優しい時間を

「見つけた、由香里」
 ひょこっと本棚の向こうから顔を出した少年に、由香里は肩をすくめ、持っていた本で半分顔を隠した。タスクはそんな由香里の様子を微笑ましく眺め、隣へ静かに移動する。
「その本、借りるのかい?」
「窓際で、読もうと思って」
 囁き声では聞き取りづらかったのだろう、タスクが耳を寄せる。由香里はその耳元に、もう一度繰り返した。タスクは、じゃ、行こう、と由香里と並んで歩いた。
 由香里はタスクの向かい側に座り、本を開いたが、集中できるわけもなく。
 ちらり、ちらりと彼の方へ視線を向ける。
 彼は窓の外へ目を向けて、午後の日差しに木漏れ日が風に吹かれてゆらゆらと揺れるさまを楽しんでいるようだった。

 ここにいていいの?
 他の、たくさんのお友達があなたを待っているんじゃない?
 彼がそこに現れて、由香里の名を呼ぶ時、決まって由香里の胸に小さな罪悪感がちくりと刺さる。
 私なんかに、かまっていてもいいの?

「昨日、ジャックがね」
 外を眺めたまま、タスクは思い出し笑いをする。
 彼の相棒がいかにおかしなことをしでかしたか、彼の同僚のポリスが、一風変わったモンスターの事件に関わった顛末、そのようなことを彼は面白そうに話してくれる。由香里もまるで一緒に体験したような気になって、楽しくなる。
「龍炎寺くん、面白い」
「え、そう?」
「ジャックも」
「はは、だろ?」
 由香里は小さな声で笑い続ける。本はもう膝の上に置いてしまった。タスクは何も言おうとせず、由香里が笑い止むのを待っているようだった。
「退屈じゃないなら、よかった」
「え?」
「僕といるの、退屈かもしれないなって、時々心配になるんだ」
 意外な言葉を聞かされて、由香里は目を丸くする。
「僕なんかといたら、君の邪魔をするだけかもって」
「そんな、逆です」
「逆?」
「え……と」
 私があなたの邪魔をしてる。
 そう口に出すのは怖かった。たとえそれが真実だとしても、言葉にしなければ、白日の下に晒さなければ、誤魔化せる。見てみぬふりをできる。
 だから由香里は口を噤む。
「龍炎寺くんと話せるのは……楽しいです」
「……そう? よかった」
 そして会話が途切れる。こういうむず痒い空気が流れているとき、よく考えもせずに口を開ければ雰囲気を壊すおかしなことしか言い出さないに決まっているから、由香里はただじっと俯いている。
「……こんなふうに」
 俯いていると、タスクが不意に話し始めた。
「こんなふうに、本を読んでいる君のそばにいると、不思議と何も考えずに、ゆったりと時間が流れるんだ」
「時間?」
「君の周囲を流れる時間が、きっととても優しいんだろうね」
 そんなふうに囁くあなたの声こそ花の香りのように甘い。もし、あなたの言うとおりだとすれば、私は少しくらいは、あなたの役に立てていると、自惚れてもいいのでしょうか。

