真夏の雪





 むかしむかし。
 織姫様と彦星様という、仲睦まじい夫婦がいました。
 ふたりはいつも一緒にいて、仕事もせずに遊んでいました。
 そんなふたりを見かねた天の神様は、ふたりにこう告げました。
 『毎日遊んでばかりで、だらしがない。するべきことをせず、遊び呆けているようなら、もうおまえたちを会わせるわけにはいかぬ』
 引き離されたふたりは悲しみのあまり、ふさぎこんでしまいました……。




 ――今度の七夕は日曜日なんだね。
 ――その日は僕も休みだから、会おうか。
 ――久しぶりの休日だ、ゆっくりしよう。

 そう言ったのに。
 嘘つき。

 ケータイの電源を切ってしまって、クッションの上に放り投げる。
 ぽっかりと開いてしまった休日の予定をどう埋めるか考える前に、当日ドタキャンされたことを少しぐらい憤慨してもバチは当たらないだろう。
 これから起きて、お気に入りの服に着替えて、髪を綺麗にセットして、大好きな人に会いに行こう。
 そう思って目を覚まし、ケータイを確認してみたら、メールが一件。
 今日予定が入ってしまったと、キャンセルする内容が丁寧に綴られていた。晶の心は途端にしぼみ、ベッドの上に呆然と座り込んだまま、しばらく何も考えられなかった。
 ずっと楽しみにしていた。
 学校では会えるし、休みの日も、ぎっしりつまった予定をやりくりして時間を作ってくれていた。けれどふたりっきり水入らずで、丸一日忙しい彼を独り占めできるのは、本当に久しぶりのことだったのだ。
 たくさん時間がなければできないこと。
 遠くに出掛けたり、色んなことを話したり。
 楽しい時間を過ごそうって、いくつも計画を練っていたのに。

 すべて無駄になるなんて。

 晶の心は虚しい思いに囚われて、何もする気がなくなってしまった。
 電源を切ったケータイを枕元に転がしたまま、ベッドの上にぐったりと寝そべって動けない。
「晶、まだ起きなくていいのー?」
 ドアがノックされて、母が起こしに来たときには涙が出そうになった。
 いいの! と乱暴に答えて布団を被る。何が起きたのか知らない母は、早く起きて朝食食べなさい、と無神経に言って階段を降りていく。ご飯なんか食べる気しないよ、と晶は枕に顔を埋めた。
 今日の予定はなくなったのだ。早く起きる必要もないし、おしゃれをして髪を綺麗にセットする必要もない。
 だが、人というのは悲しい生き物だ。
 こんなに心が痛んでいるというのに、お腹は空く。
 とうとう晶は重い身体を起こし、顔を洗いに階下へと降りていった。
「おはよう、晶」
「おはよう……」
「急がなくていいの? 今日、出掛けるんでしょう」
 聞かれるだろう、と覚悟はしていたが、いざ訊ねられるとぐっと息が詰まった。
「……用事、できたんだって」
 それだけを、やっとのことで口にする。説明しなければ、いつまでも追求されるに違いないから、先に言ってしまった方がいい。
「まあ、そうなの? 日曜だっていうのに、忙しいのね」
「うん……」
 残念だったわね、と優しく言ってもらうと、少しだけ慰められた。
 そう、彼は少年バディポリス。突然任務に呼び出されることなんて当たり前で、今までもこういうことは何回かあった。そのたびに晶はとても寂しい思いをしたけれど、仕方のないことなんだと言い聞かせて我慢した。だって止められるわけがない。あんなに真っ直ぐな瞳で、行ってくるよ、と凛々しく微笑む彼に、行かないでなんて、女々しいことを言えるわけがないのだ。
 忙しく飛び回る彼の側にいたいなら、強くなるしかない。少しの間会えないことを悲しむよりも、彼が仕事を立派にやり遂げることを喜べる女になれなければ、ずっと一緒に、なんて言えないのだから。
 カリカリのトーストと暖かなココアを胃に流し込むと、少しはマシな気分になった。
 遠出をするのは無理だけれど、仕事が終わったあと、夕方からなら会えるかもしれないとメールに書いてあった。
 彼はちゃんと晶のことを考えてくれている。だから不安に思うことなんてない。
「あ、見て、晶ちゃん。タスクくんよ」
「え?」
 母が指差すテレビでは、ワイドショーが流れていた。新しくできたバディファイト専用のファイトステージがショッピングモールに誕生したというニュースだった。そのステージは最新式で、完成祝いに天才バディファイター龍炎寺タスクと、現日本チャンピオンのファイターがファイトを行った様子がダイジェストで放映されていた。ファイト中のタスクを見る機会はあまりない。晶はすぐに画面に引きこまれた。厳しい表情だが口元には笑みが浮かんでいる。勝負は接戦だった。タスクのライフが削られるたびに、晶は手を握りしめる。伯仲した戦いに、タスクはとても楽しそうだった。
 ――会いたい。
 ディスプレイの中で笑みを見せる彼の姿を見ているうちに、自然とその思いは強くなった。
 ――いますぐ、会いたい!
 今彼がどこにいるのか、どこに行けば会えるのか、まるで検討がつかなかった。それでも家の中でじっとしていることはできなくて、晶は服を着替えるとすぐに家を飛び出した。

