歯医者さんにて



「こんにちは! 新導くん」
 ここに座って待っててね、と言われ、ガチガチの身体をなんとか動かしてでっかい椅子に座る。歯科衛生士の人がライトを動かし、俺の顔を照らした。眩しさにぎゅっと眼を瞑る。首の周りに布を掛けられ、うがいをしてくださいとイソジンをコップに注がれ、俺はひとり置き去りにされた。
 うがいをしようとコップに手を掛ける。口にふくむと消毒液のいやな味がして、思わず飲み込みそうになった。噎せて吐き出し、遅れて奥歯の痛みがやってくる。
 ぐっと肩に力を込めて痛みをやり過ごし、なんとか残ったイソジンでむりやりうがいをすませる。口の中が気持ち悪くて、水で何度もゆすいだ。
「お待たせ〜」
 口に水を含んだ時、歯医者の先生が戻ってきた。慌てて水を口から出し、椅子に座り直す。
「椅子、動かすね」
 先生は俺が背中を落ち着ける前にボタンを押して椅子を上に上げ、背もたれを倒した。俺は滑り落ちないように必死になって、ほとんど平らになった椅子の上に仰向けに横たわった。先生がライトを動かし、俺の顔に当てる。眩しくて何も見えなくなる。
「今日は虫歯だっけ? どんな様子か見せてね。口開けて」
 言われるまま、口を開ける。マスクで顔を覆った先生が俺の口の中に小さな丸い、柄のついた鏡を突っ込んで、歯の裏側まで観察した。
「わあ、ひどいね。これは痛いでしょ。ずっと我慢してたの?」
「は、はぁ」
「馬鹿者」
 べちん、と額を叩かれた。口に鏡を入れられたままだからうまく声が出せなかった。
「ひっ、ひたくなひ、れす」
「痛くない? そっかぁ、新導くんは我慢強いのね」
「ひぃぇっ!?」
 先生は目元をにっこりさせて、細長いピンセットのようなもので虫歯をつついた。びりっとした痛みが神経を通して首筋から肩に掛けて走る。
「こんなに酷くなるまでほっておかないの! 今度からはすぐに来なさい。そうじゃなきゃ、入れ歯になるわよ」
「ひれは……!」
 自分の口から歯が全部抜け落ちるのを一瞬想像し、ぞわりと震えた。その間にも先生は器具を手に取り、歯科衛生士から先端に取り付ける部品を受け取っている。
 めちゃくちゃ、でかい。
 先生はスイッチを入れた。
 底から響くような振動音がびりびりと鳴り、鋭い痛みが呼び覚まされる。
 アレを、口の中に入れて、削るのか。歯を。
 麻酔とか、なんかないのか。
 直接歯を削るなんて正気じゃねえ!
 くそ、こんなところくるんじゃなかった! 虫歯の一つくらいで死ぬわけじゃねえんだ、今すぐ帰ろうそうしよう!
「はい、口を大きく開けてね」
「うあ、あ」
 歯科衛生士ががっしりと俺の顔を掴み、先生の方に向けさせた。先生はにこにこしながら俺の歯にドリルを近づける。やめろ、そんな先端が高速回転してるような物騒なもん、人の口に突っ込む道具じゃねえ!
「舌動かしたら危ないよ」
 先生は口を大きく開けさせるために、手袋を付けた指を俺の口に入れる。俺は舌をぐっと縮め、硬直させた。唾液が溢れる。歯科衛生士は吸引器をスタンバイした。
 ドリルが前歯の間を通りぬけ、咥内に侵入してくる。
 舌を左側にできるだけ寄せるが、ドリルの振動を感じて今にも飛び出して逃げていきそうだった。もしちょっとでもあのドリルに触れたら。想像しただけで気が遠くなりそうだ。
「うぐっ」
 ドリルがもう少しで歯に触れそうになったとき、思わず舌が動いて噎せた。先生は素早くドリルを引っ込める。
「そんなに怖がらないで。力を抜きましょうね」
「は、はひ」
 無理だ。目の前に凶器があるっていうのに、今まさしく俺の歯を蹂躙しようと牙を剥いているというのに。
 緊張するなってのが無理だ!
「先生、若いけど病院では一番上手いのよ。痛くしないから、安心してお姉さんに任せなさい」
「自分でそういうこと言うんですから、先生は」
 冗談めかして言う先生に、歯科衛生士は暢気に笑う。
 嘘だ。絶対嘘だ。あんなドリルで削られるんだ、痛いに決まってんだろ!
「はいはい、いつまで経っても終わらないよ」
「うあっ」
 先生の指が俺の舌を押さえつけて、さっとドリルを突っ込んできた。そして虫歯を削り始めた。
 キイン、ととても嫌な甲高い音が口の中から頭蓋骨に伝導してきて、俺の歯を石膏か何かのように躊躇なく削り始めた。痛い、と訴えるため両手を上げる。
 痛い、痛い痛い、何がなんだかわからないくらい痛い!
 椅子に縫い付けられてライトを当てられて、口の中をいいようにされるなんて、拷問だ。これなら痛みを我慢してる方がずっとマシだ。
 いつ終わるともしれない悪夢の中で、ライトの逆光の中さっきまでとは打って変わって真剣で冷静な先生の眼差しだけが眼に映る全てだった。



