求めた名は [ 26/37 ]
「気をつけて。この魔物は心のうちを狙って来ますわ。気を確かに――」
マナミアの警告を聞いていたから、なんとか気を保っていられた。一番思い出したくない、苦い頃の記憶。この不気味な繭は、そうやって人の自由を奪い、命を吸い取って成長するんだ。
まったくいやらしい魔物もいたものだ。
村の人々から白い目で見られた日々。村を出て、母を失い、たった一人、汚泥をすすりながら生き延びた日々。
もう二度と味わいたくない苦痛をむざむざと呼び覚まされて、それでも打ち負けずにいられたのは、このダガーの……父さんのお陰だ。父さんの本当の思いを知ることができたから、あの日々にもう囚われることはない。
僕は誇るべき父親に、愛されていた。
そう思えば、いくらでも身体の奥から力が湧いてきた。
敵の幻術から醒めたあとは、仲間たちを叩き起こす番だった。これが少々やっかいで、自分の悪夢に囚われた仲間たちは、僕を敵だと思い込んで攻撃してきた。
マナミア、セイレン、ジャッカルを正気に戻して、エルザを起こしたそのとき、十分に成長した繭がその正体を表した。巨大な魔物は、さらに腹を満たすため、僕達の心のみならず肉体まで食らおうと襲い掛かってきた。
「おいでなすったぜ!」
セイレンとエルザが迎撃の構えを取る。
魔法の詠唱を始めたジャッカルとマナミア、だがルナの姿が見えなかった。
「ルナ!?」
まさか、と腹の底が冷える。そんなはずない。
エルザが魔物の注意を引き付けている間、僕はルナの姿を必死に探した。
「ルナ! どこにいるんだ!」
ルナは柱の影にいた。目は開いているけれど、返事をしない。まさかまだ悪夢を見続けているのか。
「ルナ、起きろ、ルナ!」
僕を敵だと認識して攻撃してくる可能性があったが、そんなことに構っていられない。一刻も早く目を覚ましてやらなければならなかった。時間が立てば立つほど、命を食われてしまう。
「ユーリス! 気をつけて!」
マナミアの悲鳴にはっとする。
魔物が僕の声に注意を取られて、こちらへ腕を伸ばしてきた。柱が崩れ、かけらが降り注いでくる。ルナはそれに気づいた様子がない。僕はルナの身体を引き寄せて、柱を避けつつ魔物から距離を取った。
「こっちだ、化け物!」
エルザが力を発動し、魔物に剣を叩き込む。だが、魔物の表皮は硬く、ちょっとやそっとの攻撃では倒せそうもない。
ルナの身体を抱え直して、その冷たさに驚いた。
よく見れば、唇は色を失ってる。頬を叩いてみたけれど、なんの反応も返さなかった。瞬きすらしない瞳は虚空を見つめたままで、まるで人形か――もしくは。
「まさか……そんな。そんなわけ」
どうして攻撃してこない? 他の皆は、悪夢に囚われて、その悪夢を打ち払うために剣を抜いた。
どうして目を覚まさない。いったいどんな悪夢がルナの心を飲み込んでしまったっていうんだ。
「ルナ、ルナ! おい、おいってば!」
「ユーリス! ぼさっとすんな!」
ルナに気を取られて、敵のことをすっかり忘れていた。セイレンに蹴飛ばされるようにして、その場から離れる。一瞬後、僕達がいた場所に魔物の攻撃が降り注いで地面をぐちゃぐちゃにえぐった。
魔物の射程外までなんとか移動して、しっかりとルナの身体を抱え直す。力が完全に抜けて、ぐったりとしていた。
ますます体温が下がったような気がする。
嘘だろ、そんな。そんなわけ。
「ルナ、頼む、目を覚ましてくれ、ルナ」
小声でルナの名前を呼びながら、暴れまわる魔物を睨みつける。あいつがルナに悪夢を見せ、その生命を奪っている。ルナの魂を引き戻すには、あいつを倒すしかない。
そっと眼帯に指を這わせる。
あの時……ルリ島の崖に現れるリザードを追い払うために向かった任務で、初めて使った大技。
あんな力が自分にあることを、あのときに知った。
身体の底から沸き上がる破壊の衝動。すべてを燃やし尽くさずにはいられない、怒りの激動。
発動の瞬間の魔力の高鳴りと、高揚感を思い出すと身体が震える。
あのまま、自分まで魔力に飲み込まれて、右目に埋め込んだ石にすべてを吸い尽くされ、燃え尽きてしまいそうな恐怖があった。
本当は、発動の前後のことはよく覚えていない。あのときはただ無我夢中だった。ただルナを守りたい、その一心だった。
でも、今度は違う。
力の暴走じゃない。
自分でコントロールできる。してみせる。
「この力は……守るために」
君を死なせたりはしない。
ルナの身体を、そっと地面に横たえる。
眼帯の結び目に手を添える。足の先まで、あふれんばかりの魔力が漲っている。
詠唱を開始する。大きな力を感じ取って、魔物はエルザから僕へと目を向けた。
異質な、異形の恐ろしい目。
そうだ、僕はお前を滅ぼすもの。
僕こそお前の敵に値する者。
僕の持てる力すべてで、お前を燃やし尽くしてやる!
