少年よ恋を知れ

「……あ」
 飲み物を取り、一階の台所から二階の自室へ戻る途中。
 廊下を曲がろうとしたところ、向こうから歩いて来た人と鉢合わせる格好になってしまった。
「あら、斬夜くん」
「由香里さん」
 風祭由香里。母と同じ茶道教室に通っている友人の、ご息女だ。斬夜より年上の、15歳である。母親同士の付き合いは、女学生時代からだというのだからその縁はかなり深い。お互いに子供を連れてお互いの家を行き来しているから、由香里は斬夜にとっては幼馴染と呼べる間柄だった。
「お邪魔してます。明日は大会だそうね」
「はい、今はデッキを調節しているところで……その、お構いもできず」
「ふふ、畏まっちゃって」
 落ち着かなげに眼鏡を直す斬夜を見て、由香里はおっとりと笑う。着物の袖に描かれた撫子が揺れた。
「あ、いけない。ぞうきんを取りに来たんだったわ」
 ふと立ち話をしている場合ではないことを思い出し、由香里は斬夜に背を向けた。
「暁くんがジュースをこぼしちゃったの」
「それなら僕がやります!」
 いくら気安い仲だとて、客人に掃除を任せるとは何事か。注意してみると、居間の方から暁や母親が大騒ぎしている声が聞こえてきた。
「ぞうきんの場所ならわかるわよ」
 足早に台所に引き返す斬夜の後ろを由香里が追いかける。斬夜は彼女にぞうきんを渡してなるものかと、冷えた麦茶を注いだコップをひっくり返す勢いでテーブルに置き、ぞうきんを掴んで居間に急いだ。
 居間には誰もいなかった。どこに行ったのかと言えば、脱衣所だ。暁の甲高い声が響いてくる。
「ジュースがズボンにかかっちゃったのよ」
 ひらりと由香里が斬夜の手からぞうきんを取り上げた。鮮やかな手並みに、あっと斬夜が声を上げる間もなく、由香里はフローリングに膝を着いて、ティッシュで拭われた形跡のある辺りを拭いた。
「だ、だめですよ! 着物が汚れてしまう」
「染みこむ前に拭いてしまわなくちゃ」
 斬夜はなんとかぞうきんを取り返そうとしたが、由香里は床を拭きながら器用に斬夜の手を避ける。
「くっ、強い……!」
「ふっふっふ、修行が足りんな」
「由香里さん」
 ふざけないでください、と懇願する斬夜もなんのその、由香里は満足いくまで床を磨き上げると、ぞうきんを洗いに台所へ戻ろうとした。いまだ、と斬夜は一瞬の隙をついて由香里からぞうきんを奪う。
「なにするの」
「僕が洗います!」
「ムキになっちゃって、いやね」
「着物が濡れてしまうでしょう」
「そんなこと気にしないのに」
「気にしてください」
 斬夜がわざと足音を立てながら台所へ向かう足取りを、由香里は軽やかに追いかける。
「斬夜くん、背、伸びた?」
「は? え、ええと、少しは」
 いつの間にかすぐ後ろにいた由香里が、肩越しに斬夜の顔を覗きこんでくるので、どきりとしながら斬夜は肩を竦めた。学校の同級生女子だったら、こんなゼロ距離の位置に来られる前に、耐え切れずに逃げ出しているところだ。
 由香里とは子供の頃から見知っているから耐性がついているのでなんとか逃げ出さずにすんでいるが、心臓に悪いことには変わりない。
 斬夜の鼓動が早くなったことを知ってか知らずか、由香里は一歩後ろへ下がった。
「私よりはまだまだちいさいね」
「……見下ろせるのは今のうちだけです。すぐに、追い越しますよ」
「ほほう、それは楽しみ」
 蛇口を捻り、ぞうきんを絞っている間も、由香里は側にいて、斬夜の手元をじっと眺めていた。
「水が飛びますよ」
「気にしない、気にしない」
「少し、離れた方が」
