風急天高く




 冷たい風が吹いていた。
 風に交じる湿っぽい匂いが、瓦礫に埋もれて色の抜け落ちた思い出を呼び覚ます。錆色と土気色の筆で荒く削り取られた景色を満たす大気は砂塵が混じり、肌に当たってはちり、とした痛みを与え、髪に絡みつくものもあれば眼の粘膜に紛れ込むものもあって、じわりと涙が浮かぶ。
 時計を見た。
 午後三時を過ぎている。早く戻らなければ、気ばかりが焦った。
 右も左も見覚えのない景色だった。
 どちらから来たのかももう思い出せない。
 周囲には人影がなかった。道を訪ねられる相手も、道案内をしてくれる立て看板も見当たらない。
 晶は溜息を吐いた。湿った吐息がたちまち風にさらわれて、ひび割れた空気に霧散する。
 晶は目をしばたかせ、辺りを見回すのをやめた。帰り道を探すのを諦めて、大きな岩の影に入って風が止むのを待つ。ぼんやりと風下を眺めていると、風圧のせいだろうか、鼓膜に圧迫感を覚えたと思うと、くぐもった耳鳴りがした。掌で耳を覆い、しゃがみ込む。
 従兄弟の未門家と家族ぐるみで遠出することになった。アウトドア派ではない晶だったが、牙王と花子とならどんなことも楽しめた。だから今日も、ハイキングに誘われて快諾した。
 のんびりと風景を楽しみながら自然の中を歩き、青空の下に広げたシートの上で昼食を摂り、来た時とは違うルートを通って帰る。それだけの、簡単なコースだった。
 昼食を摂った後、しばらく野原に座って休んでいたときだった。天候が見る間に悪くなり、からっと晴れていたはずの空は黄土色を帯びた雲に覆われ、野原を温めていた風はたちまち鋭さを増した。
 早めに切り上げよう、そう言って荷物を片付け始めた牙王の父、未門隆に皆賛成し、広げていたシートを畳んだ。
「晶、そっち持ってくれよ」
 牙王と協力して一番大きなシートを畳む。風があるためこれがなかなか難航した。それでもしばらくの格闘ののち、シートは牙王の手によってバッグにしまえる程度の大きさまで畳まれた。
「忘れ物はないかしら。花ちゃん、水筒は持った?」
「ちゃんとここにあるよ!」
 花子は涼実に首から下げた水筒を見せ、晶を振り返った。
「晶ねーちゃん、手繋いで歩こ……あっ!」
 そのとき風が吹いて、花子の帽子を攫った。晶はとっさに手を伸ばしたが、上へと煽られた帽子はするりと晶の指の間をすり抜けて、木々の林立した茂みの方へと飛ばされていった。
「待って!」
「晶ねーちゃん!」
「すぐ戻るから!」
 花子にそこで待っているように告げ、晶は帽子を追いかけて走り出した。帽子はさらに舞い上がり、木々の上を通り越していく。晶は茂みに入り込んだ。
 途端に周囲が暗くなる。枝葉が密集していてただでさえ薄い陽光のほとんどを遮ってしまっていた。気温も下がったようで、肌寒さに晶は身震いした。
 帽子は向こうに飛んでいったはず、と当たりをつけ、一歩踏み出す。背の低い木の細い枝が七分丈から覗く足首を引っ掻いた。
 花子の帽子の色は明るいピンクだ。薄暗い森の中でもきっと目立つ。晶は目を凝らした。しかしすぐに見つからない。風が思っていたよりも遠くまで飛ばしてしまったんだろうか。それとも木の枝に引っかからず、地面に落ちたのだろうか。晶はそろそろと茂みをかき分ける。
「晶! どこだー!」
 牙王くん。
 晶は外から名前を呼ばれて振り向いた。
 深入りする前に、牙王に探してもらったほうがいい。そう判断して、向きを変えたときだ。
 ぽん、と肩を叩かれた。
「おい、君」
 頭上から太く、威圧的な声がした。
 触れられた肌からぞわりと不愉快な痺れが全身を震えさせた。
「……っ!」
 ぐい、と乱暴に向きを変えさせられる。
 動悸が乱れ、息が上がった。
 見上げるような大男が、晶を捕まえていた。
 晶は声にならない悲鳴を上げて、その手を振り払った。
「あ、おい!?」
 怖い。
 怖い、怖い。
 追いかけてくる視線から逃れようと、晶は一目散に駆け出した。必死に足を動かし、大男の視界に入らないくらい遠い場所まで行くことだけを考え、走った。
 心臓が膨張する。触れられた肩がやけどしたようにじくじくと疼く。いますぐ石鹸で丹念に洗い落としたかった。汚い体臭が染み付いてしまう前に。
 恐怖で頭に熱が上り、無意識に涙が零れた。
 牙王くん、牙王くん。
 彼に会いたい。彼の笑顔を見て安心したい。
 けれど晶の名を呼ぶ牙王の声は聞こえない。どこにも牙王の姿が見えなかった。
 森が切れた。
 開けた視界に目が眩む。ふらりと崩れ落ちそうになった足を踏ん張って、牙王の姿を探した。
 見覚えのない場所だった。
 昼食を取ったあの野原ではない。草はほとんど生えておらず、地面はむき出しの荒野だった。
 間違えた。
 すぐにそれがわかり、晶はその場に立ち尽くした。
 来た道を戻れば済む。だがそれはできなかった。あの暗がりには大男が晶を探して徘徊している。事実はそうでないとしても、そういう恐怖が晶の心に根付いてしまった。
 森の側にいるとがさがさと揺れる木の葉の音ひとつひとつが大男の立てたものに聞こえ、晶は後退った。後退った分だけ、帰り道から遠ざかる。
 風はいよいよましてその勢力を強めていた。乾いた地面から砂埃が巻き上がり、晶の肌にちくちくとぶつかった。平坦な道を歩くコースだったため軽装だ。荷物の入ったリュックは置いてきてしまった。携帯もなにも晶は身につけていない。
 万事休すだった。
 疲労が一気に伸し掛かってきた。晶はその場にしゃがみ込む。冷たい時計のベルトが膝に当たった。この手首に付けられたお気に入りの時計だけが、晶の所持品だった。文字盤のガラスに砂が着き、曇る。
 はあ、と溜息を吐いた。