 超商店街も、ショッピングモールの中も、七夕一色だった。あちこちに笹飾りが立てられて、無邪気な願いが短冊に書かれている。ここに書いたことがすべて叶うなら、誰も悲しまずに済むのに、などと厭世的な気分に浸りつつ、晶はあてどなく彷徨い歩く。
 今日は暑い。建物の中は冷房が強く掛かっていて、外に出るたび吹き付けてくる熱風に当てられて立ち眩みがした。
 どうしてこうも暑いのだろう。町全体にクーラーを付けられたら快適なのに。
 日陰に入り、ケータイを開く。今日はクリミナルバディファイターが出たという情報も、少年バディポリスが現れたという情報も、どちらもまだない。何かあれば、誰かがネット上にアップするからすぐにわかる。
 一体今、何をやっているんだろう。晶との約束を破ってまでしなければならない仕事とは、なんだろう。
 溜息を着いてケータイを閉じる。
 日陰にいたおかげで汗が引いて、涼しくなってきた。むしろ、寒いくらいだ。
 ひらひらと、目の前に白いものが舞い落ちる。
 はあ、と息を吐くと、白く曇った。
「雪?」
 掌を空に向けて、舞い落ちて来たものを拾い上げる。白い欠片は晶の肌に触れると、ひやりとしてすうっと溶けていった。
 晶は信じがたい思いで空を見上げた。
 真っ黒に曇った空から、無数の白い欠片が降りだしていた。

 嘘。
 七月に、雪?

 晶は日陰から飛び出して、すぐにあのギラギラした日差しも、むわっとした熱気もなくなっていることに気がついた。代わりに、凍えるような冷気が空からしんしんと流れ込んで地面をスモークのように白く這って行く。
 他の通行人たちも、天候の異常を口々に話し合い、空を指さしていた。
 すぐそばで、警報が鳴って晶は肩をすくめる。
 スピーカーから、女性の声が流れた。
『緊急避難警報です。現在、この付近の気温が急激に下がっています。薄着での移動は大変危険です。付近の方は、すみやかに店内へ避難してください。バディモンスターが現れました。バディポリスの誘導に従い、ただちに避難してください』
 バディポリスもすぐに現れた。彼らは住人を誘導し、雪の降るこの場所から避難を促す。
 この雪はバディモンスターの仕業らしい。
 それなら、タスクも来るだろうか。
 雪はあっという間に積り、晶の膝に届きそうだった。
 薄着をしていた晶の身体は冷えきり、サンダルの足は凍えてしまっている。
 歩こうにも、身体が言うことを聞いてくれなかった。
 晶は震えながら、なんとか歩こうとする。せめて店内に入れればいいのだが、雪に視界を狭められ、どちらに歩けばいいかもわからない。
 強い風が吹き付けて、足元の雪が舞い上がった。
 確かに暑いとは思ったし、町全体をクーラーで冷やせたら、なんて考えたけれど。
 これはいくらなんでも、やり過ぎだ。
「タスク……」
 真夏に雪の中で遭難して凍死、なんて冗談にもならない。
 これは家で大人しくしていなかった晶への罰なのだろうか。
 少し我慢すれば夜には会えただろうに、早く会いたいなんて欲張ったから、だからこんな事件に巻き込まれて、ワンピース一枚の姿で惨めに吹雪に巻き込まれて。
 もう動きたくなかった。

