You're my sunshine

 ミスをしてしまった。
 よくよく注意して、何度も確認しておけば、起こらなかっただろう、間違い。やらかしてしまった。
 上司にはこっぴどく怒られた。どうして確認しなかったんだ、ちゃんと事前に連絡しろ。
 どうして確認しなかったんだろう、ちゃんと連絡すればこんなことにはならなかったのに。完全に私の怠慢だった。
 その後全員で問題の解決に当たり、取り返しのつかない事態になる前に収束できたからよかったものの。上司にも同僚にも迷惑を掛けてしまった。
「はぁ……」
 自分のだめさに溜息が出てしまう。
 ああ、もう。ほんとに私ってだめだ。
 だめすぎてやになっちゃう。
 どうしてこんなに馬鹿なんだろう。どんなに気をつけていても、うっかりミスが減らない。ほんと、どうしようもない馬鹿。
 明日、会社に行くの、気が重いなぁ……。

「お姉さん、危ない!」

 どん、と後ろから体当たりを食らった。
 え、と思う間もなく、よろけて、踏ん張りきれずにアスファルトに倒れてしまった。
「待て、この泥棒!」
 何、と痛みをこらえながら顔をあげると、すぐ横を小柄な人影が駆け抜けていった。さっきから叫んでいたのはあの子だ。ぼんやりしていたから全然気が付かなかった。
 少年は加速しながら、地面を思いっきり蹴ってジャンプした。少年の身体は軽々と舞い上がり、信じられないほど飛距離を伸ばす。まるで彼の背中に羽が生えたかのようだ。
「でりゃー! 牙王キーック!」
 少年の飛び蹴りが、走っていたジャケット姿の男の背中にクリティカルヒットした。ジャケット姿の男が派手な音を立てて地面にめり込むと、すかさず少年はその腕を捻り上げ、押さえ込んだ。そして彼が持っていた女物のハンドバッグを取り上げる。
「……あ」
 あれ、私のバッグにそっくり。
 そのときになって初めて、自分が手ぶらであることに気づいた。ぶつかられたのは、スリをするためだったのか。
 近くにいた人がポリスを呼んでくれて、スリはそのまま連行されていった。
「お姉さん、足、大丈夫か?」
「え?」
 事情聴取も終わってやっと解放されると、ひったくりを捕まえてくれた少年が私の足元を見ながら言った。
 これまた言われるまで気が付かなかったのだけれど、私は転んだ拍子に右足のスカートから出た部分、ふとももとふくらはぎを擦ってしまっていた。どれだけ注意力散漫になってるんだろう、今の私は。もし突っ込んできたのがひったくりじゃなくて車だったら、今頃私は三途の川の前で途方に暮れていただろう。ぞっとしない。
 傷を確認したら、ストッキングは当然伝線だらけでひどいことになっていたし、おまけにお気に入りのパンプスのヒールがぽっきりと綺麗に折れてしまっていた。
「うん、だいじょう……」
 ぶ、と言おうとしたら、喉が詰まって嗚咽が漏れた。
 なんて情けない姿なんだろう。仕事で失敗して、そのうえひったくりに狙われて、怪我までして。
 ついてない。
 最低……。
「お、お姉さん、どうした? 足、痛いのか?」
 人目を憚らず泣きだした私に、少年はびっくりして心配そうに私の顔を覗きこんできた。こんな小さな子に助けられて、そのうえみっともなく泣き出すなんて。でもどうしようもない。涙が止まらない。
 あまりにも、情けなくて。
「ふ、ううっ……!」
 しゃがみ込んで泣いてしまった。
 少年は困惑しながらも、私が落ち着くまでそばにいてくれた。
 涙も枯れて、嗚咽だけになった頃、少年は立ち上がった。帰ってしまうのかと思ったら、彼は私の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「その足じゃ、歩けないだろ? うちまでおぶってやるよ」
「えっ?」
 目が点になる。
 前にしゃがんだ子は見たところ小学生だ。確か、ポリスに相棒学園初等部の生徒だと答えていた気がする。名前は……未門、何、だっけ。
 未門くんはほら、と後ろに手を向けて、私を促す。
 いやいや。
 私はどちらかといえば小柄な方だけど、でも小学生より小さいってことはない。
「い、いいいいです! うちすぐそこだし、歩けるからっ!?」
 急いで立ち上がって歩けることを伝えようとした途端、左足首がぐぎっといやな音を立てて曲がった。ヒールが片方折れていたことを忘れてた。
「っと」
 そのままバランスを崩した私を、咄嗟に支えてくれたのは未門くん。思いの外しっかりとした足腰で、私の身体を受け止めてくれる。
「ご、ごめんね……」
 恥の上塗りだ。もう消えてしまいたい。
 真っ赤になって謝ると、未門くんはにかっと笑った。
「オレ、こう見えて力持ちなんだぜ!」
 満面の笑み。
 屈託なくて、純真で、明るい笑顔。
 あんまり眩しいその表情に見とれている間に、私は未門くんの背中に乗っていた。
 その小さな身体のどこから、これほどの力が湧いてくるのか。私を抱えて歩く足取りは一歩一歩がしっかりと地面を踏みしめていて、安定している。
「すごい……強いのね」
「へへっ、言ったろ?」
 すっかり感心してそういうと、未門くんは前を向いたまま得意気に答えた。さっきも、その健脚で大の大人を蹴り倒して、押さえつけていた。この子、普通じゃない。本当に小学生?
「ていうか、お姉さん軽いな!」
「ご、ごめんね……」
「なんで謝るんだ?」
「いや、だって」
 重いでしょ。そうやって言ってくれるのは嬉しいけど。
 でもそんなこというのは場にそぐわないし、彼の善意にケチをつけるみたいになるから飲み込んだ。
「足、腕で押さえちゃってるけど、痛くないか?」
 未門くんの右腕が、私の右足を抱え込んでいるから、袖が肌に擦れている。傷にも当たるけど、すごく気を使ってくれているのがわかるから痛くないよ、と私は答えた。
「ごめんね。私が不注意だったのがいけないのに」
 自分で言って、落ち込んでしまう。さっきまで、それを反省し続けていたのに。それがまた注意を怠る結果になって、こんな大惨事になってしまうなんて。
 ほんと、私って……。