「来たれ、メテオ! 全部灰にしてやれ! ヒャッハァーッ!」
前回以上に強力な炎が僕の命令に従い、魔物へと降り注ぐ。すべてを溶かす炎が魔物を一瞬で包み込んだ。
炎で身動きが取れなくなった魔物を、頭上から降り注いできた大剣が貫いた。エルザたちはこれを狙って、魔物を誘導していたんだ。天井から突き出ていた大剣は見事に魔物を地面に縫い付けた。それでもまだ息がある。魔物にエルザがトドメを刺し、とうとう消し去った。
「やったな、これで――」
「ユーリス、ルナは?」
「ここにいるよ、ねえ、ルナ……」
眼帯を付け直しながら、マナミアに答え、岩陰に横たえたルナを振り返る。魔物は倒した。きっとすぐに、ルナは息を吹き返す。
ルナは、ゆっくりと瞬きをした。
「ルナ!」
僕はルナに駆け寄る。
起き上がるのに手を貸そうとして、立ち止まった。
立止ざるを得なかった。
冷たい目。すべてを拒絶する、底冷えするような眼差しが、僕に向けられていた。
「ルナ……?」
「触らないで」
まるで別人の声のようだった。なのに、その声は間違いなくルナの口から発せられている。
何が起きているのかわからなくて、僕は戸惑った。
「ユーリス、待って、何か変だ」
「っ、ルナ、目が覚めたんだろ?」
エルザに肩を掴まれる。それを振り払うように一歩踏み出した。不安に鼓動を早める心臓に息を詰まらせた。
どうして、そんな目で僕を見るんだ?
僕は敵じゃない。よく見ろよ、ルナ。
「僕だよ、ルナ!」
「来ないで!」
ルナは腰から剣を抜き払った。
エルザが僕を後ろへ引っ張る。僕が立っていた場所に、容赦のない突きが刺さった。
「どうしちまったんだよ、ルナ!」
「大変――魔物の夢に深く囚われすぎたんですわ」
セイレンとマナミアも、ルナの異変に顔を青ざめさせた。
「どうすればいいんだ? あいつを倒したってのに……戻らないなんて」
ジャッカルがマナミアとルナの顔を交互に見る。
セイレンはジャッカルと目が合って、困ったように唇を尖らせた。
「あたし、やだぞ。ルナと戦うなんてよ」
「俺だってやだよ」
「でも、このままじゃ俺達も危ない」
エルザは迷いながらも、皆を守るため剣を構えようとする。
ルナに剣を向けるなんて、そんなのだめだ。
僕はエルザより前に出て、ルナの正面に立った。
ルナは感情のない能面のような顔で、僕を見据えた。ぞくりとする。まるで、倒すべき敵を前に、心を押し殺して挑む暗殺者、そのものの態度。
「ユーリス、無謀だ!」
剣を振りかぶるルナに対して、僕は構えを取らなかった。
さっきは驚いて何もできなかっただけだけれど、今度は違う。
僕は意識して、ルナの剣の前に身を晒した。たとえエルザでも、ルナに剣を向けるなんて許さない。
信じられないほど無遠慮に向けられた殺気に、足が震え出しそうだった。本気だ。本気でルナは、僕を殺そうとしてる。必死に腹に力を込めて、逃げ出さないよう、目を逸らさないよう、自分を励ます。
怖くなんかない。所詮ルナだ。いくら睨んでみようが、本気を出そうが、ルナは僕達の中で一番弱いんだ。
力もないし、魔力も少ない。
幼いし、身体も小さいし、それなのにこんな殺気纏ったりして。まるで追い詰められたネズミみたい。
はっきり言って、似合わないよ。そんな表情も、孤立無援で、全てを拒絶しようとするような態度も。
全然君らしくない。
「ルナ」
「来ないで、もうここには戻らないの。私は上へ行くの――太陽のある場所へ!」
ルナの悲鳴のような悲痛な叫び。ルナの顔が歪む。ルナの痛いくらいの思いがまっすぐに僕の心に突き刺さって、気がついたら、僕の頬を涙が伝っていた。
苦しみ。絶望。失意。
こんな辛さを、君はずっと抱えていたのか。
「……そうだよ、行こう。僕と一緒に」
行こう、ルナ。
もう、絶対に君を暗闇になんかいかせないから。
一人になんか、させないから。
僕が君を、守るから。
ルナの剣が、振り下ろされた。
切っ先が、僕の首の付け根に触れる寸前、止まる。冷たい刃は震え、怯えていた。
僕は、震えるルナの身体をゆっくりと抱き寄せる。細い背中に腕を回して、なめらかな首筋に頬を寄せた。
こんなに怯えて。
こんなに、震えて。
可哀想だ。ルナ。でも、もう大丈夫だから。僕がいるから。
こうして支えて、温めてあげるから。
わかる? ルナ。
ねえ、聞こえてる?
聞こえてるなら、そろそろ目を覚ませよな。
「……?」
微かにルナが声を発した。途端、ふっと僕の腕の中で、ルナの身体から力が抜ける。
カラン、と剣がルナの手から落ちて、ルナは気を失った。
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