 じっとしていると、世界中から取り残されているような焦燥感が徐々に背中を這い上がって、全身をぞわぞわと戦かせた。皆帰ってしまったかもしれない。いや、そんなはずはない。いつまでも戻ってこない晶を案じて、探し回っているはずだ。
 両親も未門家も、どれほど心配しているだろう。迷惑を掛けていると痛切に感じて、晶は胸が苦しくなった。
 風に当たり続けていた身体は体温を奪われ、硬直していく。この場所にとどまり続けているのはよくない、と晶は立ち上がり、空を見上げ、雲の明るくなっている当たりを探した。あそこに太陽がある。晶は歩き出した。

 どれだけ歩いても野原は見えてこなかった。森から付かず離れず進むようにしていればぐるりと外周を回って元の場所に近づけるのではないかと思ったが、どの方角に進んでいるのかももはやよくわからない。
 ついに進む気力を失って、晶はその場に立ち止まった。
 錆色と土気色の筆で荒く削り取られた世界。
 ここの風は厭な気分を呼び覚ます。
 何もない土地。
 あそこには何も残らなかった。
 形あるものはすべて崩れ去っていた。
 うず高く積まれた瓦礫の中、一人あてもなく立ち尽くしていた。
 今のように。
 気が付けば側には誰もいなくて、助けを求めようにも声を上げたところでがらん堂の世界に吸い込まれて、声をすべて奪われてしまいそうだった。
 誰もいないなら声を奪われたところでなんの心配があるだろう。話し相手すらいないなら、喉は退化してしぼんで消えてしまうのかもしれない。
 助けを呼ぼうと思い立った時にはもう遅く、からからに乾いた喉はぺたんと張り付いて、声帯を震わせることはない。
「ぁ……」
 怖くなって、口を開く。音にはならず、掠れた音が風と間違えるほど微かに漏れた。晶は自分の喉に手を当てる。このままここに蹲って、誰にも見つけてもらえずにいたとしたら。
 足元の砂の塊が崩れ、さらさらとした砂の姿に戻り、地面に溶けてどんな形をしていたのかもわからなくなってしまった。
 晶の身体もからからに乾き、最期には砂になってしまう。
 ぞっとした。
 何かを求めるように立ち上がり、周囲を見渡す。
 捜索のヘリの音、牙王の、晶を呼ぶ声。
 なんでもいい、何か、何か。
「誰かっ……!」
 今度はさっきよりもましな声が出た。唾液を飲み込み、喉を潤してもう一度口を開く。
 一度始めたら止まらなくなって、晶は夢中で叫び続けた。
 助けてください、見つけてください。
 私はここにいます、砂粒に埋もれたりしないよう、この小さな存在を賭けて、叫ぶ。