「それは違うぜ!」

 とても明るく、力強い声が、私のネガティブな心の呟きをかき消した。
「悪いのはあのひったくりだよ、お姉さん」
「でも……」
「こんな怪我させて、ちゃんと慰謝料請求しないとだめだぜ!」
「そういえば……そうだよね」
 ポリスに、何か問題があれば連絡してくださいと言われていた。私の反応があまりにも薄いから、詳しい話は後にしようと考えたのかもしれない。ようやく頭に重く伸しかかっていた靄が晴れてきて、冷静に物事が考えられるようになってくると、ポリスとの会話内容が思い出されてきた。ああ、私ろくに返事をしていない。
「はぁ……」
「お姉さん、なんか悩みがあるのか?」
 つい溜息を吐いてしまった。それを聞きとがめて、未門くんが訊ねた。きっと彼にも、私が心ここにあらずで放心していたのがわかっていたのだろう。スリも、そこを狙ったに違いない。
「今日ね、仕事で失敗しちゃったの」
 愚痴だ。初対面の、窮地を助けてくれた少年にする話じゃない。でも、聞いて欲しかった。私を救ってくれたこの子になら。
「私、よく失敗しちゃうんだけどね。だから、普段から気をつけようって思ってるんだけど、どうしても上手く行かなくて……。私って、ほんとだめだなぁって落ち込んでた。それでこんなことになっちゃって。どこまでだめなんだろうね、私」
 自嘲する。

「そんなこと、言ったら駄目だ!」

 一喝。
 腹から響く声が、鼓膜だけでなく彼と触れた肌を通して、身体全体に響いた。
「お姉さんがだめだなんてこと絶対ねえよ。だめだって思うからだめになっちまうんだ」
 未門くんはまっすぐ前を向いたまま、確信を込めて言う。
「だから、自分のことをそんな風に卑下しちゃいけねえよ、お姉さん」
 とても真っ直ぐな言葉だった。
 こんなに正しい台詞を、こんなに純真に口にできる人が、いったい世の中にどれだけいるだろう。
 はじめてだ。
 彼は、私が今まで出会った誰よりも、正しい。
「……んっ」
 そうだよね、と答えようとしたら喉が詰まった。また涙だ。今度のは、嬉しさと、感動の方が大きい。
「ありがとう……」
 こんなに素敵な言葉をもらったのは初めて。
 なんて心が温まるんだろう。
 まるで太陽に照らされてるよう。
 未門くんは照れたように笑った。

 私の家の前に着くと、彼の背中から下ろしてもらった。温もりが離れてしまうのが、少しだけ寂しく感じる。とても頑強で、大きい背中だった。
 私は未門くんと向かい合った。
「色々、本当にありがとうね。助かりました」
「いいっていいって! 足、お大事にな。そうだ、まだ名前聞いてなかったよな。オレ、未門牙王!」
「私は風祭由香里だよ。牙王くん」
「由香里さんだな。オレのうち、この近くの合気柔術の道場なんだ。もし、また何か困ったことがあったら来てくれよ。力になるぜ!」
 素敵な笑顔を残して、彼は去っていった。
 彼の向かう先には、落日が真っ赤に燃え上がっている。
 その眩しい背中を、目を細めていつまでも見送っていた。
 彼の言葉があの太陽の欠片の炎となって、私の心の中に確かに灯っていた。

 未門牙王くん。
 もしまた、失敗してしまっても、君の背中を思い出そう。
 その太陽のような眩しい光が、私のネガディブな思考を吹き飛ばしてくれるだろうから。


かっこよくてかわいくて太陽番長な牙王くん。
彼は年上には敬語を使う礼儀正しい子なんですが文章だといまいちしっくりこなくて、タメ口にしました。

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