02やり直す




 カフェにも居づらくなって、私はクロノくんを連れてうちへ帰ってきた。
 クロノくんはソファの上でひたすらスマホを叩いてる。私はすっかりリラックスした気分で、冷えたソーダをテーブルに並べて、クロノくんの手元を覗き込んだ。
「どこか良さそうなところ、あった?」
「えっと……今やってる映画だとこんなのがあるけど、何か観たい奴あるか……?」
「そうだなぁ……。クロノくんは、ある?」
「俺は、あんたが行きたいとこでいい」
「私が決めてもいいの?」
「ああ! どこにでも行くぜ!」
 クロノくんは至極真剣な顔で首肯いてくれる。ううん、と私は考えこんでしまう。いざ、どこへでも行っていいと言われると、困ってしまった。
 私が行きたいところ。
 クロノくんと、行きたいところ。
 定番のデートスポットといえば映画館、水族館、動物園? いまどきの子って、どんなところで遊ぶんだろう。カラオケとか、遊園地とか?
「……あ、それじゃあ!」
 妙案が浮かんで、思わず手を打つ。クロノくんはぴょん、と弾むように顔を上げた。
「海に行こう!」
「わかった! 海だな!」
 目的が定まった私たちはどの浜へ行くか頭をつき合わせて、行き先が決まればあとはスムーズだった。交通ルートを決め、日取りを決めて、やる気に満ち満ちてクロノくんは帰っていった。
 コップを片付けて、手帳に予定を書き込む。少し迷って、ハートマークで囲った。今の顔は、クロノくんに見せられないと思う。鏡を見なくてもわかるくらい、だらしなく弛んでる。



 海だ。初デートだ。
 声を上げないように堪えながら、何度目かのガッツポーズを決め、拳を握りしめる。
 初デート!
 ゆりかさんと、デートだ。
 何度も何度も、噛み締める。デートという言葉の響き。何百回言っても飽きない。すげーいい響きだ。
「ゆりかさん……デート……く、ふふっ」
 変な笑い声が出て、慌てて手で口を抑える。だめだ、興奮し過ぎで落ち着かねえ。今日はミクルさん、帰りが遅いからさっさと夕飯作ってしまおう。あ、だったらゆりかさんちで食ってくればよかった。馬鹿か俺。デートのスケジュールが決まって満足して飛び出してきちまった。今から……と思ったが、外はもう暗い。夜は一人で出歩いちゃだめだよ、とゆりかさんに言われてるから、戻ったら怒られる。
「でも、電話ならいいかな……」
 そう思ったら居ても立ってもいられず、何も考えずにスマホを耳に当てていた。
「もしもし?」
「ゆりかさん! 俺です、クロノです」
「どうしたの? 忘れ物した?」
「忘れ物っていうか……その、今日、一緒に夕飯食いたかったなって……」
 思っていることをそのまま伝えたら、ゆりかさんはかなり驚いた様子だった。
「そっ、そうだったの!? ごめんね。気付かなくて!」
「あっ、いえ、俺が飛び出しちまったんでっすんません!」
「ううん。じゃあ、また今度……寄って行ってね」
「はい……!」
 ゆりかさんの受話器越しの声はいつもより甘い気がして、他愛もないことを話していたら全然話題は尽きなかった。
「あ、お風呂湧いた」
「聞こえました」
 受話器の向こうから、給湯器のメロディが聞こえて来たことを伝えると、笑い声が返ってきた。
「それじゃあ……」
「またね」
「はい。えっと……」
「ちょっと早いけど、おやすみなさい」
「おやすみなさいゆりかさん!」
 切るタイミングがわからなくて、そのまま息を殺して受話器を耳に当てたまま、立ち竦む。しばらくゆりかさんもそのままだったけれど、やがてぷつ、と切電する音がして、通話が切れた。通話時間を見て、こんなに話してたのか、と壁に掛けた時計を見る。
 スマホを見ながらゆりかさんの声や、話してた内容を思い出して反芻し、ようやく重い腰を上げて、俺も風呂に入った。
 ゆりかさんも今風呂に入ってるんだ、と思うと、かっと頬が熱くなった。頭からシャワーを被ってぎゅっと目をつむり、雑念を振り払おうとする。
 ゆりかさんと付き合うようになって、ずいぶん経つんだなと、改めて思う。
 二人で会うことはあったけれど、デート、と決めて遊びに行くことは今までなかった。そんなことしなくても、ただゆりかさんに会えるだけで楽しかったから。でも、ゆりかさんはもしかしたら、違ったかもしれない。俺よりずっと大人なゆりかさんは、恋人同士がどんなことをするかもよくわかってて、俺に業を煮やしていたのかもしれない。
 ゆりかさんに言われてようやくそれに気がついた自分が情けない。かろうじて、ゆりかさんが言う前に俺からデートに誘うことはできたが、かっこ良く決まったとは言えない。
 デート当日はしっかりプランを立てて、ゆりかさんを楽しませよう。
 俺は改めて決意する。
 ……それに。
 唇に指を当てて、なぞる。あの日以来、触れていない、唇。あのときはただ、無理やりしてしまったことを拭い去りたくて、上書きしたくて、というかとにかくしたくて、キスしてしまったけれど、それからなんだか触れることに躊躇ってしまうようになった。
 今度はちゃんと、恋人らしく。
 お互い向き合って、交わしたい。
 海なら、夕暮れ時の砂浜がいい。
 遠くを飛ぶカモメ、波の音に耳を傾けるゆりかさんの肩に腕を回して……。
「……うわぁああ……」
 自分の想像に悶絶して顔を覆う。熱を覚まそうと冷水を被ったらくしゃみが出た。
「男になれ……、男になるんだ、新導クロノ!」
 ぐっと拳を握って、気合を入れる。
 よし。
 海デート、最高のものにしよう。
 行き帰りの電車の乗り換えをしっかり頭に叩き込んで、近くのカフェとかチェックして、持ち物もしっかり……そういえば海に行くんだから水着が必要だよな。
 ……水着?
 ふと、そこで俺はあることに気付く。
 海といえば、海水浴。海水浴といえば水着。ということは……つまり。
 俺は何度も冷水を被る必要があり、ようやく風呂を上がる頃にはくしゃみが止まらなくなっていた。

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