スタアの星

 腕時計の針が動くのを見つめている。
 秒針が腹立たしいほどののんびりした速度で一周し、かちり、と分針が微動する。
 これがあと十回繰り返されたとき、彼が現れなければ――。
「アスモダイさん、入ります!」
 スタッフが大声で叫びながら、ドアを開けた。その後ろから、巨体がぬっと顔を出す。
「――待ってたわ!」
 彼は走ってくるスタッフのあとを大股で歩いてスタジオに入り、セットへまっすぐに向かう。
「すまなかったな、プロデューサー。バディが遅刻しそうだったから送って遅くなったぜ」
 アスモダイは由香里の横を通り過ぎながらウインクを投げる。反省の見られないその態度に、呆れ返るというよりは収まらぬ苛立ちがぶわっと吹き出して、あまりの勢いに怒りを通り越して由香里の顔から血の気が引いた。

「仕事とバディ、どっちが大事なのっ!?」



 なんとか無事に新番組の収録を終えて、由香里は机に突っ伏した。主役が一時間も遅刻してきたときにはいったい何社に頭を下げればいいのかと気が気でなく、首が飛ぶことすら覚悟していた。だが飄々と収録を熟す魔王にしてタレントのアスモダイは天性といっていいのか、カリスマを存分に発揮して誰もが満足のいく、いやそれ以上の番組を作り上げた。誰も遅刻についてとやかく言うことはない。
「ご苦労さん、プロデューサー」
 なかなか起き上がろうとせず、唸っている由香里の頭の横に、アスモダイは缶コーヒーを置いた。それでも由香里は起き上がらない。
「魔王アスモダイのキッチン、なかなかいい番組だな。魔界の料理を人間に教えるって発想はグッドだぜ、由香里」
「……どーも」
 ようやく由香里はのろのろ顔を起こし、缶コーヒーを開けると不味そうに一口飲んだ。
「どうした、目の下にクマができてるぞ? 徹夜明けかな」
「最近、生きた心地がしなくってね。でも、新番組もなんとかなりそうで、今日はぐっすり眠れるわ。我が優秀なタレント様のお陰で」
「ほお、それは嫌味か? 由香里」
 由香里は答えず、コーヒーをごくごく飲む。アスモダイは小さなパイプ椅子から余った尻尾を持て余し、ふよふよと動かしながら由香里がコーヒーを飲み干すのを眺めた。
「何が不満なんだ、プロデューサー。俺のパフォーマンスは気に入らなかったか?」
「完璧だったわよ。望んだ以上の、最高の番組になったわ」
 空になった缶を指で弾きながら答えた由香里の声音は、不満たっぷりだ。
 アスモダイは面倒くさそうに溜息を吐く。
「おいおいボス。いいたいことがあるならはっきり言ってくれ。それじゃあわからないぜ」
「……完璧なのよ、あなたは」
 言ってくれと言われたので、ならば遠慮なくと由香里はアスモダイを座った目つきで睨めつけてびっと指さした。
「歌手になれば一週間で天下を取れるわ。ハリウッドだってあなたを欲しがる。なのに、どうして仕事を全て断ってしまうのよ! ようやく受けてくれたのが、つまらない料理番組だなんて!」
「料理番組は面白いぞ、由香里」
 早口にまくし立てる由香里に面食らって、アスモダイは目をぱちぱちさせる。
「それに、収録時間があまり掛からないからな」
「どうして映画の出演依頼は受けてくれないの」
 由香里は食い下がる。
「海外へ行くつもりはないぞ。テツヤが困る」
「だから、それよっ!」
 びしっと由香里は腕を伸ばし、がたんとパイプ椅子から立ち上がった。
「それ! バディ! どうして片手間に仕事をするの! あなたには無限の可能性があるのよ! それを無駄に消費するなんて間違ってるわ。もったいない! どれだけのビジネスチャンスが水泡に帰したかわからないの!?」
 由香里は溜めに溜めていた不満を一息にぶつけた。
 彼は不真面目なわけではない。ただ、人間のスケールに収まろうとしないのだ。魔王たる彼は、彼のルールで動く。それはわかっているが、由香里にはどうしても、歯がゆい思いが拭えない。
 彼をこの業界に引き込んだのは由香里だった。道を歩いているアスモダイを見かけた瞬間、雷が落ちるくらいの衝撃を受けた。
