人魚は歌わない
プールの敷地を囲ってぐるりと張り巡らされたフェンスの内側は別世界だ。
例えるなら、深海を行く潮の流れと、空を舞う鳥に遊ぶ風。
眩しいばかりの別世界の中。
辛うじて顔を判別できるくらいの距離なのに、たった一人の姿だけは自然と眼にとまる。
想像の翼だけを頼りに、白い紙の上を飛ぶように。
自らの四肢を頼りに、光る水の中を彼は泳ぐ。
日に焼けた肌に、きらめく飛沫を纏わせて、何度も水の中へと飛び込む背中。
丸い真珠が水に溶けて、弾ける音までもが聞こえてきそうだ。
彼の背中を追い、水の温度と感触を想像しながら、僕は夢中になって筆を走らせた。
スケッチ用の濃いめの鉛筆で紙の中の世界の水の流れの虜になっていると、いつの間にか太陽は中天を過ぎていた。
あんなに賑わっていたプールの波間にも、人影は見えない。
昼ご飯を食べているのか、それとも、今日の練習は午前中で終わりなのか、知る術のない、紙の中の住人だった僕。
スケッチにしては、書き込み過ぎた自分の手元を見ていると、真正面から声がかかった。
「まだいたのか」
水の中の彼が、制服姿で急に目の前に表れたので、僕は反応しきれずにうん、と頷いただけ。
「今日は何描いてたんだ?」
眩い光を背に、極めて自然に僕の隣に肩を並べる。
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