 このまま死ぬんだ。
 ごめんね、お父さん、お母さん、友達みんな、七夕が私の命日になっちゃうなんて。
 楽しくお祝いできなくなっちゃうね。
 ああ、タスク。ほんとにごめん。
 私、先に死んじゃうかも。
 ずっと一緒にいたかったけど。私じゃ、あなたに相応しい女になるなんて、無理だったのかも。
 タスクは私が死んだらどう思うかな。悲しんでくれるかな。
 でも、ずっと悲しんでちゃだめだよ。
 タスクはたくさんの人に愛されてるんだから。
 その人達のために、きっと前を向いてくれるよね。
 ああでもやっぱり、寂しいな……。

 まつげに雪が付着し、視界は真っ白に埋もれる。身体のどこもかしこも雪が張り付き、声も出なかった。
 誰の声も聞こえない。なんの物音も聞こえない。
 ただ静かに雪が降り積もっていく。夏の暑さも、少女の想いも、全て覆い尽くして隠してしまう。
 晶を見つけ出すことができるのは、世界でたった一人だけ。
 晶のことを心の底から想う、たった一人の少年だけだ。

「……晶!」

 風に紛れて、その声ははっきりとは聞こえなかった。凍えた身体では、抱きとめる腕の感触は鈍くしか感じ取れなかった。
「晶、目を覚ませ、晶!」
 凍える風が止み、温かい温度が晶の手足をゆっくりと温めていった。
 目を開こうとすると、凍ったまつげが震えて、霜が剥がれ落ちた。
「晶……!」
「タス、ク」
 硬い喉をなんとか動かし、掠れた声を出す。タスクは厳しい表情を笑顔に変え、晶を抱きしめた。先ほどよりも、はっきりとタスクの体温が感じられる。
「よかった……、間に合った」
 晶はどこかの店内に寝かされていた。身体には毛布が掛けられている。
「大丈夫かい? どこか痛むところはない?」
「うん、大丈夫」
 タスクから離れ、自分の身体を確認する。冷えきっているだけで、幸い凍傷にはなっていなかった。
「これ、バディモンスターの仕業なの?」
「そうみたいだ」
 タスクは厳しい顔をして頷く。それから表情を和らげて、晶の頬を撫でた。
「君を見つけられてよかった。まさか、あんなところにいるなんて思わなかったから」
「タスク……」
 晶の心に、死ぬかもしれないと思ったあのときの絶望感が蘇ってきて、思わず涙が溢れた。タスクはそれを優しく拭い、頭を撫でてくれる。
「すまない。もっと早く見つけてあげられたら」
「ううん……っ、助けてくれたもん、それだけで……っ」
 十分だよ、と言葉にならない声で言いながら、晶はタスクに抱きついた。
 死んでしまうかと思った。もう二度と、こんな風に言葉を交わすことも、抱き締めることも、できなくなってしまうんだと。
 タスクも晶の身体をしっかりと抱きしめ返してくれた。晶は彼の肩越しに、店の窓を見る。外は白く覆われていた。
「雪、まだ止まないの?」
「晶、ここで待っていて」
「でも」
「大丈夫」
 あの吹雪の中に戻っていこうとするタスクに、晶は思わずしがみつく。
「空を見ていて。あの雲を切ってみせるから」
「え? タスク……ッ」
 店のドアが開き、吹雪が吹き込む。晶は腕で顔をかばった。晶が目を閉じた一瞬のうちにタスクは店の外へ出て、ジャックとともに吹雪の中へ飛び出していった。晶は店の窓に駆け寄り、二人が飛んでいった空を見上げる。
 雪雲はずっしりと分厚く空を覆っていた。絶えず雪が吹き荒び、暴風が窓を揺らした。
 あの夏空を、一瞬で嵐に変えるとは、なんと強力なバディモンスターだろう。もう少し威力が弱ければ皆喜んだに違いないのに、どうして嵐なんて起こしたのか。
 あんな吹雪の中を飛んで、タスクは大丈夫なのだろうか。いくらジャックが着いていても、厳しいに違いない。
 晶はぎゅっと手を握り、彼の言葉通り空が晴れるのを待ち侘びた。
 不意に、左手の方で眩い光が放たれた。
 あそこにいるんだ、と晶は店内を移動し、よりよく見える場所を探す。
 この辺りで一番高い建物の上で、ファイトは繰り広げられていた。
 その光を見てほっとする。
 吹雪は彼を追い落としたりなどできなかった。
 ファイトにさえ持ち込んでしまえば、彼は負けない。
 絶対に勝つ。