 彼は全国のお茶の間、いや全世界を席巻するに違いない。
 その直感は、共に仕事をしてきた今では確信に変わっている。
 アスモダイは黙って由香里の訴えを聞いていたが、その口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。
「由香里は見る目がある。先見の明も。度胸も座っている。プロデューサーとして最高の人間だ」
 私なんかのことより、と口を開こうとする由香里を制して、アスモダイは続ける。
「そんなお前に熱心に口説かれたからこそ、俺はここにいる」
「……それは、感謝してる」
「だがな、由香里。俺はテツヤのバディだ。優先順位は変わらないぜ」
 だからそれが、と由香里は言葉に詰まる。何かと言うとバディ、バディだ。アスモダイは黒岳テツヤのバディとしてこの人間界に来た。由香里はファイトをやったことがないからその絆がどれほど強いのかわからない。
 せっかく契約したのだから、もう少し、こちらに譲歩してくれてもいいのではないか。そう主張するのは法外な要求だろうか。
「俺を高く買ってくれてる思いは十分理解してるぜ。だが、俺は今の状態で満足してるんだ。バディファイトは楽しいが、芸能界も楽しい」
「少し、比重をこっちに傾けてくれてもいいんじゃない? 魔王なんだもの、たいした負担じゃないでしょう」
「俺だって海外から日本へひとっ飛びってわけにはいかないさ」
 アスモダイは肩を揺らして大声で笑う。由香里は俯いた。つ、と顎にアスモダイの爪が触れ、由香里は顔を上げさせられる。
「そんな顔をするなよ。こっちも楽しいって言ってるだろ。ファイトだけじゃなく、お前と共にいる時間だって、俺には大切なのさ」
「っ……」
 ばちん、と音がしそうなくらいのウインクを投げられて、かっと頬が熱くなる。大きなアスモダイの手がするりと由香里の頬をなぞって、愉快そうに笑った。からかわれた、と由香里は唇を噛む。
「違うわよ、そういう個人的なことじゃなくて、私はあなたにもっと活躍の場を……」
「そう焦るな、プロデューサー。まだその時じゃないさ。今はこのままで勘弁してくれ」
 アスモダイは話は終わった、と椅子から立ち上がり、振り向きざま尻尾でコーヒーの空き缶をひょいと掴むと、ぽいっとゴミ箱に放り投げた。からからとうるさい音を立てて、空き缶はゴミ箱に吸い込まれた。
「じゃあな、プロデューサー。今度、飲みにでも行こうぜ」
「私は諦めないからね。その時が来るまで、いくらでも待ってやるんだから」
「オーケーオーケー。楽しみにしとくよ」
 ひらひらと手を振り、アスモダイは帰っていく。バディの元へ。
 どうして彼は、私をバディに選んでくれなかったんだろう――
 彼の大きな背中を眺めているうちに、そんな考えが浮かんで自分で驚いた。今まで、そんなことを考えたこともなかったのに。

 ああ、そうだ。
 私は、初めから彼の魅力に強く囚われていて――
 その魅力は、きっと他のたくさんの人間も虜にするだろうと思って、確かにそれはあたっていたけれど、でも本当のところ私は、多才な彼の一挙手一投足を、一番近いところで見ていたかっただけなのだ。

「……羨ましいわ、テツヤくん」
 バディの隣に並ぶと押しつぶされそうなくらい小さな少年の可愛らしい笑顔が脳裏に浮かぶ。魔王アスモダイが選んだバディ。将来の魔王候補だという彼は、まだ未熟ながらも十分に素質を秘めている。
 バディと一緒にいたいというなら、いっそあの子をこちらに引きずり込んでやろうか?
 由香里は楽しい企みを思いつく。
 その口元には、自然と笑みが浮かんでいた。



アスモダイさんとテツヤくん仲良すぎで嫉妬するヒロインのお話。
アスモダイさん歌とか出さないかしら。
タイトルは力とはパワーだ! 的なノリで。
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