バトルスピリッツ


海色に焦がれ



 時はゆったりと流れている。空に浮かぶ雲も、波も、波間に垂らした釣り糸も、ゆったりとたゆたう。
 ゆったりとした流れの中、リルの思考もゆるやかに間延びして、きらきらと春光を反射する水面に心地よく浮かんでいた。
「釣れたか」
 ひょいと背後から声を掛けられ、リルはまたたきをして我に返った。
「……姫様か」
 群青早雲の声音も動作も颯爽としていて、彼女の周りではきびきびと時間が動く。リルは彼女の顔を見上げ、さきほどまで何を考えていたのか思い出せない事に気がついた。
 さて、なかなか面白いことを考えていたような気がしたのだが。
「どうした?」
「ううん。考え事してたんだけど。姫様の顔見たら忘れちゃった」
「それは……すまないことをした」
「んー、忘れちゃう程度のことだから、大したことなかったんだよ」
 そのうち思い出すかもだし、とリルは手を振る。早雲はそんなリルに呆れたような顔をした。
「もう昼も過ぎたが、今日はいつからここにいるんだ」
「えっとねー、今朝は天気がよかったから、日の出前から」
「……から? ずっと?」
「風も全然吹かないし、持ってきたおにぎり食べて、昼近くからは海の色が太陽の光のせいかいつもと違うからずっと見てて」
「……つまり、昼食は食べていないわけだな?」
「えっと、うん。朝の分しか持ってこなかった」
 早雲は空のバケツを見て溜息を吐いた。
「もう気は済んだろう。ほら、行くぞ」
「あ、うん。すぐ片付けるから待っててね!」
 リルは腕を組んで仁王立ちしている早雲に急かされ、彼女として精一杯急いで支度を済ませると取り繕うように早雲の隣に並んだ。
「お待たせしました!」
 そのとき、思い出したようにリルの腹の虫が鳴いた。
「……あれ」
「よく空腹を忘れてまで呆けていられるな」
「えへへ」
「そんなに面白いか? 海」
「面白いかっていうと、どうなのかな。ただ、……見飽きないよね」
「……そうか」
 あまりに屈託なく笑うものだから、早雲にはそれ以上何も言えなくなる。
 じっと海を見つめるリルの背中は、まるで海と一体化してしまったかのような、動かない瞳が空を映し込んでそれ以外何も見えなくなり、彼女の世界からは締め出されてしまうのではないかと寂しさを抱かせる。
 だから早雲はゆったりとした波にリルが飲み込まれ、流されてしまわないように、速く動けと急き立てる。のんびりするなと尻を叩く。
 そうすればリルはいつも、こちら側にちゃんと帰ってくる。
「あ、思い出したよ」
「何を?」
 唐突にリルは明るい声で手を上げた。
「海を見ながら考えてたこと!」
 そして、早雲の肩にかかった髪の一房を、掬い上げる。
「今朝の海の色は、艶やかな姫様の髪の色とそっくりだった」
 波間が光を弾く様は、早雲の背中に波打つ長髪がきらきらと輝くのとよく似ていた。
「あんな色は初めて見たの。だからずっと見入ってしまった」
「……そ、そんなことか。忘れて当然のつまらんことを……」
 わざわざ思い出さなくても、と続けようとした早雲の声は自ずと小さくなり、口ごもってしまった。海の色と自分の髪を見比べられることが妙に気恥ずかしく思えた。
「たぶんあの色になるには、温度と湿度と風向きと、いろんな要素が関係してるだろうから、記録も付けたんだ」
 ほら、とリルはノートを広げる。彼女は毎日気象に関する記録をとっている。海を見る目は漁師さながらだ。天気の予想は外したことがない。しかしその特技は、なぜか趣味の魚釣りにはまったく反映されないのだが。
「この条件が満たされたら、きっとまた姫様色の海が見られるんだ」
 楽しみだな、とノートを胸に抱きしめるリルに早雲は口を開きかけたが、結局何も言えなかった。
「っ、そんなことで昼食を抜くな。皆が心配するだろうが」
 その色が見たいなら、わざわざ海になんか行かなくたって毎日見られるだろう。
 まさかそんなことは言えないので、早雲はわざとリルを叱る。リルは改める様子もなく、ごめんと口だけで謝った。
「いつも迎えに来てくれてありがと、姫様」
 そう言って、きびきびと前後に振っていた早雲の左手をぎゅっと握る。早雲は一瞬立ち止まってしまいそうになりながら、心を沈め、しょうがないからな、と彼女の手を握り返した。



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