「歯磨きの仕方、教えてあげるわね」
 悪夢は終わり、奥歯に詰め物をされてほっと一息吐いていたところ、他の客のところから戻ってきた先生は歯ブラシを手にしていた。ようやく帰れると思ったのに、治療はまだ終わっていないらしい。
「まずは、普段どんなふうにやってるか見せてくれる?」
「はぁ……」
 正直、戦い疲れた俺の歯は、これ以上の刺激を望んでいなかったが仕方がない。口に歯ブラシを突っ込んでいつもどおり動かす。上に下に、小刻みに表面を磨き、歯と歯の間もしっかり動かす。右奥歯以外をやってみせたところで、先生はうん、と笑みを浮かべた。
「とっても上手に磨けてるわ。ただ、ちょっと力が強すぎるのと、磨き残しがあるようね」
 自分ではちゃんとつるつるに磨けているつもりだったが、足りなかったのか。まあ、虫歯になっちまったわけだから言い訳のしようがない。
「先生が正しいやり方教えるから、ちゃんと覚えてね」
「あ、はい」
 椅子が再び倒され、先生は俺の頭の側に移動する。先生の胸辺りの高さで椅子が固定され、先生の手が俺の頬に触れた。
「ほら、口を開けて」
 ぼへっとしてると、歯ブラシを唇の前まで持ってきた先生に促された。俺は大きく口を開ける。
「歯ブラシを当てる力はこれくらいね」
 先生は前歯に歯ブラシを当て、気持ちいいくらいの圧力で磨いてみせた。俺が磨くときより、ちょっとやさしいくらいの力だ。
「それから、磨き残しやすいところはここと、ここと」
 先生は左の指を口に入れて、歯を直接触ってきた。手袋越しの感触がへんな感じだ。
「一本一本、丁寧に、鏡を見ながら磨くといいわ」
「はぁ」
 返事をしたら、間抜けな声が出た。舌も唇も自由に動かないから仕方がない。かといって頷くわけにもいかない。とにかくちゃんと聞いていることを伝えようと、俺は先生の眼を覗きこんだ。先生は目元を和ませた。
「奥歯も、左側は虫歯にやられないように、念を入れてね」
 先生は労るようにそう言いながら左の上と下両方の奥歯を磨く。普段自分では磨いていなかった奥のほうまで歯ブラシを入れられて、歯茎を撫でるようなその動きにむずむずした。
 奥歯だから見難いのだろう、覗きこもうと先生は身を乗り出してくる。右頬に柔らかい感触があって、視界がちょっと狭まった。
「もう少し上を向いてくれる? そう、もうちょっと右」
 右を向くと、先生の白衣がほとんど触れるくらい側に合った。胸ポケットに付けられた名札の字はぼやけて読めない。最初に名乗ってた気がするけど、なんていう苗字だったか。
「一旦口をゆすごっか」
 気づけばずいぶん唾液が溜まってしまっていた。先生の手が一度俺から離れ、俺は冷たい水で口の中を洗う。ずいぶんすっきりした。右奥歯の辺りは、まだ感覚が鈍い。でもあの突き刺すような痛みはもうしない。
 頭が軽くなって、動くのが楽になった。
 俺は再び横たわり、先生に身を委ねる。
「右側もそっと磨くわね。痛かったら言って」
 歯ブラシが歯に触れた時緊張したが、もう痛みはこなかった。俺の安堵が先生にも伝わったのか、先生は微笑んで撫でるように歯を磨いた。
「あんなの、よく我慢出来たわね。偉いぞ、新導くん」
 そう言って先生はちょん、と俺の頭に触れ、歯磨き終わり! と俺を解放した。もう一度口を濯ぐと、先生手ずから首周りを覆っていた布を外してくれた。
「今日教えた通り、毎食後必ず磨くようにして、もう虫歯にやられないように、頑張ってね」
「そのつもりです。もうぜってーここには来ません!」
 力強く宣言すると、大きな声で笑われた。
「定期健診くらいには来なさいよ。ちゃんと磨けてるか、チェックしてあげるから」
「あ……はい」
 虫歯以外でも歯医者って来ていいのか。
「ドリルがないなら……」
「虫歯がなければ、ね」
「もう二度とヤツにやられたりしませんから!」
「よしよし。その意気だ」
 俺が椅子から降りると、先生は診療室のドアまで送ってくれた。
「それじゃあね、新導クロノくん。一ヶ月後、綺麗な歯で会いましょう」
「どーもありがとうございました。ゆりか先生。それじゃ」
 変な別れの挨拶だ。軽く手を振る先生の胸元に眼を走らせる。ゆりか先生、か。
 軽くなった身体で、俺は意気揚々と家に帰った。
 これでもう痛みに悩まされることはない。
 明日からは、俺らしいファイトができる!



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