「龍炎寺くんー!」

 図書室の入り口の方から、この場に相応しくない大声が響いてきた。タスクと由香里は顔を見合わせる。
 一瞬、彼は躊躇ったように見えた。

 ――もう少しだけ、ここに。

 それが望みなら。
 由香里はタスクの手を引く。

 窓を開け、二人静かにそこを乗り越える。
 柔らかな腐葉土が、二人の足音を消してくれた。
 窓枠の下に小さく身体を縮めて、息を潜める。
「あれ? ここに龍炎寺くんが来たって聞いたのに」
「さっきまでいたはずだけど」
「どこ行っちゃったのかな」
 口々に言い合う声はやがて遠のいていった。別のところを探しに行ったのか、どこかからタスクの名を呼ぶ声が小さく聞こえる。二人はつめていた息を吐き出し、笑った。
「いつ見つかるか、どきどきした」
「うん。行ってしまいましたね」
「でも、もう少し……ここにいよう?」
「……うん」
 繋いだままの手に、彼が少しだけ力を込める。由香里もきゅ、と握り返した。
 木漏れ日が二人の足元に落ちる。
「風が気持ちいいな」
 彼の青い柔らかな髪をそよ風が撫でていく。由香里は目を細めて、彼の髪が反射した光が天使の光輪のように輝くのを見つめていた。
 まだ、どこかでタスクを呼ぶ声がする。
 彼らは一時だって、この人を放っておいてはくれない。
「あとで、謝らないといけないな」
「そんな必要……ないです」
 どうして、と問いたげな目でタスクは由香里を振り返る。由香里は俯いた。タスクはそんな由香里を見つめ、目を細める。
「……珍しいよね」
「え?」
「君がこんなに近くにいるの」
 タスクが身を乗り出す。さらに二人の距離は縮まる。由香里は顔をタスクの方へ寄せかけて、思いとどまり、少し下がる。
「……だって」
 由香里は含みを保たせて沈黙する。タスクは無言で、何? と由香里に続けるよう促す。いつもなら、なんとなく汲み取ってくれたかのように、全てを理解してくれたかのように、頷くけれど。
 今回は、由香里にはっきりと言葉にして欲しい、ということのようだった。
 由香里は目を泳がせる。
 求められれば、従わないわけにはいかない。
 不本意だけれど。
「まだ……行きたくなかったでしょう?」
 口には出せない真面目なあなたの心の奥底に隠した願いを読み取ったの、なんて言い方は少しずるい。本当はあなたがどう思っていようと、私がもっと一緒にいたいと思っただけ、なんて心のままに口に出せたら二人の関係はどんな風に変わるだろう。
 そんな由香里の心の中など知らないままに、タスクはちょっと困ったように微笑む。
「彼らには申し訳ないけど」
 もう少しだけ、ね。と絡めた指をもう一度しっかり絡ませ直す。
「……いいと思います、申し訳ないなんて、思わなくても」
「え?」
 今だけは『皆のタスク』であろうとする努力なんて忘れてしまって。
「ここにあるのは優しい時間……だから」
 このひとときだけでも、『私だけのタスク』でいて。
「素敵な台詞だね」
「……龍炎寺くんが言ってくれたの」
 そうだったね、と彼は朗らかに笑う。
「でも、君の声で言うのを聞くと、まるで本当にそんな気がしてくるよ」
 もう彼は、彼を呼ぶ外界の声に耳を傾けない。目を閉じて、木の葉のさわめきだけに心を預ける。

 どうして皆彼を呼ぶの。いつだって構わず、迷惑一向に顧みず、遠慮なくずけずけと彼を呼びつけるの。
 優れている彼の足に縋り付いて、その飛翔を邪魔立てしようとしているようにしか見えない。足枷に対しても博愛を貫くのはいっそ滑稽なのではないですか。
 けれどそんなあなただからこそ。
 これほどに慕う思いは尽きず、悲しいくらいに溢れて零れていくのでしょう。

 日が陰る素振りを見せる前に、タスクはさっと立ち上がり、土を払うと博愛者の笑顔を浮かべ、ありがとう、なんだか落ち着いたよ、またね、そのようなことを述べて彼を呼び求める由香里以外の者達の元へと帰っていった。
 由香里は追いすがれない。
 この場所で彼が再び優しい時間を欲するときをただ待つのみ。


大人しめの女の子とタスク先輩で。女の子の方が年下っぽいですがそうすると中学と小学で別れちゃうから同い年になりました。
でもタスク先輩と後輩もいいものですよね。タスクお兄ちゃん。タスクあにぃ。……あっコレやばい。やばい……!
脱線しました。
甘〜だったんですがちょっと切なめになってしまいました。タスク先輩は皆のタスク先輩だからどうしても寂しく思ってしまうのはしょうがないのです。
|