もしなかった発言に思考が吹っ飛んだ。
 えっ私も好き! なんて先走りすぎたことをうっかり叫ぶ前に、轟くんは見ろ、と冷静に私に促した。
「これ、峰田のヤツだ」
「へ? 峰田くん……?」
 言われて、私たちの胸の間に収まっている丸いゴム状のものを見る。濃い紫色は、ぶどうの一粒を思わせるけど、握りこぶしほども大きい。
 峰田くんの個性、もぎもぎだ。
 それが、私たちの体のあちこちにいくつもくっついていた。ついでに紙くずもくっついていた。
「……えっ、ええ!! これ峰田くんのやつじゃん!」
「……だから、そう言ってるだろ……」
「は、剥がせないやつじゃん!」
「そうなるな……」
 轟くんは心底疲れ切ったように呻いた。私は混乱の極地に達する。
「まさか一生このままなの!?」
「落ち着けって。体調がよければ一日。そう言ってただろ。最近の訓練の様子を見てると……だいたい五時間ってところじゃなかったか」
「ご、五時間……」
「恐らく、これは二限目でもいでたやつだろうな。いつもここにまとめて捨ててたのか……。蓋ぐらいしめとけよ……」
 二限目。今は昼食後の掃除の時間。
 まだ三時間は剥がれないってこと?
「ご、午後の授業どうしよう……!!!」
「とりあえず、俺とお前にひっついてるやつは服についてるから……」
 轟くんは考える。そして、言った。
「脱ぐか」
「他の方法を考えよう!!!」
「いや、脱ぐのは俺だが……」
「簡単には剥がれないから何かの個性で剥がすのが一番だよね! ええと剥がす、剥がす、剥がす……ええと!」
「芦戸に溶かしてもらうか?」
「それいい……あっやっぱりだめ!」
 三奈ちゃんの笑顔が脳内に広がる。
 きゃーちょっと二人とも何その体勢なになにー!? えーちょっと皆見てよー! という声まで聞こえてきた。
 だめだ。
「人に頼るのはやめよう! 自分たちで解決しなきゃ!」
「そう言ってる場合でもねえだろ……」
 轟くんは両手を持て余している。そうだ、一番おあつらえ向きの個性を持ってるじゃないか。
「轟くんの炎で燃やしたらいいよね?」
「そこまでの調整はできねえな。お前に火傷を負わせるかもしれねえ」
 轟くんはきっぱりと言った。
「それに、氷も同じくだ。凍らせたら砕けるかもしれねえが、それで傷でも作ったら詫びのしようがねえ」
「ちょっとくらい大丈夫だよ。もとはといえば私がこけたのが悪いんだし……」
「馬鹿言うな」
 轟くんはちょっと眉を寄せて、それでこの話はなしになった。
 でもそれじゃあ、どうしよう。こんな状態じゃ授業は受けられない。かといって、自然に剥がれるまで待っているわけにもいかない。
 轟くんは完全に巻き添えだし、私は優等生で通ってるっていうのに。
「しょうがねえ。先生に相談しよう。ここからなら、職員室も近い。そろそろ掃除も終わって各自教室に戻ってるだろうから、見つかる可能性も低いだろう」
 それで決まった。
 私たちは渡り廊下から校舎内に入り、職員室へ向かうルートを選んだ。幸い、足はくっついてないから、歩ける。でも、向かい合わせだから難しい。かに歩きがいいのかな。
「轟くん、横向きになって……」
「いや、俺が歩いた方が早い。ちょっとじっとしてろ」
「えっ!? いやでもそれはぁっ!」
 遠慮することもできず、私は軽々と抱きかかえられていた。そのまま轟くんは小走りで校舎に向かっていく。
 実行が早すぎてついていけません。
「しっ、誰か来た」
 轟くんは校舎の壁にぴたりと張り付き、耳を済ませた。
 一人分の足音だ。
 それ以上に轟くんの呼吸音と心臓の音がよく聞こえてきて私はどうすればいいかわかりません。
「後ろから、誰か来てるか」
「こっちは……だいじょうぶ」
 なんとか声がひっくり返らないよう抑えながら、轟くんとは反対の方向に目を配る。
「……よし、行ったな。行くぞ」
「うん」
「やぁ!」
 ぱっと立ち上がった轟くんの背後、つまり私の目の前に、オールマイトが現れた。
「ぎっやああああああ!」
「はっはっは、驚かせてすまない。なまえくんが怪我でもしたのかと思ったんだが」
「……見ての通りです」
 轟くんは私と彼のジャージをぴったりくっつけているものをオールマイトに見せた。
「ふむ? これは峰田くんのじゃないか! はっはっは、ずいぶんお熱いと思ったら、そういうことだったか!」
 恥ずかしすぎていますぐ退学になりたい。
「それで、どうするか相談しようと先生を探してたんです」
「おお。む……、じゃあ移動しよう。そこは今空いているな」
 オールマイトはすぐに話を飲み込んで、空き教室に私たちを誘導した。閉めたドアの外で、楽しげな会話が聞こえ、通り過ぎていった。
「まずは、なまえくんを下ろしてやってくれ」
 轟くんが私を下ろすと、私たちの間にオールマイトは手をいれ、できるだけ下がるようにジェスチャーした。私たちが一歩下がると、オールマイトは目にも留まらぬ速さでそれを指先で潰した。
 一瞬で、私たちを接着していたボールはすべて跡形もなく消え去った。
「……はや……」
「これで全部だな」
 オールマイトは最後に私の髪についていた紙くずをそっと払った。
「さあ、もうすぐ授業の時間だ! 私は先に行っているから、遅れるなよ!」
 そう言うなり、ドアを開けて颯爽と去っていった。
 私はジャージの皺を直し、髪を手ぐしで整える。
「ごめんね、轟くん。変な目に合わせちゃって」
「……いや」
 轟くんはなんだかじっと私を見ていた。
 そのまま目を逸らそうとしない。
 ふと、恥ずかしさがぶり返してきて、顔が真っ赤に染まる。
 さっきまであの口が、胸元が、あんなにも近くにあったなんて。
 あまりにも見られているので心拍数が上がって呼吸も困難になってくるんだけど、轟くんはどうしても目を逸らしてくれないから私も瞬きすらできなくなる。
「どっ、どろきくん、私まだごみついてるっ!?」
 それでも必死に声を絞り出すとひっくり返ってしまった。
 轟くんはちょっと笑った。
「ああ。じっとしてろ。とってやる」
 そして手を伸ばしてくるので、思わず身体を硬くする。
 こんなに離れてるけど、私がどれだけ緊張していて、心臓が今にも張り裂けんばかりに高鳴っているか、はっきりと聞こえてしまうんじゃないかって、思う。
 轟くんの顔が近づいてくる。
 吐息がうなじじゃなくて、鼻に掛かる。彼が目を閉じようとするので、私も釣られてぎゅっと瞑った。彼の手が私の頬に微かに触れ、唇に、湿った感触がした。
「……取れた」
 轟くんはひらりと右手を振る。細長い紙くずが宙を舞った。
「戻ろうぜ、教室」
 そしていつもどおり淡々と、ドアを開け、私を促す。
 私の心臓は張り裂けるのを通り越して、どこか次元を超えた彼方へ行ってしまったみたいだ。
 もう、何も聞こえない。
 ああ、そんな、何事もなかったような顔をして。
 私はもう、気づかなかった振りなんてできないよ。
 元通りなんて、そんなの無理。

 確実に変わってしまった私たちの空気を、明日からはいったい、どんな風に進めていけばいいのでしょうか。


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