 頬を朱に染めて、斬夜は由香里に注意を促すが、照れて声が小さくなってしまった。ん? と由香里は問い返し、ますます顔を寄せてくる。
「なになに?」
「うわっ!?」
 故意か偶然か、由香里の身体が斬夜の肩に触れた。
 それだけのことなのに、ほんの少し触れただけなのに、斬夜は発条仕掛けの兵隊のように両腕をばんっと上げて悲鳴を上げた。
「きゃっ?」
 蛇口から水は出たままである。
 当然、斬夜の腕に跳ねられた水しぶきが、二人の顔にたっぷりと降り注いだ。
「はっ! すすすす、すみません!」
「ふふ、あははっ、もう、冷たいっ」
「すぐにタオルを……っ」
 斬夜は逃げ出すように台所から飛び出した。慌てすぎて壁に足を引っ掛け、危うく転びそうになる。「ゆっくりでいいよー」と、のんびりした声を背後に聞きながら、斬夜は全身の血が沸騰してしまうのではないかと思った。
 もう心臓が保たない。

「申し訳ありません……」
「いいよいいよ、気にしない気にしない」
 斬夜は項垂れながら由香里にタオルを差し出す。由香里はそれを受け取ると、わっと斬夜の頭にかぶせた。
「うわっ!?」
「自分の分を忘れるとは何事だー。私が拭いてしんぜよう」
「いっ、いいいいや、自分でやりますから! 離してっ」
「だめ。反省しておるならば大人しくせい」
「す、すみません……」
 そう言われると弱い。肩を落として暴れるのをやめた斬夜に満足して、由香里は存分に斬夜の髪や顔や着物についた水滴を拭ってやた。
「後ろ髪も濡れちゃってるね」
「あ……」
 由香里はタオルを後ろへ滑らせ、一つにくくられた斬夜の長い黒髪を丁寧に包む。擦らないよう、きゅ、と両手で押して水分を絞った。斬夜の肩を挟み込むようにして腕を後ろへ回しているから、ほとんど触れそうなくらい、近づいている。由香里は手元に視線を落とし、一心に斬夜の髪を撫でる。
 斬夜は目のやりどころに困り、由香里をまた傷つけてしまいそうで動くに動けず、ひたすらうるさく騒ぐ心臓があと何十秒で爆発するかと考えた。
 由香里の髪にはまだ水滴が付いている。一つがつう、と垂れて由香里の白いうなじを伝い、襟元に潜り込んだ。
 冷たくないだろうか、と斬夜は襟元を見つめる。
「はい、綺麗になった」
 ぱっと由香里が手を離した。由香里の手から零れた髪が、左右に揺れる。斬夜は我に返った。
 由香里はタオルを自分の頭へふわりと被せ、その裾を左手で持ち上げて笑みを隠した。
「斬夜くんの首、ほくろがあるのね」
「……えっ?」
 思わず手で首に触れる。肌は熱があるのかと思うくらい熱かった。
「ちっちゃい、ちっちゃいほくろよ。ふふ、そんなふうに首を捻ったって、見えないわ」
「知り、ませんでした……」
 そんなとこ見ないでしょうからね、と由香里は笑い、手を伸ばしてきた。ためらいがちにそれは一瞬止まったが、斬夜がちょっと襟をずらすと、その隙間に、そっと指を差し入れた。
「……ほら。ここ。わかる?」
 斬夜は見えない自分の項の代わりに、由香里の首もとを見つめた。由香里はその視線に気づくと、首を捻って斬夜のほくろがあるのと同じ位置を示してみせた。
「この、後ろの辺りよ。ね、自分では見えないわ」
 由香里の項はほくろ一つなく、白くてすべらかだった。
 あまり白くて、くらりとする。心臓はもはや動くのを止めてしまったのではないだろうか。鼓動の音も聞こえやしない。
 音を立てるはずの一切合切はきっと全て沈黙してしまったのだろう。由香里の声しか聞こえない。
 あの首筋に牙を立てたら、赤い血が流れだすのだろうか。こんなに白い肌の下を、いったい赤い色が潜んでいられるものだろうか?
