もうすぐだ。
 もうすぐ。

 どうか、お願い。
 桜、咲かないで。


ロング・グッド・バイ


 なまえはラナンキュラスの葉を撫でる。
 この庭園には、たくさんの思い出が詰まっていた。
 特に、この一角に植えられた植物達は、一つ一つにドラマが秘められている。
「カサブランカ……」
「リンドウ……」
「オンシジューム……」
「キンギョソウ……」
 なまえは、一つ一つ名前を呼んでやる。この時期、どれも花は咲かせていない。
 どれも精市が好きだと言っていたのを聞いて、なまえが植えたものだ。花が咲くまで、精市は何度もここに足を運んだ。ここで花の世話をしていると、彼が声を掛けてくれた。いつしかそれが、なまえにとって何よりの楽しみになっていた。
 来年度から、彼はいなくなる。
 なまえは憂鬱に溜息を吐いた。
「幸村先輩……」
 すぐ隣りの校舎じゃない。そう友達は言う。
 けれど、この庭園がなまえと彼を繋ぐ唯一の場所だった。
 この場所から、彼は永遠に失われるのだ。
 彼らを慈しみ、微笑んでいた美しい人は、今までのように足を運んではくれなくなるのだ。
 それを思うとなまえは無性にやるせなかった。冬休みが明けて以来、もうずっと暗澹とした思いが渦巻いている。
 暇が増えたと言っては遊びに来てくれる回数が増えたことはとても嬉しかったが、その裏にある別れの予感は日を追う毎に存在感を増して、現在の喜びは未来の悲しみに押し潰されてしまった。
 だから気づかなかった。庭園の扉の、錆びた蝶番が軋んだ音を立てたことに。
 なまえが後ろを振り返ったときには、幸村はすぐそこにまで来ていた。
「なまえさん」
 蕾が綻んだような笑顔。いつも彼が庭園に足を踏み入れて、土の匂いを嗅いだときにする笑い方だ。この笑顔ももう見れなくなってしまうんだなと、また切なくなった。
 ふいになまえは口を開くタイミングを逃したことに気がついた。慌てて惚けていた分を取り戻そうとするけれど、脳裏に浮かんだいくつかの定型文は言葉にならなかった。
 そんななまえに気づかず、幸村はなまえの隣にしゃがみ込んで、花壇を見下ろした。
「高校の校舎に移ったらなかなか来れなくなるからね」
 幸村はただ優しく、植物たちに声を掛けた。そして、少し笑って付け足す。
「まあ、すぐ隣だけどね」
 同じ敷地内だし、と幸村はなまえの方を向いた。せっかく笑顔を向けてもらったのに――なまえはまだ憂顔だった。
 幸村はそんななまえに驚いて、どうしたんだい? と訊ねた。
「今日はやけに感傷に浸っているみたいだね」
「……だって」
 先輩が、いなくなってしまうんです。
 この庭園から、いなくなってしまうんです。
 いままで当たり前だったことがぜんぶぜんぶ、変わってしまうんです。
「……寂しいです」
 ぽつり、本音が零れた。
 ひとりでに頬が熱くなる。それでもなまえは目を逸らさずに、幸村を見つめ返していた。ふと、幸村は相好を崩した。
「何がそんなに寂しいんだい?」
「卒業式、だから」
 三月は別れの季節だから。
 幸村は目を瞬いた。卒業生のほとんどはそのまま同じ敷地内にある高等部へ上がる。だから、ことこの立海大付属についていえば三月が別れの季節、というのは大勢に当てはまる印象とはいえない。
 幸村もまた、テニス部で共に汗を流した仲間たちとそのまま高等部に上がるから、感傷なんてあるわけがなかった。
 幸村はしばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「近頃、気候が変わって寒さが和らいできたよね。セーターを脱いで、こたつを仕舞って。これから木々が芽吹き、桜が咲くんだと思うと心まで弾んでくるけど」
 そこで少しなまえを見て、続けた。
「季節の変わり目って言うのは、なんとなく寂しくなる時期なのかもしれないね」
 なまえは幸村の視線をただ受け止めていた。この人は、私の思いを汲もうとしてくれているのかな。どうして一人、まだ眠っている庭園で、黄昏ていたのか。
「そうかも……しれませんね」
 なまえが笑顔らしきものを返すと、幸村は目尻を下げた。
「でも、それだけじゃないです」
 寂しい理由は。
「四月からは、こうやって先輩と一緒に、いられないから」
 こんなこと、言っても仕方がないんだから言わないでおこうと思っていた。でも、先輩の笑顔を見ていたら、なんだかたまらなくなって。
「寂しい……です」
 二人の間に、沈黙が降りた。なまえはじっと土を見ていた。今幸村がどんな顔をしているのか、見たくなかった。
 ふいに、幸村が声を発する。
「なまえさん?」
 その声の響きは、いとも簡単になまえの顔を上げさせた。
「そんなこと、全然寂しくないと思うよ」
 続けられた言葉は、なまえの想像を遙かに超えたものだった。
「だって、ここ以外の場所でも会えばいいだけじゃないか」
 驚いた。社交辞令? だって、私とあなたはたんなる先輩と後輩、テニス部部長と園芸部部員。偶然、この庭園で顔を合わせるだけの。
「そうじゃないか? 例えば、今度君と植物園に行きたいなと俺は思っていたんだけれど」
「え?」
「他にも誘いたい場所があるから、携帯の番号を教えて欲しいな」
 たんなる会話の続きのように、至極自然な流れで、彼はそう言った。あまりにも自然すぎて、なまえは携帯を取り出そうとして鞄の中に入っていることを思い出す。
「あ、今、持ってなくて……」
「じゃあ、俺のアドレス渡しておくよ」
 はい、と幸村はポケットから折り畳まれた紙を取り出すと、なまえに渡した。
「ありがとうございます」
 なまえは反射的にお礼を言って、紙切れを受け取った。開いて、そこに数字が羅列されていることを確かめる。
「すぐに、メールします」
「うん。待ってるよ」
「あの、先輩」
「なんだい?」
「……卒業、おめでとうございます」
 少し照れくさくなって俯き加減に言うと、幸村は何を思ったのか手を伸ばして、なまえの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。こんな風に触れられるのは初めてで、なまえは驚いて逃げ出しそうになった。危うく踏みとどまって、されるがままになる。
「ふふ。君は何か拗ねてるようだったから、お祝いを言ってくれないんじゃないかって思ってさ」
「す、拗ねてないです!」
「そうだね、ちょっと寂しかっただけだね」
「う。……でも、お祝いしないなんて言ってません……」
「うん。ありがとう」
 幸村はようやくなまえの頭から手を離した。ぐしゃぐしゃにされた髪を思うとなんとも言えない気持ちになったが、温もりが遠ざかってしまって寒い気がした。
「……幸村先輩?」
「うん?」
「……なんでもないです」
 言いかけて止めたなまえに、幸村はなんだいと促したが、なまえは笑って誤魔化した。

 先輩、好きです。

 その言葉はまたいつか、相応しい日に。




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