 一際激しい雷が建物の上に落ちた。雪雲より黒い暗雲がその上に巻き起こり、その中心から禍々しい、巨大な腕が現れる。思わず晶は身を乗り出して、窓ガラスに頬を押し付けた。
「ガルガンチュア・パニッシャー!」
 晶と同じく、この店内に避難していた子供の誰かが、その光を見て歓喜の声を上げる。
 巨人の操る、巨大な剣がまっすぐに振り下ろされた。剣の炎は雲を薙いで、雪を蹴散らし、溶かした。



 晶は外に出て、その白さと熱気に目を眩ませた。
「……晶!」
「タスク!」
 光に慣れた視界いっぱいに、愛しい人の笑顔が広がる。
 手を差し出せば、彼は飛び込んでくるよりも、逆に晶を引っ張りあげた。
 晶はタスクに抱き上げられて、一緒に空を上へと昇る。
「ほら。綺麗だよ」
「わあ」
 町全体を覆っていた雪が、夏の日差しにさらされて、溶けてキラキラと光に変わっていった。
「ちょっと、もったいないな」
「晶、危険な状態だったんだよ」
「それはそれとして」
 と言うと、むっと怒った顔をする。
「君が目を覚まさないから、僕がどれだけ心配したと思ってるんだ」
「七夕が命日になっちゃうかもって、ひやりとしたよね」
「晶!」
 タスクが真面目に叱ってくれているのがわかっていても、晶は彼の腕の中にいるという喜びで舞い上がってしまっていて、笑いを堪えられなかった。
 タスクも呆れて眉を下げ、不意に表情を変えて、晶にこつんとおでこをぶつけた。
「……ごめん。今日、約束を破って」
「ううん。……もういいよ」
 おでこを合わせたまま、目を閉じて首に回した腕に力を込める。
 夏の太陽は傾き始め、透き通った大気を赤く染めた。
 今夜は快晴だ。満天の星空に、天の川が綺麗に輝くだろう。




 彦星は織姫に会うために、一生懸命に働きました。
 その姿に、天の神様もお許しくださり、二人は年に一度、七夕の日に会えることになりました。
 それはよかったのですが、彦星はたいへん仕事に精を出すようになり、今度は織姫になかなか会ってくれません。
 悲しむ織姫を見かねて、とうとう天の神様は彦星を諌めるようにいいました。
『仕事ばかりしてはいけない。一週間に一日は、休みを取って織姫に会いなさい』
 彦星は織姫を悲しませていたことに気が付き、天の神様のおいいつけに従って、毎週日曜日はお休みを取ることにしました。
 織姫はとても喜びました。
 こうしてふたりは、いつまでも一緒に、すえながく、幸せに暮らしましたとさ。






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