 一段と大きな風が吹いた。
 砂が吹き飛ばされ、天空から吹き込む清浄な空気が晶を包み込んだ。
「晶さん……!」
 碧い光が晶の視界をいっぱいにした。
 黄土色の世界に潤いを齎した碧は、その足元に緑をよみがえらせるかのように見えた。
「龍炎寺、タスク……?」
 バディポリスの制服に身を包んだ少年の顔を呆然と見つめながら、晶は彼のあまりにも有名な名を口に出した。
「君に捜索願いが出されたって聞いて、飛び出してきたんだ。すぐに牙王くん……ご家族にも知らせるね」
 君が無事だと知ったら安心するよ、と彼は嬉しさに弾んだ声で、通信機に報せを告げた。晶は彼の後ろに佇む大きな緑のドラゴンに気づく。彼は風上に立ち、二人を砂塵から守ってくれていた。
「さあ、すぐに戻ろう」
「はい……」
 す、とタスクに手を差し伸べられ、晶は躊躇した。その顔に浮かんだ緊張感を見て、あ、そうか、とタスクはひとりごちた。
「ごめん……。牙王くんに聞いていたのに。君は触れられるのが苦手なんだったね」
「え……」
 晶は意外な気がして首を傾げた。牙王がタスクと知り合いなのは知っていたが、従妹である晶のことまで話すような仲だとは。
 いや、違和感の正体はそれだけではない。
 これは……なんだろう。
「心細かったろう。こんなところに、たった一人で……」
 タスクは晶を怯えさせないよう、距離を保ちつつも、晶が心配で仕方なかったのだと眉を下げ、仕草の端々から彼女を労ってやりたいという気遣いが感じられた。
「こんな辛い経験を、もう二度とさせるべきじゃないって思っていたのに」
 タスクはやり場のない思いを持て余し、拳を強く握りしめた。晶を見つめる瞳はあまりにも辛そうで、自分を責める色がありありと浮かび、本来の輝きを曇らせていた。彼をそんな表情にさせたのが自分であると思うと、晶の心もひどく痛む。
 どうしてこの人は、こんなにも親身になってくれるんだろう。人を救う仕事を生業としてる人間は、皆こんなにも優しいものなのだろうか。
「ジャック、彼女を頼む。晶さん、高所恐怖症だったりするかい?」
「いいえ」
 首を振ろうとしたら、貧血を起こして倒れそうになった。とっさに伸ばされた手が、晶の身体をしっかりと支えてくれた。きゅ、と晶は肩を竦める。その反応に気づいて、タスクは気まずそうに手を離そうとした。
「ごめんね。……立てるかい?」
「はい。あの……大丈夫です」
 晶は誤解されないよう、おずおずと、だが彼女にしてははっきりした声で、タスクに答えた。
「触られるのが苦手とか……気にしないでください。大丈夫、ですから……」
「え? でも」
 晶は頷いてみせた。自分を案じ、助けてくれた相手に、引け目を感じさせてしまうのは心苦しい。
 タスクは晶が気を使っているのではないかと疑ったが、そうではなかった。
「あなたは……怖くない、から」
 気がついたら、苦手になっていた。苦手、というには過剰すぎる反応で、クラスメイトたちから遠ざけられるほどに事態は深刻だった。だが、原因はわからず、触れられると無意識に逃げ出したくなり、涙が出る。これは晶自身の意思でコントロールできる範疇を超えていた。
 唯一平気なのは従兄の牙王だけだった。彼となら今まで通り笑い合えたし、ふざけて頭を小突かれたり、逸れないように手を繋いだりできた。
「それなら……僕が君を抱いても大丈夫かな」
 タスクは不安を滲ませ、もしダメだと言われたらすぐに引き下がれるよう譲歩をして、そう晶に訊ねた。
 晶は真っ赤になって俯いた。これは拒絶反応ではない。
 心臓がばくばくと鳴って、息が乱れ、身体中が熱くなる感覚、一見同じに見えるのに、全く違った。
 今のこれは、心地いい。
 晶は小さく頷いた。
 タスクの手がそっと伸ばされる。確認するように晶の指に触れた。晶はじっと待った。
 タスクの表情が、氷解した。
 泣きそうなくらいに歪み、唇を震わせて、熱を込めた視線で晶を見つめる。
 晶の身体はタスクの胸の中に優しく抱きとめられ、すぐに何も見えなくなった。
 彼の震え、上ずった声が耳元で囁いた。
「こんなに素敵な女の子になってるなんて……。よかった。元気な君にもう一度会えて、よかった」
 もう一度……。
 晶は甘く、柔らかな彼の声に陶酔でもするかのような心地で目を細め、彼のジャケットに頬をそっと寄せた。
 出会ったばかりの少年に抱かれ、これほど安心感を覚える日が来ることを、晶は予想もしなかった。牙王の側にいると安心するけれど、抱きしめられたことはない。それでも、今この時以上の安らぎを感じられる瞬間はきっともうないんだろうと思えた。
 いや、違う。一度だけ。
 一度だけあった。
 あの時も、世界は黄土色の油絵の具に荒く削られ、輪郭を崩壊させて頼りなかった。
 その風景に一点の、碧が。
 碧が、瑞々しく、麗しく、存在してはいなかっただろうか。
 タスクの腕に力が込められる。
 晶は目を閉じ、身を委ねた。



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