人魚は歌わない
ひょい、と膝の上のスケッチブックを覗いて、
「まだ、この絵?」
白い歯を見せて笑った。
海を望む岩場の上で、紙面の半分以上を占める水の流れを見つめる人影。
水面は、霧のかかったように薄くぼやけて波間に描いた小さな影は、人なのか、魚なのかも判別できない。
「こんな風に広い所で泳いだら、気持ち良さそうだなー」
プールの見えるこの場所でスケッチする僕を、彼が見つけてくれたのは夏のはじめだった。
あれから、もうすぐひと月が経つ。
一学期が終わり、夏休みに入っても。
美術室のクーラーが壊れても、どんなに暑くても。
部長でも何でもない僕が、自由参加の部活に参加し続けるのは、彼がいるから。
「ずっとこんな所にいたら、熱中症になるぞ。水分とったか?」
存外世話焼きな彼の言葉は、ぶっきらぼうなようでいで、酷く優しい。
「忘れてた」
「だと思った。ほら」
僕の返事を予想していたのか、差し出されたのは、小さめの水のペットボトル。
「ありがと」
短い謝辞を述べて、キャップをひねる。
口をつけようとしたら、右の肩に重みがかかった。
「俺は昼寝するから、十五分くらいしたら、起こしてー」
「…誰か来たら、どうするの?」
紙の上でなら、想いを紡いで絵にすることはできるけれど、空気に触れると言葉もままならない。
彼の髪が、自分の頬に触れただけで、こんなに嬉しいのに。
「その時は、その時」
小さく言って、彼が笑うと。
甘い、水の匂いがした。
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