 確かめてみたい欲求に駆られた。
「あら、いけない。染みてしまったわ」
 由香里はふっと声音を変えて、自分の胸元を指でなぞり、落胆した声を上げた。呪縛が解けたように、斬夜の耳に周囲の音が聞こえ始めた。暁が着替えを終えて、居間に戻ってきたようだ。三人の楽しげな声が聞こえてきた。
「僕の髪なんか拭くからいけないんです」
「だって、触りたかったの」
「なっ!」
 ふふ、といたずらっぽく笑ってみせる由香里に、斬夜は顔を真赤にする。
「馬鹿を言わないでください! 僕なんかどうでもいいんだ。あなたが濡れたままでいることの方がいけないんです。風邪でも引かれたら僕は後悔することになる」
「これくらいで引かないわ」
 そういいながらもうどうでもいいとばかりにタオルを放ろうとするので、斬夜はそれを取り上げると、由香里の髪をわしゃわしゃと拭ってやった。
「わっ、なになに?」
「お返しです。僕の髪を拭いてくれたお礼ですよ」
「仕返しでしょ!? 髪がぐしゃぐしゃになるっ……もう!」
 斬夜は存分に由香里の頭をかきまわしてやると、満足して由香里を解放した。タオルの下からは、乱れた髪に不愉快そうに頬をふくらませる由香里の顔が出てきた。
「あんまり見ないで。ひどい格好でしょう」
「そんなことありませんよ」
 本心だ。そんなふうにふくれっ面をしていると、ずいぶん可愛らしくなる。さんざん遊ばれたことに対する、ちょっとした意趣返しだ。これくらいなら許されるだろう。
「由香里どの、どこでござるかー?」
 居間の方から、暁の声が聞こえた。小さな足音がこちらに向かっている。途端、斬夜はいたたまれなくなった。年上の女性と二人っきりで、いったい今まで何をやっていたのか。
「でっ、では僕は部屋に戻ります!」
「あ、斬夜くん」
 由香里が呼び止めたときにはすでに斬夜の姿は消えていた。
 代わりに、ひょっこりと暁が顔を出す。
「こんなところに! お待たせしてすみませぬ、もう着替え終わりましたゆえ」
「私こそ、すぐに戻らなくってごめんね。あとぞうきんを絞るだけだから」
「あ! それならせっしゃがやりまする!」
 暁が下から手を伸ばしてきたが、由香里は高々とぞうきんを持ち上げた。
「か、貸してくださいでござる!」
「いいから、いいから」
「でもでもっ、由香里どのの着物が濡れてしまうでござる!」
「ふふふっ」
 兄弟揃って同じことを言う。
 楽しそうに笑う由香里に、暁は必死なものだから理不尽に感じる。
「せ、せっしゃだってぞうきんくらいちゃんと絞れるでござるよ!」
「私だって絞れるわ。……はい、終わり」
 暁がまた着替える羽目にならないよう、できるかぎり離れたところでぎゅっとぞうきんから水分を絞り出し、ぱっぱと終わらせた。
「そういえば、さっき兄者の声が聞こえた気がしたのですが、由香里どのはお会いしたでござるか?」
「さあ……」
「そうでござるか。兄者も由香里どのと久しぶりにお話したいことでしょうが、なにぶん忙しいもので」
 兄の代わりに、暁は申し訳なさそうに謝る。由香里は首を振って笑った。
「大会の準備の邪魔をしちゃ、悪いものね」
 居間から、母親二人の呼ぶ声がする。暁と由香里は顔を見合わせ、はーいと声を揃えて返事をした。


オチはない。
斬夜くんの着物姿最高ですよね。いつか髪を降ろして眼鏡を外した寝姿をアニメで見られたら幸せです。
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